魔女の呪い

「かわいそうなラインハルト」
 花びらのように美しい唇に煙草をはさみ、吸い込んだ煙を、伏せった美貌の皇帝に吹きかける。一見、ゴロツキの挑発じみたその行動は、あまりにも目の前の女性に似合わず、医師たちは彼女を制止しそこねた。その間にもアンネローゼは煙を吸いこみ、もう一息、弟に吹きかけた。
 ようやく頭を現実に追いつかせ、状況を認識した医師団は、あまりに無体な姉君の行いをたしなめようとした。しかし、その行動を軍務尚書に手で制止される。
 彼が、ラインハルトのバイタルを測っている機器に指さした。低い値を示していた皇帝のバイタルは、健常者の値へと急激に回復していた。
「穢れを祓う効果がありますの」
 一見、普通の煙草に見えるソレを持ち上げ、アンネローゼが説明する。科学の徒である医師団も、目の前で証拠を見せつけられては文句を言えなかった。
「これで、ひとまず弟は大丈夫でしょう」
 バイタルを見ながらアンネローゼが言った。それから、軍務尚書に視線をうつす。
「『祓い』を始めます。わたしの知人はもう呼んでありますけれど、あなたにお願いしたいことがありますわ。軍務尚書」
 オーベルシュタインは、帝国最強の霊能力者である大公妃に、深々と頭をさげた。
「なんなりと」
***
 一番最初の被害者は、ビッテンフェルトであった。
 その出来事の発端は、彼の携帯端末への電話だった。『発信者非通知』でかかってきたその通話を、勤務後の空き時間であったこともあり、ビッテンフェルトは受けた。
『あなたがビッテンフェルト提督か?』
 電話の主は、そう問いかけてきた。男とも女ともつかぬ声であった。「そうだ」と彼が応じると、電話はプツリと切れてしまった。
 不審に思ったが、「いたずらだろう」と彼は深く気に留めなかった。
 しかし、その後、『ヒュン』と後ろから何かが空を切る音を聞き、動物的な本能でビッテンフェルトはとっさに身をかがめた。彼の頭上スレスレを何かが通り過ぎ、『ガシャン』と音を立てて向こうの壁に激突する。
「な、なんだ?」
 見るとそれは、つい先ほど使ったガラスのコップであった。コップは粉々に砕け、彼の自宅の床に無残に散っていた。
 バッと振り返り、それが飛んできた元の方向をみる。そこには誰もいなかった。
 また背後から『ヒュン』と空が切られる音を聞き、ビッテンフェルトは身をよじった。『ガタァン!』とけたたましい音が鳴り響く。彼の靴が飛んできて、椅子に衝突した音であった。
「何者だ! おれを誰だと思っている!? 姿を現せ!」
 襲撃者の姿をさがし、ビッテンフェルトが辺りを激しく見回す。そして、ものが投げつけられる瞬間をついに視界にとらえたが、襲撃者の姿が透明であるということを知った。
 誰に触れられることもなく、自ら意思をもったように彼の家のものが次々に浮かび上がる。また一つ、今度はダンベルが飛んできた。
「ぎゃああああ!! お化けだあああ!!」
 勇猛で鳴らす彼が真っ青に青くなり、大声で叫びながら慌てて家を飛び出して逃げた。
***
 当初、ビッテンフェルトが遭遇した怪奇現象の話を、みな半信半疑で聞いていた。
 翌朝、彼を泊めたミュラー提督と共に彼が戻ってみると、たしかに家の中は荒れ果てていた。しかし、強盗が入った場合と同じ結果しかそこにはなかった。
「強盗などではなかった! そんなもの、恐るるに足らん。だが、ものがひとりでに浮かび上がり、襲いかかってきたのだ。悪霊でなければ悪魔だ! ちくしょう、なぜおれがこんな目に? お仲間のオーベルシュタインでも訪ねればよかろうに」
 ビッテンフェルトは、無関係な軍務尚書を唐突に巻き込みつつ、提督たちを相手にそう喚いた。
 鍛え抜いた腕をもってしても、姿のない敵が相手では無力である。ビッテンフェルトはすっかり怯え、あやしげな退魔の品に大枚をはたき、ミュラーの制止を受けたがその甲斐もなく、狂ったように掻き集めるようになった。
 だが間もなく、半信半疑であった他の人々も、彼の言を信ずるほかなくなった。
***
 2番目の被害者は、ロイエンタールであった。
