翡翠胡蝶の夢

 目が覚めると、世界が巨大になっていた。とんでもなく広大に見えた空間は、実は見慣れた執務室で、どこまでも続く地平線は、おれが使っているデスクの天板だった。
 いそぎの仕事で執務室に泊まり込み、2日目まではソファに移動するくらいの余力があったが、3日目、デスクに突っ伏したおれは、そのまま夢の中に入ったらしい。ここまでは、よくあることだ。
 だが、問題はその後である。つまり今だ。
 状況を把握したおれは、まず、自分の体を確認した。さいわい、服も小さくなっており、おれは全裸ではなかった。
 だが、妙なものが追加されていた。それは、背中に生えた、4枚の羽だった。虫の翅に近い形状で、翡翠色の半透明な物質でできており、翅脈はない。
「なんだこれ」
 根元に触れてみると、服のその部分にスリットが入っており、羽は直に背中から生えているらしいとわかった。てっきり、背負いコスプレ部品(パーツ)かと思った。
 飛べるのだろうか? と考え、動かす……ことなんてできるのか? 人間歴ウン十年のおれに? と思った。しかし、いざ意識を向けてみると、どうやら、背中にできたこの新しい部位を、おれは動かせるらしい、ということがわかった。
 パタパタパタパタ、と、羽が自分の意志に応じて揺れる。けっこう速く動かせそうだ。
 おもいきり速く動かしてみる。音がブーンという連続音になった。すると、ふわりと体が浮いた。
「うわっ!?」
 おどろいた拍子に羽を止めてしまい、おれは机に落下した。足を少し痛めた。
 今度は落ちまい、と決め、再度飛行に挑戦する。おれの体が、ゆっくり、ゆっくりと揺れながら上昇していった。
 さすがはおれ。もう飛行をマスターした。
 執務室に浮かび上がって部屋を見渡すと、閣下はまだいらしていないとわかった。
 今ではすっかり巨大な物体となった壁時計に目を向ける。外の明るさを考慮すると、まだ早朝の定時前だ。そろそろ、閣下がいらっしゃるはず。
 そう思ったところで、軍務尚書がやってきた。扉が動く音が聞こえ、彼が室内に入ってくる。
「閣下ー!」
 声をかけると、軍務尚書は、ぎょっとした様子で辺りを見回した。机の影を確認して回り、それから、『他に隠れる場所はないはず』とばかりに部屋をジロジロ見回した。
「……幻聴か?」
「ここです!」
 再度呼びかけると、軍務尚書がようやく目を上にむけた。目が合った。彼の瞼が、義眼をこぼれおとさない限界まで一杯に広げられた。
「なんだ?」
「小官! です! アントン・フェルナー!」
 まだおぼつかない飛行をどうにか調整し、ゆっくりと彼の目の前までホバリングする。軍務尚書の表情は、驚愕のまま変わらなかった。
「そんなに目を剥いては、義眼が落ちてしまいますよ」
「フェルナーなのか?」
 問いかける彼の声は、たぶん普通に発した声だったが、今のおれには何倍にも拡声されているみたいに大きく聞こえた。
「そうです!」
 Hallo、と、ふざけて手を振る。軍務尚書の顔は、深刻そうに青ざめただけだった。
 まあ、一番深刻な事態なのはおれなんだが、なんとかなると思ってれば、なんとかなるものだ。
「いったい何事なのだ?」
 尋ねつつ、軍務尚書が片手のひらを上に向け、おれの足元に構えてくれたので、その上に止まらせてもらった。肉付きのうすい揺れる手のひらに座り、巨大な軍務尚書の顔を見上げる。
『ガリヴァー旅行記』って感じだ。
「小官にもまったく。昨晩、ここに泊まり込んでいたのですが、目覚めたら既にこうなっておりました」
 軍務尚書が両目をまたたかせ、こちらを凝視する。このサイズで見ると、彼の義眼の機構が中で動いているのがよく見えた。
「……『ティンカー・ベル』?」
 彼がつぶやく。『ピーター・パン』の妖精の名前だ。
 とっさに出てきた単語がおかわいいので、思わず笑ってしまった。彼はこう見えて、幼い頃には、人畜無害な童話だけを見聞きさせられて育ったのかもしれない。それでも、今のような冷徹な軍務尚書に育つときは育つ。
「妖精! なるほど。ためしに粉を出してみますか? 閣下も飛べるかもしれません」
 そう言いつつ、冗談がてらに体を払ってみる。だが、きらきらの妖精の粉は出てこないようだった。小さな体でもよく見えるよう、大きく両手をあげて『おてあげ』ジェスチャーをしてみせる。
「だめですな」
「ふざけている場合か?」
 もっともなツッコミを受け、おれはニヤリと笑って見せた。
 もちろん、ふざけている場合ではまったくないのだが、おれだけではこの事態に対処できない。まずは、軍務尚書閣下の天才的な知能に頼り、打開策を考えていただくほかない。
 そのためにおれがすべきことは、アワアワと青ざめ慌てふためくことではなく、彼をリラックスさせることだ。
「どうしようもないもので。ま、寝ていれば明日には戻るかもしれません」
