「フェルナー大佐。公がお召しだ」
落ち着いた物腰の上官──数少ない常識人の将官として人気が高い、アルツール・フォン・シュトライト准将が呼びかけるのを聞き、アントン・フェルナー大佐はただちに「はっ」と応じて敬礼を返し、彼に従って扉を通っていった。
扉の先は、銀河帝国有数の大貴族──ブラウンシュヴァイク公爵閣下の居室である。利便性という概念をかなぐり捨てた、むやみやたらと面積が広い部屋。分厚いカーテン。巨大な絵画。ふかふかの絨毯。等身大の裸婦の金像。宝石細工にシャンデリア。どれ1つとっても大佐の年俸をゆうに超える値であろう、贅を尽くしに尽くした部屋であった。
その中心でカウチソファにゆったり腰掛け、高級そうなワインを揺らす人物に向かい、フェルナーは背筋を正して敬礼した。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
「ああ。よく来たな。ええと…アンスバッハ。何と言ったか、彼は」
「アントン・フェルナー大佐です」
「ああ、そうか。そうだ。フェルナー大佐」
呼んだんじゃなかったのか? という疑問を飲み込み、フェルナーはニッコリ笑みを浮かべ、公爵閣下へ向かって右手を胸に当てて恭しく頭を垂れた。
「今から、ミュッケンベルガー元帥を訪ねる。卿に、その護衛役を担う栄誉を与えよう」
「はっ、光栄の至り。謹んで、務めさせていただきます」
「うむ。粗相をするなよ」
「はっ」
尊大な態度で命令を下す公爵に対し、不満を持った様子を微塵も見せず、長年の訓練で習得した完璧な笑顔の仮面を被ったままフェルナーはピッと敬礼を返した。
この態度は、まあ仕方ない。平民に対して、こういう対応しかできない生き物なのだ。バカが死んでも治らないのと同じで、大貴族という病もまた、死んでも治らない。ちょっとした欠点に目をつぶり、あとは怒らせないよう・気に入られるよう振る舞っていれば、楽して美味しい生活ができる。
素晴らしきかな、安全で楽ちんな後方勤務! 頭の沸いた貴族病患者の道楽で何時死ぬとも知れぬ前線勤務など、二度と御免だ。この態度と、死にそうなほどつまらんお飾り護衛任務とを我慢できさえすれば、本当に死ぬ心配も、生活に苦しむ心配もないのである。
シュトライト准将閣下は気立てのよい御人であるから『おれを呼んでいる』と言い換えてくださったのだろうが、厳密には『お出かけに連れて行くのに丁度よさそうな見栄えのいい軍人を呼んでこい。いま通路に居る、あの銀髪のやつ』といったところだろう。
現に、そこで強面のアンスバッハ准将が恨めしそうに睨んでいる。おれを睨まれても困るんだが。文句なら公爵閣下か、整った容姿をくれなかった神にでも言ってくれ。
「出かける支度をするから、玄関で待っておれ」と命じられ、玄関の外に出て、他の随行員たちと共に姿勢を正して2~3時間ほど待機したあと、車に乗り込むブラウンシュヴァイク公を敬礼で見送り、それから後続車に乗り込んで『お出かけの同行』へとフェルナーは出ていった。
──────────
「ここで待っておれ」
「はっ」
支度待ちに2時間強、車での移動に1時間弱付き合ったのち、ミュッケンベルガー邸の中までの同行を「唯一」命ぜられたフェルナーは、屋敷内の通路、晩餐室の外で待機するよう命じられた。
……うん。おれもまさかとは思ったのだ。身支度のために延々待たせ、つまらん護衛に付き合わせた駄賃に、貴族の豪勢な晩餐を食わせてくれるのだろうか、と、一瞬思った。なに、一瞬だけだ。大貴族というものは、そういうことを考えられない生き物だ。分かっていた。分かっていたとも。
大丈夫だ、アントン。お前はそれが分からない奴じゃないだろう? いいか? 深呼吸しろ。スー、ハー。ほら、落ち着いてきた。大丈夫だ。
フェルナーが何度か深呼吸を繰り返し、心身の平静を保って立っていられるようになった頃、何やら玄関のほうが騒がしくなってきた。ほどなくして、丁重にお引き取りを願う使用人たちを振り払いつつ、早足で歩み寄る軍人の姿が目に入る。