 彼もまた、「あなたがロイエンタール提督か?」と、ビッテンフェルトと同じ電話をうけた。彼は『これが例のやつか』と考え、「ちがう」と偽って応じた。
 すると、電話の声が女性らしい響きをおび、「先日酒場でお会いした●●●●というのですけれど。本当にロイエンタール提督ではないのですか?」と尋ねてきた。それを聞いたロイエンタールは、『いつぞやどこかで連絡先を交換した相手かもしれない』と考え、「失礼しました。ええ、仰る通りです」と答えてしまった。
 電話が突然切られた。あとの展開は、ビッテンフェルトと似たようなものだった。
『ヒュン ガシャン!』
「うわっ!」
 ロイエンタールの頭のすぐそばを何かがかすめ、向こう壁に激突して砕けちった。それは、さる有名な産地の工芸品である精巧なガラス細工のワイングラスだった。
「なんということを! ――いっつ!」
 嘆くのもつかの間、ワインセラーからワインボトルが射出され、ロイエンタールにガンガンと激突してきた。
 彼が走って逃れると、狙いを外したボトルが向こう壁に激突し、パリンと音を立てて砕け、血のような赤ワインを辺りに撒き散らす。ついでに、壁にかかっていた上等なジャケットに、ワインの染みをたっぷりとつけた。
「くそっ、よくも!」
 ロイエンタールが怒りに声を上げる。
 だが、襲撃者の姿は目でとらえることができなかった。ただ、彼の背後にあるものがひとりでに浮かび上がり、それが飛んでくることの繰り返しである。彼もまた、無様な戦略的撤退を余儀なくされた。
 彼は、いくらか打撲と切り傷を負ったうえ、特別に取り寄せた高価なグラスと、とっておきのワインを何本も台無しにされ、デート用に仕立てた服にもワインの染みをつけられてしまった。
***
 被害者は他にも何人か出たが、いずれも軽度の被害にとどまった。最も深刻だったものは、帝国最大の重要人物――皇帝ラインハルトへの被害である。
 彼に対し、襲撃者が攻撃してくることはなかった。その代わり、『一緒に来てくれ』と執拗に彼を連れ去ろうとするのである。つかまれたラインハルトの白い腕には、いくつも青あざができた。
 それまで姿を見せなかった襲撃者は、ラインハルトに対しては姿を見せた。しかし、その姿を確かに目にし、腕をつかまれ引っ張られたことは記憶しているのに、どんな人物であったかをラインハルトは覚えていなかった。
 なぜか姿形を覚えることのできない襲撃者に連れ去られ始め、すぐに、キスリングやエミール(「危険だからよせ」とラインハルトが言ったがきかなかった)など、近衛を主とする付き人が厳戒態勢で皇帝に付き添うようになった。
 しかし、ほんの一瞬、ほんの少しの間、仮王宮の通路を一人で歩いたラインハルトは、襲撃者と単独で対面することとなった。
 それは、亡くなった赤毛の友人――ジークフリード・キルヒアイスの姿で立っていた。
 何よりも大切な、懐かしい半身であるはずの彼の姿をとっていても、襲撃者の不気味さは隠せていなかった。あるいは、本物のキルヒアイスの霊魂がラインハルトに付き添い、彼に警戒をうながしてくれていたのかもしれない。
「ラインハルトさま」
 その声は、まちがいなくキルヒアイスの声だった。だが、その表情、その雰囲気、その佇まい、その状況、声そのもの以外のありとあらゆる情報が、『彼はキルヒアイスではない』ということをラインハルトに如実に伝えていた。
 ラインハルトはすぐに踵を返し、近衛が待つ場所まで走った。
「だれか! だれかこい! 奴だ!」
 声を限りにラインハルトが叫ぶ。白兵戦成績はキルヒアイスに次いで優等であったラインハルトが全力で疾走し、おぞましい襲撃者からの逃走を試みる。しかしそれでも尚、追跡の足音が恐るべき速度で彼に追いついた。
 握りつぶさんばかりの力でラインハルトの腕が掴まれる。彼は痛みに呻き声をあげた。
「ぐぅっ…! はなせ! はなせ無礼者! おのれ、よくもっ、よくもキルヒアイスに!」
 ラインハルトの鋭い眼光が襲撃者へ向けられる。だが、キルヒアイスの姿をとった追跡者がひるんだ様子はなかった。その瞳には優しさも怒りもなく、ただ、死人じみた虚空が映されているだけである。
