共犯者

「あ……」
 オーベルシュタインの顔は蒼白に震え、よろよろと彼は後ずさった。
 その前には、胸にナイフを刺された男性がいる。男性は『どうしてこんなことに』といった驚愕の表情を浮かべ、真ん丸の目でソレを見下ろしている。
 やがて、男性はゆっくりと倒れ伏した。
「……ぐ、う……」
 オーベルシュタインが呻く。吐き気を催し、胸を押さえる。だが、ここで吐いたりして、決定的な証拠を残す訳にはいかなかった。
(私が決めたことだ。自分でやったことだ。これは……)
 ドクドクと激しく巡る自らの血流を感じながら、オーベルシュタインはそう自らに言い聞かせる。

 目の前で倒れている男は、オーベルシュタインにストーカー行為を働いていた人間だった。……少なくとも、そうだと思われた。
 この男は、おなじ男であるオーベルシュタインを、何故かいたく気に入ったらしかった。
 仕事帰りには、駅から家まで跡をつけてきた。洗濯物を干そうと窓を開ければ、たびたび監視された。郵便受けを漁られた気配もあった。
 手紙も届いた。相手にとってはラブレターなのだろうが、オーベルシュタインにとっては恐怖の手紙だった。真面目に読めば読むほど、彼は吐き気を催した。
 警察は、オーベルシュタインを相手にしなかった。ストーカー規制法ができて、以前よりは対策されるようになったとはいえ、まだまだ課題は多い。駆け込んだのが女性であっても、「事件が起きるまで対応できない」と門前払いを食うこともあるという。それが、さえない中年男性ともなれば、被害妄想と断じられて終わりだった。
 誰に相談しても笑われるだけで、結局、一人で耐える他なくなった。何度、震えて眠れぬ夜を過ごしたことか。何度、職場に突然かかってくる無言電話に恐怖したことか。
「相手を殺すしかない」
 それが、追い詰められた彼の結論であった。

 こんな奴の為に警察に捕まるなど、まっぴらであった。元はといえば、きちんと制定されていない国の制度が悪い。
(隠そう。この男の死体を。どうする? まだ人に見つかってはいないが、時間の問題だ。近くの山まで運んで――)
「おれが処分しておいて差し上げますよ」
 背後から声がした。すぐ近くからだ。
 オーベルシュタインはバッと振り向いた。まったく気配を感じなかった。そこには、パーカーシャツを目深く被った、青年らしき男性が一人立っていた。
 フードの下から覗く顔は端正で、緑の目には、粘着質な光が宿っている。
 オーベルシュタインは震えた。その眼光に、見覚えがあった。
(こいつだ。私を、付け回していたあの目は……これだ!)
(私は、誤った相手を殺したのか……!?)
 そして、瞬時に悟った。このストーカーの本当の狙いを。
 ストーカーがニッコリ微笑む。
「ちゃんと準備してありますからね。証拠も完璧に消せます、保証しますよ」
 緑目のストーカーが、ゆっくり近づく。オーベルシュタインは動けなかった。息づかいが頬に感じられるほど、顔を寄せられる。
「これでおれたち、共犯者……一蓮托生、ですね♡」
 ゾッ、と、オーベルシュタインの背筋に寒気が走った。
 呆然として固まったままのオーベルシュタインから離れ、ストーカーは、てきぱきと被害者の遺体を運び、すぐそばに停まっていたハイエースにヒョイと積み込んだ。
 そして、大袋とホウキ・ちり取りを持ってきた。地面の血溜まりに、袋の中身をぶちまける。中身は、なんらかの薬品らしき粉だった。凝固剤らしい。粉で血溜まりをすっかり覆い隠し、粉を掃き集めてしまうと、犯行現場は、何の変哲もない道に早変わりしていた。
「さあ、お掃除完了です。これを処分してきますから、いいこでお家で待っていてくださいね。大丈夫、パウルを警察になんかやりませんから」
 そう、ウィンクしつつ言う。オーベルシュタインは、安心したとは言いがたかった。
(一体、何者なのだコイツは……私は、名前すら知らないというのに)
 すると、心の声を聞きつけたかのように、去り際のストーカーは振り向いた。
「そうそう。おれの名は、アントン・フェルナー。フェルナーでもアントンでもトニーでも、好きに呼んでください♡ それじゃ」
 ブロロロと車のエンジンが鳴り、車体と死体をすべて運び去っていく。