「気楽なものだ」
「他に良いアイディアがございましたら、喜んで伺います」
 そう尋ねると、軍務尚書は黙った。今のおれが楽しめることは、これぐらいだな。
「しかし、こまりましたな。これでは仕事ができません」
「……一時的に、ハウプトマンを卿の任にあてる」
「おや。小官はお払い箱ですか?」
 わざとすねて言ってみると、軍務尚書は、ほんの僅かにだが困ったような表情をうかべた。
「卿が戻るまでの間、山と積まれていく仕事が、そのまま残っているほうがよいのか」
「我が優秀な部下ハウプトマンの手並みに期待いたします!」
 あっという間に手のひらを返して言ってみせると、軍務尚書は今日はじめて少し笑った。
 よし、妖精になっても良い仕事をしたぞ、おれ。
「卿はどうする。希望はあるか」
 平静を取り戻したのか、軍務尚書は常の無表情で尋ねてきた。いいぞ。彼の頭が回るようになってきたらしい。
「ネバーランドにはお連れできそうにございませんし、戻るまで安全な場所に、という所でしょうか」
「うむ。……そうだな。簡易なものになるが、セーフハウスを作るので、そこに居なさい」
「了解しました」
 敬礼をしつつ、ウインクをひとつ投げる。おれの目は小さくて見づらいはずだが、彼は視認してくれたらしく、顔をしかめた。
***
 軍務尚書が用意してくれたセーフハウスは、菓子の空き箱に、タオルを丸めてハンカチのシーツを掛けてつくったベッドを備えたものだった。
 そのセーフハウスは、軍務尚書の机の上に設置された。混乱をさけるため、当面おれは『急病で自宅療養中』ということになり、ティンカー・フェルナーは姿をかくさねばならぬからだ。
「そこのキャビネットのほうがよいかとも思うが……少し戸を開けて」
 軍務尚書が、執務室の書類棚を指さして言う。おれは、首と両手を大きく横に振った。
「やめておきましょう。ハウプトマンに戸を閉められて出られなくなるか、ネズミ穴か何かがあっておれがネズミに襲われるか、あるいは、ハウプトマンが物を取り出そうとした拍子にセーフハウスごとおれを落とすか……何が起こるかわかりませんが、まずいフラグが見えます」
「そうか」
 そんな流れで、キャビネット案は却下させてもらった。
 閣下にご用意いただいたセーフハウスに入り、まるめたタオルの上に乗ってみる。シーツ代わりの、閣下の私物のハンカチ……この手触り、やはり絹か。いい匂いがする。
「中はどうか」
「なかなか良い住み心地です。ありがとうございます」
「それはよかった。カップ代わりの道具などは、しばし待て」
「はい」
 閣下が机にかけた気配がする。
 それから、彼がいつも通り仕事を始めた。このような事態でもお仕事をなさるとは、さすがは軍務尚書だ。
 しばらくすると、電子メッセージで呼び出されたらしいハウプトマンが訪れた。おれが急病だという嘘と、仕事を引き継ぐ指示を軍務尚書から受け、彼が代わっておれの机に座る。
 それから、無音になった。規則的なカリカリ物を書く音や、タイプをする音だけが響く。
 おれは、睡眠不足だったこともあり、タオルのベッドにうつ伏せダイブしたのち、そのまま眠り込んだ。
***
「フェルナー」
 ゴッ、ゴッ、と、地面ごと揺れる感覚をおぼえ、目を覚ます。
 菓子箱の中だ。おれはまだ、この夢の中にいるのか。
 箱の外から、軍務尚書がつついているらしい。
「はあい」
 目をこすりながら扉(箱をきって軍務尚書がつけてくれた)を開ける。軍務尚書が覗き込んでいた。
「私の家から、使えそうなものを持ってこさせた。洗って消毒してある。役立つといいが」
 そう言って彼が示したものは、なんと、ミニチュアのテーブルセットに、食器をひと揃い、フレームつきのちゃんとした形のベッド、それに、レースの布が掛かったソファであった。
「うおお!? なんですかコレ?」
 テーブルの上に置かれていたティーカップを持ち上げつつ、彼に尋ねる。それは、人間には指先でつまむほど小さいミニチュアでありながら、ちゃんと陶器で作られており、こまかく金のラインで装飾まで入れられていた。
「母のドールハウスの家具と食器類だ。スケールが合うか自信はなかったが、合いそうだな」
「ドールハウス……!?」
 目の前にある家具と道具は、子供のおもちゃにするには勿体ない、芸術品レベルの出来栄えだった。さすがは貴族、こんなものをお持ちだとは。
「使えそうかね」
「小官が持つ人間サイズのものより、高級そうですらありますな」
「長くかかりそうなら、ドールハウス本体に泊めてやろうか」
「そこまでかからないことを願いたいですが、ドールハウスに入ってみるのは楽しそうです」
 最悪、それを楽しみに余生を生きるとするか。閣下とひとつ屋根の下、おれは更にもうひとつ屋根の下に住まわせてもらって、同居をするということで。