 かりにもキルヒアイスの姿をしたものが、これほど不気味でおぞましく見えるとは、ラインハルトは想像もしたことがなかった。
「おのれ下郎! 陛下から離れろ!」
 最初に駆け付けてきたのは、エミールであった。
 エミールは、食事の用意をしてきたところだったのか、食事用の銀のナイフを両手で構えて突進してきた。「くるな」とラインハルトは叫ぼうとした。
 だがその前に、襲撃者は、急に手を離した。驚いたラインハルトが振り返ると、襲撃者の姿はすでに消えていた。
***
 事態が急激に深刻となったため、武官文官すべてのトップが掻き集められ、対策のための緊急御前会議が開かれた。だが、正体不明で姿は不定形、おまけに目的も攻撃方法も何もかも不明の敵相手となると、対策を考えようがなかった。
 唯一の例外は、いつもどおり、軍務尚書オーベルシュタイン元帥であった。
「ひとつだけ問題はございますが、臣に一人だけ、この事態に対応しうる人物の心当たりがございます」
「卿は、なんでも知っているな。その人物とは?」
「はい。とある、女性霊能力者です。帝国最強の霊能力者、と言われております」
「霊能力者、か。うさんくさい響きではあるが、卿が言うからには役立つのであろう。して、問題とは?」
「はい。彼女には、弟がいます」
「ふむ」
「弟には霊力がなく、彼女は、霊能力者として、『祓い』などの仕事を自分が請け負っている、ということを、彼に打ち明けておりません」
「ほう。まあ、にわかに信じがたい話でもあるからな……。それで?」
「弟のほうは、姉がか弱い女性にすぎないと考えています。したがって、いかなる理由においても、彼女を危険にさらすことへ反対すると思われます」
「なるほどな。……だが、予は皇帝だぞ? その弟が反対するからといって、なんの問題があるのか」
「彼は、一連を承知できる立場にあり、しかも、非常に高い地位についています。もしも姉君の協力を求めることとなれば、必ず彼の知れるところとなり、陛下をもってしても、彼の意志を無視することはできません」
「なんだと? いったい、その弟とは? その女性は何者だ?」
「……ここで申し上げてもよろしければ、この場で申し上げます」
「この場で言えない人物だというのか?」
「おそれながら」
 オーベルシュタインが珍しくためらうのを見て、ラインハルトは驚いた。彼をして口がはばかられる人物とは、いったい何者だろうか。
「……よかろう。オーベルシュタイン、予と別室へこい。みな、しばしここで待っておれ」
 ラインハルトがそう宣言し、オーベルシュタインとラインハルトは会議室を出た。
 しばらくして、彼らが戻ってきた。ラインハルトは、御座に戻ったのち、両手を組んで額をつけ、うつむいたまま何やら考え事をしていた。オーベルシュタインは、常のように淡々と席に戻り、だまって皇帝の判断を待った。
 数分後、みながヒソヒソと会話を始める。なかなか決断をくださないラインハルトに何か進言すべきか、みなが考えあぐねていた。
 それからやっと、ラインハルトが決断を発した。
「いたしかたない。では……我が姉、アンネローゼ・フォン・グリューネワルト大公妃に、この件の解決を依頼する」
 それを聞いてようやく、室内の全員がすべてを理解した。
***
 アンネローゼへの依頼は、最初、皇帝ラインハルトが直々にすると宣言していた。だが、朝イチの会議で決まったことを、「これを済ませたらすぐに連絡をとる」と言って先送りし続け、ラインハルトから連絡が出されないまま日が落ちたため、軍務尚書が代わりに惑星間高速通信で依頼した。
 アンネローゼは快諾し、「すぐに伺います」と返答した。それから、最短の時間で彼女がフェザーンへ到着したが、ラインハルトは既に次なる襲撃を受けた後だった。
 今度も連れ去られずに済んだが、引っ張られた拍子に腕に掻き傷を負った。傷はさほど深くなかったが、ラインハルトは異常なまでに弱り、ついには昏睡状態におちいっていた。
 アンネローゼが煙草で清めると、彼の容態はみるみる改善し、三十分もすると目覚めた。
「姉上!」
 弟が目覚めたと聞き、軍務尚書と算段をつけていたアンネローゼが寝室に戻ると、ラインハルトは嬉しそうに声をあげた。だがすぐに、心配そうに顔を歪めた。