 本当の地獄はここからだ、と、オーベルシュタインは確信していた。
      *
「おはよう、パウル」
 ちゅ。
「ッ!!」
 オーベルシュタインが飛び起きる。顔面は蒼白で、心臓は突然の全力疾走を強いられ、バクバクと暴れていた。
 一人暮らしのオーベルシュタインは、朝の接吻を寄越してきた侵入者を見やった。そこには、エプロン姿のアントン・フェルナーがいた。
「よく眠っていましたね。朝ご飯、できてますよ♡」
「お、おまえ……なぜ……家、鍵……」
「ん? 鍵ですか? 遅くなってしまいましたからね。扉の鍵、締まっていましたけれど、合い鍵つかって入りました♡」
「なぜ私の家の合い鍵を持っている!?」
「ちょっと借りて、作っておきました♪ だって、これから一緒に住むんですから。合い鍵くらい必要でしょう?」
「一緒に住む!? 冗談ではない、どういうことだそれは」
「だって、パウル。知っていますか?」
 フェルナーが、自分の唇の前に人差し指を立てる。
「〝共犯関係は、人間関係の中で最も強い〟」
 ぞっ、と、オーベルシュタインの背筋に悪寒が走る。昨晩のことが脳裏に蘇っていた。
 埋まるナイフ。血を流して倒れる相手。恐らくは、この男に仕組まれ、自分が殺してしまった、あの男性。
 うっ、と、オーベルシュタインは嘔吐しかけて呻いた。そんな彼の背中を、当のフェルナーが優しく撫でる。
「っ……さわるな……」
「朝食は、もっと消化にいいものにしたほうが良さそうですね。おかゆにしましょう。用意したものは、お昼に食べてくださいね。すぐ作ります。待っててください、パウル」
「……っ、勝手にっ……家を、あさるなっ……!」
「あさるだなんてそんな。掃除して、必要なものを買い足して、ご飯を作ってあげるだけですよ。良い伴侶でしょう?」
「伴侶……!?」
(やはりこいつおかしい。イカれている。しかも、頭がよく回るらしい。厄介な相手だ)
 しかし、オーベルシュタインには対応策が浮かばなかった。
 既に弱みを握られている。変に拒絶したなら、どうなるか。ストーカーは健在のまま、自分が、罪のない男性を殺したことを明かされてしまう。
(これからずっと、このイカれた男と同居しなければならんのか?)
 その考えには嫌悪しか覚えなかった。
 夜になると、状況は悪化した。風呂に割り込んできて「背中を流す」と言い出し、寝床に入って背中を抱いてきた。体を求められなかったことはせめてもの救いだったが、この様子では、そうなるのも時間の問題だった。
 しかし、現在の所、オーベルシュタインに他の選択肢はなかった。

