天使と悪魔の邂逅

 柔らかな日光が暖かく降り注ぎ、小鳥のさえずりが何処からか響いている。枯れることのない草木がさざめき、心地よい香りを風に乗せて送ってくる。そよ風に吹かれ、色とりどりの花々が揺れている。そこでは、四季の概念がなくなったかのように、あらゆる季節の花が同時にみずみずしく咲き誇っていた。
 死者の休息地、穏やかなる常世、天上ヴァルハラの片隅において、オーベルシュタインは屋外に置かれた椅子にゆったりと背中を預けて座っていた。彼の目は、腿の上に置いて開いた本のページへ向けられている。鳥の声、木々のさざめきの他には、彼がページをめくる音だけが響く。
 ふいに、近くの芝生が踏まれる足音が聞こえ、それが自分に向かってきているのを感じ、オーベルシュタインは本から目を上げ、足音の主へと視線を向けた。
 そこに居たのは、燃えるような赤毛を持ち、人の良さそうな微笑みを湛えた、長身の好青年だった。

「…ジークフリード・キルヒアイス…大公」

 思い出したように、彼が死後に得た階級を付け加えながら、オーベルシュタインは相手の名前を呼んだ。キルヒアイスは、生前と同じように礼儀正しく、丁寧な礼で応えた。

「オーベルシュタイン元帥。お邪魔でないとよいのですが」
「いいえ。本を読んでいただけですので。もう、なにかを邪魔だと思うほど、すべきことはございませんから」

 彼は、いや、彼らは、生者が縛られる、あらゆる束縛から解放されてそこにいた。もう、しなくてはならないことは、何もない。オーベルシュタインは、劣悪遺伝子排除法を、ゴールデンバウム王朝を消すことができた。その後も、彼の生涯を賭した作品──ローエングラム王朝と、皇帝ラインハルト──を、可能な限り完璧な形に仕上げるべく、できることはすべてやってきた。そして、ここへ来たのである。

「こうして2人でお会いするのは、初めて会ったとき以来になりますね」
「…そういえば、そうなりますな。遠い、昔のようです。あのときは、ラインハルト・フォン・ミューゼル…改め、ローエングラムとなった人物を探るべく、貴方に接触しました。彼が姉君への寵愛のみで成り上がった人間などではないことは、貴方という部下を見て、すぐに理解できました」
「そんな話を、されておりましたね」
「はい。貴方は、警戒しておいでだった。そのことが一層、貴方が優秀な人材であることと、そんな貴方が仕えるローエングラム候の力量が大きいということへの、確信を強めました」
「警戒されるほうがよかった、ということですか。貴方は随分、穿った見方をなさるのですね」
「恐縮です。ところで、私に何のご用件でしょう」

 自分などに関わらずとも、半身の友たる皇帝ラインハルトと共に、解放された喜びを分かち合い、幸せに過ごされたら良いのに。
 生前はキルヒアイスに風当たりの強い態度をとってはいたものの、オーベルシュタインは決してこの赤毛の好青年を嫌っていたわけではなかった。むしろ、あの腐った銀河帝国の中で、よくぞこれほど好感の持てる人間が育ったものだ、と、感心すらしていた。
 しかし、彼はキルヒアイスをナンバー3にしなければならなかった。ローエングラム陣営を、強固なものとするために。ゴールデンバウム王朝を斃すために。その後、ローエングラム王朝を確固たるものとするために。なので、キルヒアイスを特別扱いしないよう、ラインハルトに進言し続けた。式典への銃の持ち込みも、当然、彼に許したりしないよう求めた。
 そして、彼は死んだのだ。

「折角陛下とふたたび相見えることができたのです。私などに関わらず、今度こそ、彼と共に幸せに過ごされてはいかがでしょう。陛下も、貴方も、もう何ものにも縛られてはおりません。どうぞ、お心の赴くまま、お好きにお過ごし下さい」

 オーベルシュタインがそう言うのを聞くと、キルヒアイスは、くすくす、と笑った。嫌な感じのする笑い方ではない。自分にはできない芸当だな、とオーベルシュタインは考えた。

「どうして、私が心の赴くまま、自分の好きでここへ来た、とは、お考えにならないのです?」

 オーベルシュタインは驚いたように微かに義眼の両目を見開いた──ここでは、望みさえすれば目を生身の目にすることも叶うが、彼の目は義眼のままだった。しかし、すぐにその微かな驚愕も消え去り、平静そのものの声で応じた。