「やはり、姉上を危険にさらしたくはございません。せっかくお越し頂いたのに申し訳ありませんが、だれか別の者を探させ、」
「いいえ、ラインハルト。心配はいらないわ。『あれ』は、わたしに任せて」
「ですが、姉上」
「この仕事のこと、黙っていてごめんなさいね。大丈夫だから、あなたは寝ていて」
「姉上!」
 ラインハルトが起き上がろうとする。だが、風のように素早くアンネローゼが近づき、彼の肩を押さえて止めた。ラインハルトが彼女を見上げる。
 そして、アンネローゼが何やらブツブツと聞き取れない言葉を呟いた。側に控えていたヒルダとエミールには、それは何らかの呪文のように聞こえた。
 ラインハルトが突然ぐるりと白目をむき、ぱたりとベッドに倒れ込んだ。
「陛下!?」エミールが驚いて声を上げる。
「眠らせただけよ。わたし達が『あれ』をどうにかしますから、その間、陛下をお願いしますわ」
 大公妃にそう頭を下げられ、二人は恐縮しながらも頷いた。
「『あれ』から電話がきたら、返事をしてはいけません。返事をしなければ、いないと思って去って行きます。ですが『あれ』は人の声を真似できますし、なんとか返事をさせようと工夫して話しかけてきます。もしも入ってきてしまったら、鏡か刃物、あるいは両方を使って追い払ってください。『あれ』は、鏡と刃物を何よりきらいます」
「は、はい」「承知しましたわ」
 二人が応じる。アンネローゼは、二人を安心させるように微笑んだ。
「弟をお願いします。遅くとも明日までにはケリをつけますわ。――はやく帰らないと、ほかにも依頼が詰まっているの」
 そう言い残し、去って行くアンネローゼの後ろ姿は、二人に、旗艦へ乗り込むラインハルトの背中を思い起こさせた。
***
 オーベルシュタインにアンネローゼが依頼した内容は、祓いに使う場所からの人払いであった。仮王宮から近い建物がそれに選ばれ、そこから『ガス漏れのため緊急避難』という名目で人々が追い払われた。
 代わりに、アンネローゼが呼んだ人々がそこに招集された。彼らは、ありとあらゆる流派に属する様々な霊能力者たちで、それぞれに異なる呪文や道具、装束を使い、それぞれ力を持っていた。
「まあ。今日お呼びできた仲間の半分が、来る途中で『あれ』に邪魔されたようですわ」
 なにやら連絡をうけたアンネローゼが、オーベルシュタインに向かってそう言った。
「人手が足りなくなりましたわ。手伝っていただけて?」
「素人レベルのことしか出来ませんが」
「まあ、ご謙遜を。わたし、あなたのおばあさまに術を習いましたのよ」
 アンネローゼが、オーベルシュタインの母方の祖母に言及する。彼女が、先代の『帝国最強の霊能力者』であった。
 もともと、前王朝最期の皇帝・フリードリヒ4世に雇われ、彼に向けられる悪意と怨嗟の呪の数々を祓っていたが、ある呪術師に負けて命を落とした。その後釜として、もっとも優れた弟子であるアンネローゼが『寵姫』という名目で召し抱えられたのである。窮地のミューゼル家を救うため、アンネローゼはその要請を受け入れた。
 オーベルシュタインは首を振った。
「いいえ。私には才能がありませんでした」
「説明がいらないだけでたすかります」
「承知しました。では、つつしんで」
 オーベルシュタインがまた頭をさげる。彼は、ラインハルト以外の人間に忠誠を尽くすつもりはなかったが、ラインハルトを救ってくれる人間に下げる頭を惜しまなかった。
 オーベルシュタインは、アンネローゼの祓いの補助に回る役を依頼された。
『祓い』は、まず、神を迎えるにふさわしく場を整え、丁寧にお願い申し上げて『あれ』を呼び出すところから始める。そして、こちらの指定した場所へやってきたところで交渉し、交渉が決裂したら、用意しておいた手勢を使って袋叩きにするのだ。
 決戦の場の前庭には、神木で作った舞台がいくつか建設された。奉納の舞と破邪の舞を担当する巫女たちが、舞のリハーサルをして、巫女化粧を準備する。木魚を据え置く僧侶や、十字架と聖水の準備をする神官も並んでいる。