      ***

 フェルナーが出入りするようになってから一週間ほど経ったある日、オーベルシュタインは、学生時代の古い友人から連絡を受け、相手と外食することにした。余計なことをされぬよう、フェルナーにも「友人と夕食をとってくる」と宣言しておく。
 待ち合わせ場所には、既に友人が待っていた。以前と変わらぬ友人の様子に表情を緩ませ、オーベルシュタインが手を振る。
「待たせた」
「大丈夫だ。……うん? そいつは?」
 友人が、オーベルシュタインの背後を指さす。オーベルシュタインは、サッと血の気を引かせた。
 振り返ると、緑目の男が、愛想良く笑って立っていた。
「初めまして! パウルの友人のAさんですよね? お噂はかねがね! おれは、パウルとお付き合いさせてもらっている、アントン・フェルナーと申します。以後お見知りおきを」
「へえ? オーベルシュタインに恋人ができてたなんて、知らなかったな。こちらこそよろしく」
「はい!」
 友人とフェルナーが笑顔で握手する。その光景を、オーベルシュタインは絶句したまま見ていた。
「……ん? オーベルシュタイン、どうして青ざめているんだ?」
 友人が彼の様子に気づき、声をかける。オーベルシュタインは、幽霊でも見たような顔色で『恋人』を凝視していた。
「……本当に恋人か?」
 さすがの友人もいぶかしみ、フェルナーから距離をとる。だが、フェルナーは余裕の表情だった。
「もちろん。そうですよね? パウル」
 彼が意味深に目配せをする。目は、こう言っていた。
『友人に犯行をばらされたいですか?』
「……あ、ああ。そう、だ……。今日、連れてくるつもりは、なかったので……驚いた」
 オーベルシュタインは、途切れ途切れにそう応じた。フェルナーがにっこり微笑む。
「すみません。話を聞いて、どうしても会ってみたくなりまして。よろしければ、本日の夕食をご一緒させてもらえませんか?」
「……お、おう。構わないが……」
「やった♪ ありがとうございます」
 そう応じると、フェルナーは、オーベルシュタインの腕を取り、恋人然として自分の腕と絡めて歩き出した。引きずられるように、オーベルシュタインも歩いた。
 友人は不審に思ったが、なにも決定的な証拠がない為に、さしたる対処をとれなかった。
      *
 いつの間にか、住まいとしている賃貸アパートの近所でも、フェルナーが愛想良く挨拶して回っていた。「自分はパウルの恋人だ」という自己紹介つきで。
(私と奴が、付き合っていることにされていく……)
 夜になると、フェルナーは許しもなくオーベルシュタインの寝床に入り込んでくる。身を強ばらせる彼の背中に抱きつき、「愛しいパウル。おやすみ、良い夢を」と囁く。
(見るとしたら悪夢だろうな)
 オーベルシュタインは、心の中でそう応じた。
(いや……。今まさに、悪夢を見ている)
 そう、自嘲気味に軽く笑い声をあげる。
 フェルナーは、そろりそろりと服の中に手を入れ、中の肌をなでてくる。そろそろ慣れた頃合い、と、考えているのかもしれない。
 オーベルシュタインに、限界が近づいてきていた。
(このような屈辱を味わうくらいなら、いっそ……)
 そう考えながら、なんとか眠りについた。
     *
「ちょっと買い出しに」
「おや。行ってきますのに」
「……自分で行く」
 そう言って家を出る。
 おそらく、フェルナーは跡をつけるだろう。オーベルシュタインはそれも想定済みだった。とにかく警察に駆け込んでしまえば、どうとでもなる。
 背後を何度も振り返り、フェルナーの位置をさぐる。ついてきていないように見える。
(そうであればよいが、きっと来ている)
 警戒を悟られぬよう、それ以上は背後の確認を諦める。とにかく、最短距離で最寄りの交番に向かう。
(自首する。言うんだ。私がやりました、と)
 自然と足が速まる。誰かの気配が近づいてくる。駆け足に変わる。おいつかれまいと走る。
 しかし、肩を掴まれ止められた。強く引かれ、体が後ろに倒れ込む。それを、背後の人物が支えた。振り返らなくても、オーベルシュタインには、それが誰か分かっていた。
 振り返って文句を言おうとする。しかし、『バチン』という大きな音と共に衝撃が走り、目の前が真っ暗になった。
      *
 目が覚めると、見知らぬ部屋にいた。手足を動かすと、じゃらりと音が鳴る。枷がはめられていた。繋がった鉄の鎖は、ベッドに括られている。
「お目覚めですか?」
 角の向こうから、聞き慣れた声がした。あの、自称恋人が――イカれた緑目のストーカーが、こちらに向かってきた。
「これは何の真似だ?」
「パウルが逃げないようにしました」
 悪びれた様子もなくフェルナーが応じる。オーベルシュタインは顔を歪めたが、それも気に留めていなかった。
「これが『恋人』や『伴侶』とやらのすることか?」
「仕方がないでしょう。あなたが、おれと離れようとするのですから」
「なにが『仕方ない』だ。いい加減にしろ」
 オーベルシュタインが低い声で言う。フェルナーは悲しげな表情を浮かべ、ベッドに更に近づき、脇に座った。
「寄るな」
「……寂しいですねぇ。おれを覚えていないのですか?」
 フェルナーがそう言い、手の甲でオーベルシュタインの頬をなでる。彼は顔をしかめ、振り払うように顔を振った。腕は、拘束されていて届かなかった。
「お前など知らない」
 オーベルシュタインはぶっきらぼうに応じた。
 何度も考えたことである。この、執着心の塊のような、そのくせ腹の立つほど美形の同性愛者は、いったいどこで自分を知ったのだろう、と。だが、記憶をどう辿っても、この男に覚えはない。
 フェルナーは、失望したように溜め息をついた。
「まあ、そうでしょうねえ」
「……お前は、どうして私に拘るのだ?」
 さほど興味はないが、解放してもらえそうにないので、オーベルシュタインはそう尋ねてみた。もしかすると、誰かと勘違いされているかもしれない。
 フェルナーは、にっこりと応じた。
「前世で貴方と、一緒に過ごしていたのですよ」
 駄目だコイツ、と、オーベルシュタインは一瞬にして悟った。
 フェルナーは構わず続けた。
「ですが、とある悲劇のせいで、死に別れることとなりました。今世で貴方を見つけた時、決めたんです。『今度はずっと側でお守りする』と」
 フェルナーが再び手を伸ばす。大切なものに触れるように、その手が相手の頬を優しく撫でる。
「思い出せなくとも構いません。おれを好きになって貰えたら嬉しいです。……が、生きているだけで……お側に居られるだけで、いいですからね」
 緑の目がギラリと猟奇的な光を放つ。
『前世の自分も、こいつから逃げようとしたのではないか』という考えが、絶望の中、オーベルシュタインの脳裏に浮かんだ。

Ende