「……ふむ。私の行いへの、苦情を言いに来られたのでしょうか。それとも、復讐ですか?貴方の、死の原因の一端を担ったことへの。あるいは、陛下を唆し、非道な行いに導いたことへの」
「いえ、いえ。ふふ、違いますよ。本当に、穿った見方ばかりされますね。私はただ、貴方に感謝を伝えに伺ったのです」
「感謝?」
「ええ。私は貴方に感謝しています。ラインハルトさまを、お守りしてくださって」

 異様に好意的なキルヒアイスの言葉に、オーベルシュタインは訝しげに眉をよせた。

「…これはまた…随分と好意的な見方をなさいますな。何が目的です?」
「なにも他意などありませんよ。ここから、現世を眺めたことはございますか」
「…いいえ」
「やはり。見たいと思わなければ、見えませんからね。…私は、ここへ来てすぐ、現世を覗く手段をみつけました。ラインハルトさまのことが、気がかりで仕方なかったものですから」

 そう言うと、キルヒアイスは少し気恥ずかしそうに苦笑してみせた。

「ここから現世を覗くと、世界のあらゆる場所、過去も未来も、すべてを見通すことができるのです。オーベルシュタイン元帥、貴方の行動も…過去も、すべて見ました」
「……ほう。私を。…貴方が、ですか」
「はい。…生前の私は、貴方にただただ、不吉な闇をしか見出だせませんでした。いえ、自分にはむしろ、ラインハルトさまとアンネローゼさま以外、何も見えてはいなかったのかもしれません…」
「それは少々、謙遜しすぎではございませんかな。少なくとも、貴方は将官として有能でおいででした。2人の人間しか見えぬ者よりは、生前も広い視野をお持ちだったでしょう」
「そう言って頂けるとは、ありがたいことです。ですが、貴方の中にも正義があるということには、気づけませんでした。…そしてあのとき、ヴェスターラントへの攻撃を黙認するという決断をされた、ラインハルトさまのお考えを理解することも、私にはできなかった。その意味でいえば、私は、ラインハルトさまのことすら見えていなかったのかもしれません。
 私は、例えあの後、かえって犠牲が増える可能性があったのだとしても、民衆を切り捨てる選択はすべきでないと思いました。今でも、そのことに変わりありません。しかし、犠牲を増やさないために攻撃を黙認した、という選択が、全くの間違いだと決めつけたことは…今では、浅はかな考えだったと思います。
 ラインハルトさまとの間の不和は、そうした私の浅はかさによってできた。私にもっと理解する力があれば、我々の間に不和はなかったかもしれない。…ラインハルトさまに、お辛い思いをさせてしまったことは…私にも、責任のあることでした」

 赤毛の青年は、人好きのする顔に悲しげな表情を浮かべてみせた。

「…そして、貴方にも、申し訳ないことをしてしまいました」

 彼よりも年嵩の半白の頭髪の男は、青年の言に軽くかぶりを振ってみせた。無機物のはずの義眼の光が、どこか温かみを帯びてみえた。

「なんの。私とて、世界のすべてを見通せたことはありません。貴方には貴方のお考え、私には私の考え、そして、陛下には陛下のお考えがある…人は皆、違った世界が見えており、それぞれ異なる考えを持つ。異なれば、摩擦も生じる。しかし、それでよいのです。
 ……貴方は、あまりにも早く亡くなられましたな」
「……ええ」

 赤毛の青年は頷いてみせた。かつて、敵にすら親愛を抱かせた青年の暖かな生身の瞳と、味方にすら憎悪を抱かせた男の冷徹な義眼の瞳が交差する。現世においては決して理解しあうことの無かった2人が、今ではお互いへの理解を抱いていた。

「貴方ははたして本物のキルヒアイス大公なのか、それとも、私の無意識下の望みか何かが具現化してできたものなのかは存じ上げませんが、ご訪問に感謝します、キルヒアイス大公」
「ふふふ。私は本物ですよ。…実は、他にも用件がありまして」
「なんでございましょう」
「ラインハルトさまが貴方をお探しです、オーベルシュタイン元帥。一緒に来て頂けますか」
「…ほう。…ふむ、陛下がお召しとあらば、謹んで参上せねばなりますまい」