 決戦の場となる建物内では、アンネローゼとオーベルシュタインが待ち構える。アンネローゼが祀り台を用意する間、オーベルシュタインは清めの水(※ファ○リーズに除霊効果のある芳香剤成分が含まれていたので、それで代用)を場に撒いた。
 準備を整えたあと、アンネローゼが『およびだし』のための呪文を唱える。すると、あたりは急に暗くなった。決戦の場が緊張に包まれる。
「来るよ」
 外で待機していた巫女のひとりが呟いた。まもなく、その場所は、半分が異界に支配される闇に変わった。
 アンネローゼの携帯端末が鳴った。無表情のまま、彼女が電話を受ける。
「はい」
『わたしタチを、よんだ?』
 その声は、老若男女の無数の声が濁り混ざり合い、不快に響いて聞こえてきた。
「ええ、お呼びしましたわ」
 アンネローゼが応じると同時に電話が切れ、決戦場所の出入り口の扉がバタンと開く。
 不定形の何かが入ってきて、祀り台とアンネローゼの前に現れた。オーベルシュタインは、彼女の背後で静かに待機していた。
 アンネローゼが呪文を唱える。まずは、祟る理由を丁重にお尋ねするものである。霊能力者の呪文は、異界の生き物との外交儀礼をまとめ、意思疎通をはかるためのものであった。
「あら、まあ」
 呪文を唱え終え、アンネローゼが呟く。
 オーベルシュタインが後ろで首をかしげた。この後の手順は、理由をお伺いした上で、祟りの中止をお願いし、交渉が決裂したら攻撃を始める、のはずであった。
 アンネローゼが振り返り、オーベルシュタインを見やった。
「原因はあなただそうですわ」
 彼が驚き、義眼の両目を見開いた。
「私が? 私が、皇帝に呪いを? 提督たちに呪いをかけていたと?」
 心外だ、とばかりに応じられると、アンネローゼは首を振った。
「いいえ。きっと、わざとではなかったでしょう。……こんなことをお友達に言ったことはなくて?――」

『個人的に彼は少し苦手だ。コンプレックスが刺激されているのかもしれない。――私は、体質的に無理がきかないのだが、強くなりたいと思わなかった日はない』
『彼は有能な知将だが、両親の影響で精神が不安定だ。親友すら眉をひそめる女遊びをよくしている。その中に何人も不穏因子が含まれるものだから、常々やきもきさせられる』

『彼を、つらい状況に一人置いていくのは、しのびなくてね。十五歳も年下でな。関係としては上司だが、歳の離れた弟みたいに思っている。置いていけないよ』

 オーベルシュタインが青ざめた。
「それは……」
 その後の言葉を続けられず、彼は答えあぐねた。その台詞を言った記憶が、彼の中にしかと残っていた。
 その間、アンネローゼは続きの交渉のため、呪文を唱えて待った。『あれ』は、彼女の丁寧な交渉の甲斐あってか、おとなしくその場に留まっていた。
「『彼ら』は、なんなのですか」
 答える代わりに、オーベルシュタインが逆に尋ねてきた。呪文をひと区切りさせ、アンネローゼが『あれ』に顔を向けたまま背中で答える。
「どこにでもいる者たちです。『彼ら』は、無邪気な子供たち。――口減らしや、父親の不認知、重い障害……色々な理由で、生まれる前、あるいは生まれてすぐ殺されてしまった、行き場のない子供たちの魂」
 それを聞き、オーベルシュタインは自嘲をもらした。
「なるほど、私と相性が良いわけですな」
 前王朝までに彼と同じように先天障害を持って生まれ、かつ、貴族や裕福な平民ではなかった者は、『彼ら』の仲間になっていただろうから、という意味を込め、オーベルシュタインが応じた。貴族であることだけが、彼を生者の側に留まらせたのである。
 アンネローゼは振り返り、優しく笑いながら首を振った。
「いいえ。純粋に、あなたが好きなだけ。あなたに嫌な思いをさせたから、『彼ら』が腹を立てて、提督たちに仕返しした」
 その後、表情を硬くし、祀り台と『あれ』のほうを向き直る。
「そして――あなたが来てくれると思って、弟を連れて行こうとした」
 それから、『あれ』を見上げた。
 穏便に事を済ませるには、彼らが欲しているものを差し出すしかない。オーベルシュタインもそれを理解し、うなずいた。
「それでは、私を異界へお送り下さい。それで交渉を。さすれば、同時に私は、今回の件の責任をとれましょう」