「ん」
 閣下が、もう2つ、なにかを注意深くおれの側においた。
 ひとつは、おれからするとタライなみに大きい、何かのフタだった。中に、湯気をたてる黒い液体がなみなみ注がれている。
 もうひとつは、クッキングシート?と思われる紙で皿をつくり、その上に、何かわからない物体をいくつか載せたものである。
「これは、コーヒーだ。こちらは、パンと、チーズと、レタスと、鮭のムニエルを小さく切ってみた」
 それを聞いて、置かれた物体をもう一度よく見てみた。
 タライいっぱいの黒い液体は、なるほど、コーヒーの香りがする。紙皿の上の茶色いものをよく見ると、気泡のスケールが大きくて分からなかったが、たしかにパンの欠片だった。黄色いものはチーズで、ピンクの何かは鮭の身か。緑のものは、言われてみればレタスの破片を大きくしたものに見える。
「小官のために?」
「朝から飲まず食わずだったろう。こんなもので悪いが、食べなさい」
 おれはありがたく、ドール用の食器をお借りして、いただくことにした。カップでなみなみあるコーヒーをすくい、ひとくち飲む。かわいた喉がうるおい、温かい液体が体にしみた。
「すこし、そこに居なさい」
 コーヒーを飲むおれにそう言い、軍務尚書がおれのセーフハウスを上から開ける。そして、タオルのベッドを取り出し、ドールハウスから持ち出した机や椅子、ソファ、ベッドを中に置いた。最後に、ハンカチを折り直し、それも置く。
「いいぞ」と言われ、上から蓋をしめられたセーフハウスに戻ると、そこには、人間の住まいにかなり近くなった部屋ができていた。ハンカチは、ベッドの上に置かれていた。ドール用で硬いからだろう。
「文化的になりました!」
 忘れずに報告する。
 おれのために細かく刻まれワンセットにされた食事を持ち込み、ドールの食器をテーブルの上にならべて席につくと、だいぶ人間らしく食事ができそうな体裁がととのった。
 ナイフは全然きれなかった。それはそうだ、切ることなんて想定していないだろう。
 仕方なく、フォークだけを使って、切るのは歯で行った。冷めきっていたが、この際、食えるだけでもありがたい。
「ああ、それと、ラーベナルト夫人から差し入れがある。入れてもいいか?」
 外から、軍務尚書の声がした。
「はーい?」
 そう応じると、また上の蓋があけられた。上から、巨大な軍務尚書が覗き込む。ドールハウスに住む者が食事を覗かれると、こんな気分になるのだろうな。
 彼が差し入れたものは、赤くて大きな何かだった。巨大なイチゴだ。いや、イチゴは普通だが、おれから見て巨大だった。
「うわぁ!」
「イチゴは好きかね」
「はい! 頂きます!」
 軍務尚書が頷き、セーフハウスを閉めた。
 これはなかなか、夢があるな。巨大なイチゴを見て、おれは思った。今はじめて、小さくなって得なイベントが起きた。
 どう食べようか迷った末、直接かぶりついた。こんなに大きいのに、ちゃんとイチゴの味がする。食べても食べてもなくなりそうにない。
「美味しいです!」
 また報告した。聞こえたかはわからない。
 その辺りで、この夢は唐突におわった。
***
 目が覚めると、世界は普通サイズに戻っていた。おれは、机につっぷして寝ていた。
 うん。夢オチだよな。わかってた。
 うーん、と伸びをする。背中の翅は、なくなっていた。
 時計をみて、外がほの明るいことを確認し、まだ早朝であることを知る。そろそろ、軍務尚書がやってくるはず……。
 だが、定刻をすぎても、軍務尚書はやってこなかった。いや、それどころか、軍務省に誰もいないような……。
 ふいにゾッとして、執務室の扉をあけて外に出た。そこは、通路ではなかった。
 広大な空間が目の前にあった。そこは、巨大な、ローテーブルか何かの上だった。巨人の屋敷の中におれがいて、執務室しかないドールハウスがある。
「うわああああ!!!」
***
「フェルナー」
「あああっ!!?」
 ビクリと飛び起きる。そこは、普通サイズの執務室だった。軍務尚書がそばにいる。
「今日はもう帰ってよい。家で休みなさい」
 そう言い残し、彼が自分の席につく。
 今度は、本当に目が覚めたらしかった。
「夢か……」
 なんて悪夢だ。妖精から直で目覚めてくれればよかったのに。
 帰り際、出口で一礼したとき、軍務尚書がなにか呟いていた。何を言っていたのかは聞き取れず、唇の動きは眠くて読み取れなかった。
 帰ろうとするおれを見つけたハウプトマンから、イチゴを1パックお裾分けされた。実家の両親がたくさん送ってくれたとのことである。
 軍務省を出てしばらくすると、おれはようやく、軍務尚書が呟いた言葉を理解した。唇の動きを、今やっと言語化できたのだ。
『もどれてよかったな』
 寒気がした。どういう事なのか、おれにしては珍しいことに、知りたくなかった。

Ende