 オーベルシュタインが答えるのを聞くと、キルヒアイスは微笑み、片手を少し上げて行き先を示した。先導するキルヒアイスに続き、オーベルシュタインは彼の憩いの場を離れ、目的地へと歩みを進めた。彼が離れると、先程まで彼が使っていた椅子も、テーブルも、読んでいた本も溶けるように消えてなくなった。

「ここでは時間の流れがわかりませんが、随分長く探しておいでなのですよ。諸提督方にも、同盟の方々にすら手伝って頂いていたのですが、誰も貴方を見つけられませんでした。ラインハルトさまに会われたくなかったのですか?」
「……私に会わぬほうがよいと思ったまでです。もはや、彼の周囲には陰謀も王朝もない。この上、私などが傍にいたところで、只々迷惑というものです」
「そのように思われていたのですね」
「まさか、私をわざわざ探しておいでとは。理由をご存知ですかな」
「それは当然、貴方は忠臣なのですから。会いたいと思われますよ」
「…………」
「本当ですよ」

 訝しげに黙ってしまった元帥の様子に苦笑しつつ、キルヒアイスは彼を先導して歩いていった。

──────────

 美しい常春の森の中、そよ風に撫でられながら小道を進む2人の前に、石でつくられた水盆が姿を現した。それを見たキルヒアイスは、水盆の傍に立ち止まった。興味深げに水盆を見ながら、オーベルシュタインもその傍に止まる。

「これが現世を覗くことのできる水盆ですよ、元帥。…もしや、先程の私の話を聞いて、現世に興味を抱かれましたか?」
「…実は、少々。陛下をお待たせしてはならないとは思いますが」
「少しくらいでしたら、そう変わらないでしょう。何をご覧になりたいのです?」
「大したものではございません。ただ、部下はどうしているか、と…」

 オーベルシュタインがそう言うと、水盆に張られた水の面がゆらぎ始めた。やがて、覗き込む2人の顔を映していた水面が、全く違う景色を映し出した。そこに映っていたのは、墓場と、癖のある銀の頭髪をもつ、軍服姿のすらりとした男性の姿だった。
 フェルナー准将──今はもっと上の階級に昇格したかもしれない──彼が誰かの墓の前に立ち、花を供えている姿が映し出されていた。誰の墓だろうか、と墓碑銘に視線を向けると、『パウル・フォン・オーベルシュタイン』と刻まれていることが読み取れた。
 自分の墓。彼は長いこと自分に仕えていたし、別に不自然でもなんでもないのだろうが、それでも、自分の墓参りに彼が来ている、ということが妙に意外に感じられた。

『あれから、もう半年以上も経つのですね。早いものです』

 水盆の中のフェルナーの声が響いてきた。彼の周りには、誰もいない。墓に向かって独白しているようだ。

『ちゃんと諸提督方と仲良くやってます?また憎まれ口たたいて、嫌われてませんか?』
「余計なお世話だ」

 生者の部下の独白に答えるオーベルシュタインをみて、キルヒアイスは思わず笑いを洩らした。

『この世には、敵にも味方にも閣下がお嫌いな人が多くおりましたがね。小官には、どうも、閣下がいない世界に張り合いを感じられませんよ。ま、そうはいっても、殉死する気はさらさらございませんけどね。そういうのは小官の性に合いませんし、第一、閣下もそういう無意味な忠義の尽くし方はお嫌いでしょう?
 貴方が創り、支えたこの帝国で、もうしばし微力を尽くして働いて生きていますよ。それでもって、その他の人生の楽しみも閣下の分までたっぷり味わって、シワだらけの爺さんになって、大往生したらそちらに伺います。閣下への土産話をたっぷりもってね』

 変わらず、人をくったような態度の銀髪の部下はそう独白すると、オーベルシュタインの墓碑へ向かってサッと敬礼し、くるりと墓に背を向けて歩き去っていった。

「良い部下をお持ちになられましたね」

 キルヒアイスにそう言われ、オーベルシュタインは水面から目を上げた。感情を表に出さない彼の顔に、僅かに微笑が浮かんでいた。
 
「彼にはもう少し、胸の内を語ってやっても良かったやもしれません」
「きっと、お話しできますよ。彼がお爺さんになって、人生を終えてここに来たときに」
「そうですな」