 それを聞き、アンネローゼは悲しげな顔をして振り返った。だが、オーベルシュタインの意志は固いと見てとれた。
「元より、陛下の為なら命を差し出す所存。私の不始末が原因で、陛下に被害が及んだとあっては、尚のこと、命をもって償うに値します」
 しばらく、アンネローゼは困った顔をし、『あれ』に一度視線を戻し、それからまたオーベルシュタインを見た。そして、こう言い出した。
「キルヒアイス大公が亡くなったとお伝えくださったとき、あなたは『私にも責任がございます』と仰っていたわね。あれは、どういう意味でしたの?」
 唐突に尋ねられ、不思議に思いつつも、オーベルシュタインは口を開いた。これが最期になるので、遺言がわりに答えようと考えたのである。
「私が、大公殿下を他と等しく扱うよう、陛下に進言しました。リップシュタット戦役の戦勝式典でも、他の部下と同じく、大公殿下にも武器を持たせぬようにと。そして、陛下がその進言を容れ、おそらく、そのために悲劇が起きました。……それ故にです」
 答えを聞くと、アンネローゼは微笑んだ。彼女が何を思ったのか、オーベルシュタインには分からなかった。復讐の機会を得られた喜びからだろうか?
「そう……。わかりました。では、生きのびてください」
 そう言った後、アンネローゼは、先ほどに比べて激しい口調の呪文を唱え始めた。『祓い』となる攻撃の呪文である。彼女に呼応し、外に居る部隊も一斉に『祓い』を開始した。
『あれ』が、悲鳴のような叫びのような、おぞましい声をあげてうごめき、辺り一体にも地滑りを起こす。
「何をなさいます!? 私を差し出すのです、それで片がつく!」
 アンネローゼを止めようと、オーベルシュタインが近づきかけた。だが、あまりに地面の揺れが激しく、彼はつまづいて転んだ。
 艦隊に号令をかけるラインハルトの声のように、アンネローゼの声が苛烈さを増してゆく。同時に、外から聞こえてくる除霊部隊の『祓い』の声も大きくなっていった。
「あなたに――傷でも――ついたら、陛下は――いずれにしろ――私を生かしておきません」
 揺れに邪魔されつつ、オーベルシュタインはそう言った。戦いを選べば、祓う側もただでは済まない。だが、アンネローゼは見向きもしなかった。『あれ』の反撃が始まったらしく、外から人の悲鳴が聞こえるようになってきていた。
『あれ』がひときわ大きな叫び声をあげた。そして、散り散りに霧散した。
 アンネローゼが『祓い』を止めた。外の声も止んだ。終わったのだ。
「……消してしまったのですか?」
 オーベルシュタインが尋ねた。行いは認められないが、『彼ら』は友人だった。
 アンネローゼは振り返り、首を振って応じた。
「還しただけです。持っていた煩悩を手放して、元の場所にいますわ」
 それを聞いて、オーベルシュタインはほっとした様子を僅かにみせた。だがすぐ、眉をよせた。彼のせいで、アンネローゼまでも危険になりかねなかった。外の部隊にも、もしかしたら死者が出ているかも知れない。
「なぜ、私に『生きのびろ』と」
 尋ねられ、アンネローゼが微笑んだ。
「弟もあなたも、キルヒアイスが亡くなったのは自分たちのせいだと思っているのですね。でも、違うのです。わたしです。わたしが、悪いのです。弟は、いつか必ず、命の危険にさらされると思っていました。だからわたしは、弟を守って貰うために、キルヒアイスを利用したのです。わたしは――」
 アンネローゼが語り始めた。
***
 わたしは、弟が思っているような聖女ではありません。もっと、嫌な女です。
 いつだったか、ベーネミュンデ夫人がわたしを『魔女』と呼んでいたそうだけれど、本当にそうだと思いますわ。彼女が皇帝陛下から離されたのは、流産を引き起こした呪いから彼女を守るためで、彼女へのご寵愛は、本当はそのままだったのだけれど。
 弟は、キルヒアイスが亡くなった後、わたしに「キルヒアイスを愛していたか」と尋ねました。わたしは答えませんでした。わたしが笑ったのをJaの意味だと弟は思ったようだったけれど、違うんです。彼のことは好きだった。本当に良い子だったと思う。でも、特別に愛していたかというと、そんなことはなかった。