階級章を見ると、自分と同じ大佐であった。顔から察するに三十代後半ほどだが、頭髪の半分が白髪で占められており、長身で痩せていて、肌色は血の気が失せて青白い。容姿はそう悪くないのだが不健康と陰気の印象が強く、お飾り要員には取り立てられなさそうである。
しかし、弱々しげな見た目とは裏腹に、彼がまとう覇気にはどこか他者を圧倒するところがあり、そのミスマッチがフェルナーの目に『こいつは只者ではない』という印象を焼き付けていた。
半白の頭髪の大佐は一瞬自分を一瞥し、『邪魔する気はないらしい』と確認すると、晩餐室の扉の前に立った。そして、聞き逃しようのない十分な音を出し、かつ、礼節をわきまえた乱暴ではない叩き方で、きっかり4回、扉をノックした。
「ミュッケンベルガー元帥閣下、オーベルシュタイン大佐です。早急にお伝えせねばならない事がございます」
一瞬、屋敷が無音に包まれた。次の瞬間、苛立たしげな重い足音──重い筋肉を身体にまとったミュッケンベルガー元帥のものであろう──が、ドカドカと扉に近づいてくる。
ガチャン! と、晩餐室の重厚な木の観音扉が乱暴に開かれた。中では、予想通り、ミュッケンベルガー元帥が鬼のような形相を浮かべて立っていた。
「きさま…オーベルシュタイン…今日は、ブラウンシュヴァイク公との会食だと…誰にも聞かなかったのか?」
鍛え上げられた巨体から威圧感を放ちつつ、殺気まじりの怒気と共に轟いた元帥の声に、すぐそばに居たフェルナーは竦み上がった。
だが、怒号を真っ向から浴びせられている張本人の大佐のほうは、恐れを隠しているのだとしても、微塵もそう見えない様子で立っている。氷のように冷ややかな仏頂面を貼り付けたまま、大佐は元帥に淡々と応じた。
「これまでに話した者それぞれから、合計で14度ほど伺いました。閣下」
「ほう…そうか…。それは、何よりだ…」
「ヴィジホンをお掛けしましたが繋がらず、取り次ぎの者も応じませんでしたため、直接お伺いしました。早急にお伝えせねばならないことがございます、閣下」
「あ・と・に・し・ろ」
「事は一刻を争います。多くの人命が懸かっているのです」
「何度も言わせるな。あとにしろ。命令だ。きさま自身の命を失いたいか?」
「今、私の話を聞いてくださるならば、その後、私の命を奪って構いません。助かる命の数を考えれば安いものです」
その言葉に、ミュッケンベルガー元帥から僅かに怒気が引き、彼はしばし言葉を失った。横にいたフェルナーは耳を疑い、銀の眉を片方上げた。
少しして、元帥が言葉を続ける。
「………貴官のなんと扱いにくいことか。…とにかく、今はだめだ。貴官の命と引き換えであってもな。ブラウンシュヴァイク公に、貴官が起こした騒ぎを詫び、公を丁重にもてなして帰さねばならん。その後、貴官の言う『早急にお伝えせねばならないこと』を聞いてやる」
「…………承知いたしました」
オーベルシュタイン大佐が礼をすると、晩餐会の扉はバタァン!と豪快に音を立てて閉められた。
閉め出されたオーベルシュタイン大佐は、落胆した様子も苛立った様子も見せず、石膏の彫像のように無表情を保ったまま顔を上げ、フェルナーの横に粛々と並んで通路に立ち、背筋を伸ばして両手を後ろに組んだ。
騒ぎが収まって一段落したあと、フェルナーは『オーベルシュタイン大佐』へ声をかけてみることにした。
「…オーベルシュタイン大佐、でしたか。アントン・フェルナー大佐です。本日は、ブラウンシュヴァイク公の護衛として伺っております」
「……パウル・フォン・オーベルシュタイン大佐、ミュッケンベルガー元帥府の幕僚を拝命しております」
フォン付き。貴族か。しかし、自分たちの背後の晩餐室に居る貴族たちとは随分異なる性質をもつ人であるらしい。『私の命を奪って構いません』とは、本気で言ったのだろうか? 貴族にも、シュトライト准将のような気立ての良い人がいないでもないが、それにしても随分と職務に忠実というか…見た目に似合わず、アツい人物がいたものだ。
「何です、『多くの人命が懸かっている』事態というのは」
「機密ですので、申し上げられません」