───────────────

 やがて、キルヒアイスとオーベルシュタインが歩む先で森が途切れ、開けた場所があらわれた。そこには、宮廷の庭園のように美しく手入れされた生け垣や、きらめく湖、美しい山荘、そして、どこかで見たようなバラの生け垣も植わっていた。
 その場所は、多くの人々で賑わっていた。戦場に散ったローエングラム王朝の英雄たち、同盟軍の人々。金銀妖瞳のロイエンタール元帥、とぼけた学者ふうのヤン・ウェンリーも、その場に居合わせ、いがみ合う様子もなく、まるで古くからの友人同士であるかのように仲良く語り合い、思い思いに好きに過ごしている。
 その中心に、オーベルシュタインが生前長いことよく見ていた、金色の髪の青年の後ろ姿が見えた。その青年が、今しがた会話していた相手に背後を指差されるのをみて、後ろを振り返る。風に揺れ、なびく金糸の髪が、美しい風景によく映える。
 彼の主君、ラインハルト・フォン・ローエングラムが蒼氷色アイス・ブルーの瞳をこちらへ向け、彼ら2人の姿を視認した。

「キルヒアイス!ついにオーベルシュタインを見つけてくれたか!やはりお前は、どの世界でもいちばん頼りになる!」

 そう嬉しそうに言うと、ラインハルトは2人の元に弾むような足取りで歩み寄ってきた。オーベルシュタインは、うやうやしく右手を胸にあて、彼に頭を垂れて丁寧にお辞儀した。

「長らくお手数をお掛けしたとのこと、誠に申し訳ございません、陛下」
「まったくだ。現世の水盆を見ても、どうやら死んだらしいというのに、いくら探しても卿は見当たらぬ。私を避けていたのか?」
「私を見ずに済むほうが、よろしいかと思いましたもので」
「いらぬ気遣いだ。…卿らしくもない」
「そうですよ、元帥。もしや、二度と会いたくないと思うほど嫌われたのか、と気に病んでおいでだったのですよ」
「余計なことを言うな、キルヒアイス!」
「はっ。申し訳ありません、ラインハルトさま」

 謝罪しながらも、キルヒアイスは笑みを隠せずにいた。少年のように癇癪をおこすラインハルトもまた、何処か楽しそうである。騒ぎを聞きつけたのか、ロイエンタール元帥も彼らに近づいてきた。生前、憎んでやまなかった義眼の宿敵の姿を目にし、「ほう」と声を上げる。

「卿が天上ヴァルハラにいたとは驚きだ、オーベルシュタイン。陛下の御意を受けて嫌々ながら探してやっていたが、見つからぬので、てっきり地獄か何かに行ったものかと」
「卿がここに居るのだ。いわゆる地獄のような別の行き先は存在せんのだろう」
「言ってくれるな」

 不敵な笑みを返しながら、ロイエンタールは手に持っていたワイングラスを振り、その中の白ワインの水面を揺らして、一口飲んだ。中身は、彼のお気に入りの410年物である。掛け合う言葉こそ皮肉の棘を含んでいるものの、彼らの間には最早、生前あった敵意はなくなっている様子だった。

「それで、陛下。私をお探しだとキルヒアイス大公より伺ったのですが、ご用件はなんでしょう」
「うむ。……ああ、特に…用というわけでは……」

 ラインハルトは、思い悩むように目線を逸らし、片手を顎にあてて考え込んだ。しかし数瞬後、何か思いついたかのようにパッと麗しい美貌の顔を輝かせ、目を上げた。

「そうだ!そうだ。今日はな、キルヒアイスの誕生日なのだぞ!ここで再会してから、初めてのな!ここでは時の流れはあってないようなものだが、祝わぬ手はない。望めば、祝いの席もすぐ現れるだろう。…姉上のケルシーのケーキも出て来るのだろうか?試してみよう。卿も出席せよ、いいな?
 それか…そうだな…あるいは、三次元チェスのトーナメントをしてもよい。ヤン・ウェンリーめ、本物の戦場ではあれほど手こずらされたというのに、チェスでは存外張り合いがないのだ。どうだ、卿もやらんか?」
「…それでは、どちらでも、謹んで」

 オーベルシュタインが答えるのを聞き、ラインハルトは少しだけほっとしたような表情をみせた。ではこちらに来い、というラインハルトを先頭に、オーベルシュタイン、キルヒアイス、それにロイエンタールもついていった。

 死者の休息地、穏やかなる常世、天上ヴァルハラの片隅。そこでは、かつて仲間だった人々、そして敵同士だった人々も皆、すべてから解放され、穏やかに過ごしていた。

Ende