 向こうっ気が強くて、なかなか友達ができなかった弟にとって、キルヒアイスは特別な存在でした。でも、わたしにとっては――わたしに恋に落ちた、とてもありきたりな異性の一人に過ぎなかった。
 背が高くてハンサムで、優しくて誠実で――そういう素敵な男性は、昔、ひとつの舞踏会やお茶会に出るだけで、1ダースくらいわたしに『運命的な出会い』をしていました。激しい恋に落ちて、情熱的な告白と贈り物をするのです。わたしより若い男の子から、わたしより十以上も年上の男性まで、おおぜいが、ね。
 彼らがわたしに恋に落ちるために、わたしは何もしなくてよかった。挨拶を返してニッコリ愛想笑いをするだけで、彼らはポーッとなった。なんなら、会話をする必要も、まっすぐ目を合わせる必要すら無くて、横顔が視界に入るだけでも十分だったみたい――そう書いてある恋文を、いくつも貰いましたから。
 彼らにとってわたしは特別だったけれど、わたしにとっては何十人も居る『ありきたり』だった。でも、彼らはそんなこと知らないし、一世一代の告白を冷たくあしらわれたら傷つくでしょう。あまり良い人でない男性なら逆恨みがこわいし、良い人間を傷つけるのは嫌な気持ちになりますわ。だから、わたしはいつも、何十人ぶんもの『一世一代の告白』を丁重にお断りしなくてはいけなかった。
 わたしにとって、気兼ねなく付き合える男性は、お父様と弟だけだった。彼らだけは、どんなに優しく接したってわたしに恋に落ちないし、面倒な告白をしないでくれますもの。
 だから、屋敷を手放して引っ越して、弟の紹介でキルヒアイスを初めて見たとき、彼を見て思ったのはこの2つだけ。『ああ、この子、わたしに恋に落ちたわ』。それと、『彼は使えるわ』ということ。
 使用人を解雇して、わたしが代わりに炊事や家事をしなくちゃならなくなったから、弟の面倒を見てやれなくなった。料理は好きだったし、仕事は苦にならなかったけれど、弟のことは心配だった。向こうっ気が強くて喧嘩ばかりするし、危険を避けないから危なっかしかった。わたしが見ていない間に、弟がどこかで命を落とすんじゃないかって、それが気がかりだった。
 だから、キルヒアイスのわたしへの恋心を利用することにした。
「弟のことをお願い」
 ほんの一言でよかった。これまでわたしに恋に落ちた男性たちが、わたしが頼んだこと、あるいは、明確に頼んでいない望みを必死に叶えたように、キルヒアイスは願いを叶えてくれた。たったそれだけで、キルヒアイスは最期まで弟を守ってくれた。
 わたしは、童話のプリンセスのような見た目をしているかもしれないけれど、実際には、『白雪姫』の悪い女王にも、『眠れる森の美女』のマレフィセントにも敵わない、とても邪悪で恐ろしい魔女ですわ。
 だから、あの善良で誠実なキルヒアイスに『弟の代わりに死ぬ呪い』をかけたのです。
 わたしは、それを弟に打ち明けられなかった。邪悪な魔女のくせに、弟の前でだけは『良い姉』でいたかったから……。
***
「――だから、気にしないで。このことは秘密にしてくださる? わたしも、あなたの失敗を黙っていますわ。『わるいものは退治しました』とだけ、皆さんに伝えます」
 アンネローゼの告解を聞いても、オーベルシュタインは動じた様子をみせなかった。彼は、生来の目こそ見えなかったものの、恋に落ちた男たちほど盲目ではない。善良な美女ほど、無数の男性たちの告白に悩まされ、苦労している様子が彼の目にはきちんと映っていた。
 だが、自らの失敗を『気にしないで』いることはできない様子であった。観察眼するどいアンネローゼも、彼の意志に気づいていた。彼女はため息をひとつつき、次のように続けた。
「いいでしょう。それほど罰がほしいのでしたら、さしあげます。いっておきますが、異界へ送られることより、ずっとおそろしい罰ですよ」
 オーベルシュタインが片眉をあげる。アンネローゼは、フッと笑って続けた。
「『弟のことをお願い』」
 一瞬おくれて意味を理解し、オーベルシュタインも小さく笑った。
 そして、また深く頭を下げた。彼は、うやうやしく、彼女の『呪い』を頂戴した。

Ende