なんだ。人が折角、ストレス解消できるよう話を聞いてやろうと思ったのに。つれないやつ。まあ、ブラウンシュヴァイク公に売れそうな、ミュッケンベルガー元帥のネタが見つかりそうだと思ったのは事実だが。
「そうですか。…しかし、すごいですね。『私の命を奪って構いません』だなどと。自分の命あっての人生でしょうに」
「…………」
「人生の楽しみは、生きていればこそでしょう。…いえ、もちろん、実に立派な志だと思いますよ?」
「…………」
それきり、オーベルシュタイン大佐が黙ってしまったので、フェルナーはそれ以上追求しないことにした。
なるほど。ミュッケンベルガー元帥ではないが、確かに扱いにくい。折角、通路に立たされての待ち時間の話し相手ができたかと思ったが、彼はあまり話したくないようだ。
ミュッケンベルガー元帥府幕僚…か。耳慣れない家名と、元帥好みでなさそうなひ弱な体格と、実力主義であるという元帥の方針とを鑑みるに、幕僚に引き抜かれたオーベルシュタイン大佐は相当優秀な参謀役なのだろう。だが、愛想を振りまく趣味はないようで、ものの見事に上手くいっていないようだ。
おかげで、フォン無しの平民と同じ『大佐』の地位に留まっている。おれと並んで立たねばならない今の状況は、彼にとっては一層面白くないことだろう。
そんな事を思いつつ、常の笑顔の仮面を貼り付け、オーベルシュタインから目をそらして正面を向いたフェルナーに、オーベルシュタインは不意に声をかけた。
「……生きているだけで」
「はい?」
「ただ、生きているだけで…命があるというだけで、本当に生きていると言えるのでしょうか」
「……??」
「やりたいことをせず、言いたいことを言わず、ただ、生きている……私にはそれを、本当の意味で生きているとは思えない」
「…………」
今度は、フェルナーが何も言えなくなった。
『立派な志ですな』『アツいですな』──そんな風に、揶揄したい気持ちもある。だが、彼の言葉が、なにか…自分の心の奥深くを穿ち、抉るように思われ、何も言うことができなかった。
その理由が、フェルナーは分かる気がした。何のことはない。彼に言われるまでもなく、おれ自身がそう考えているのだ。
『これでいいのか』と。『強者に媚び、言いたいことを飲み込み、生命があるというだけで本当にいいのか』『何も言えない人生で満足なのか』と。
「……貴官の生き方を否定するわけではありません。きっと私が、生まれついて十分な衣食住を与えられ、働かなくとも生きていける『貴族』という身分に生まれたから、そのように思う…という面もあるのでしょう。
私は今の『大佐』の地位に就くために、なんら苦労をしませんでした。しかし貴官は、数々の苦難を乗り越えてきたことでしょう。きっと、命を落としかけるような苦難を、何度も。貴官は、『今も生きている』という一点だけにおいても十分尊敬に値する」
予想外の絶賛を受け、フェルナーは驚きのあまりよろめきかけた。…こんなことを言う貴族には、生まれて初めて出会った。
正面を向いたまま話していたオーベルシュタインは、フェルナーの方を向き、彼の目をまっすぐ見つめて言葉を続けた。
「しかし私は、なすべきことを成し、言うべきことを言えなければ、自分が本当に生きているとは思えないのです。たとえ、その為に死ぬのだとしても」
そう言い終えると、ふたたびオーベルシュタインは正面に向き直り、愛想の欠片もみえない無表情を浮かべたまま、直立不動の姿勢に戻った。
それ以上何も答えられず、同じように正面に向き直ったフェルナーは、引き続き、彼の主君であるブラウンシュヴァイク公を待って、姿勢を正した。
彼の顔からは、完璧に作り上げたはずの笑顔の仮面が外れていた。
──────────
「今日を境に見限りました」
「オーベルシュタイン。この男、使ってやれ」
今は自分より上位の地位にあり、相変わらず愛想の欠片もない半白の頭髪の男を見て、フェルナーはニヒルな笑みを浮かべて返して見せた。
この上官の部下として生きるのは、なかなか楽しそうであった。