Eternal Another After
嫉妬色の緑
その1

 軍務尚書亡き後、誰にもつかず、退役するとばかり思われていた例の曲者が引き受けられた先は、関係する者にも関係しない者にも、最も意外な場所だった。
「黒色槍騎兵艦隊だと!?」
 故・オーベルシュタイン元帥の腹心、元官房長官にして元調査局長であったアントン・フェルナー少将――ハイネセンでの功績を考慮され、昇進し少将となった――の新しい勤務先は、黒色槍騎兵艦隊、ことビッテンフェルト提督艦隊・幕僚、参謀チームであった。
 この人事に驚愕しなかった艦隊メンバーは、ビッテンフェルト本人のみである。なにせ、フェルナーに対して艦隊の者は恨みをもっていなかったが、当の彼にしてみれば、まっとうに職務を果たしたのに不当な狙撃を受けたわけで、恨んでいてもおかしくはないわけである。
 実際、やってきたフェルナー少将は、任官の名誉に浴しているのと真逆のオーラをまとって参上してきた。表情や姿勢にこそ非礼はなかったが、『不満』という感情が軍服を着て立っているに等しかった。
 その人事を求めた唯一の人物であるビッテンフェルト元帥は、相手の様子になんら不快をいだかず、粛々と受け入れている様子であった。彼の押さえ役であるオイゲン大佐に問われたときの答えは、あいまいであった。
 ただ、彼はこう応じた。
「こうするのがよいと思ったのだ。理屈なんぞわからん。おれは、オーベルシュタインではないからな」
 そう言われると、黒色槍騎兵艦隊の面々は、それ以上何も言えなかった。彼らは元々、提督のこうした本能に従って、ここまで上り詰めてきたのだから……。
***
 オーベルシュタインの葬儀が済んだ後、ビッテンフェルトは、彼の棺が安置されている部屋を探した。
 表向きに見せているほど、彼は亡き軍務尚書を憎んでいなかった。いやむしろ、実際に抱いていた感情は真逆だった。しかし、同僚達にそれを打ち明ける気にはなれなかった。特に、彼がいなくなってしまった今となっては。
 そのため、同僚達と別れた今、ゆっくり彼の死を悼み、人知れず遺体に別れを告げようと思ったのである。
 部屋は無事みつかった。だが、先客がいた。
 銀の癖毛の男が、オーベルシュタインの棺に覆い被さっていた。その肩は震え、時折、すすり泣きが響いた。
(まずいときに来てしまった)
 ビッテンフェルトはそう思ったが、すでに遅かった。上官がそうであったように、葬儀の進行役を立派につとめあげ、終わった今、やっと上官との別れに涙していた彼は、物音に気づいて振り返った。
 緑の目を赤くし、涙に濡れていても、噂の美形顔は見劣りしなかった。彼が涙をぬぐうと、悲しみの表情も一緒に拭い去られ、ビッテンフェルトに対し、義務的な微笑の仮面をはりつけていた。
「これは、お見苦しいところを。どうなさいました、提督。道に迷われましたか? 出口は、ここを出て右手を進み、突き当たりを」
「いや、ここを探していた。邪魔して悪かったな。……外で待っているので、済んだら教えろ」
 そう言って出ようとした。だが、フェルナーが声をかけた。
「なんのために?」
 ビッテンフェルトが振り返る。
「……別れを惜しみに来た。卿と同じだ」
 死者を冒涜するつもりはないと伝えたつもりだったが、意外なことに、その発言がむしろフェルナーの逆鱗にふれたらしかった。彼の仮面が剥がれ落ち始め、作り笑いと怒りの混ざった、歪んだ表情が現れる。
「なぜ?」
 ビッテンフェルトは応答に迷った。明かすべきか、明かさざるべきか。
 そして、正直に伝えることにした。自分とオーベルシュタインの過去は彼も知るところであるし、何より、『自分程度の嘘ではこの聡い副官を騙せない』と考えたためである。
「あいつを愛していた。……言うなよ、だれにも」
 彼の緑の目に、怒りの炎はますます燃え上がった。ビッテンフェルトは、困惑に片眉をあげた。
(なんだ?)
 彼がヒュッと息を吸い込み、怒りを吐き出すようにフゥーッと吐く。内に燃え上がる激情を鎮火するように、ふかく深呼吸を繰り返す。
 何かを言いたそうであったが、おそらく、どれもこれも、上位にあるビッテンフェルト相手に言えることではないのだろう。言葉はなにもなく、ただ、怒りに燃え上がる目から涙が零れた。
「いってみろ」
 ビッテンフェルトは、気づくとそう命令していた。
「今ここで聞いたことについて、不敬を問わん。言いたいことを言え」
 堰が切られ、濁流があふれ出した。
「出て行け!!!!!」
 フェルナーが叫んだ。ビッテンフェルトは、その勢いに多少おされた。
 だが、圧倒されることは無かった。ただ、黙して戦場を見定めるがごとく表情をかたくし、石のようにそこへ留まっていた。
 出て行くこともないが、咎めることも言い返してくることもない。あのビッテンフェルト提督が、である。その事実がますます、フェルナーを怒り狂わせた。
「やるものか! 1分1秒たりとも、閣下との時間をおまえにやるものか! おまえが寄るつもりなら、おれは絶対に閣下のおそばを離れない。二度と! 絶対に! 撃たれようが死のうが、絶対にどいてやるものか!」
 そうまくしたて、ゼイゼイと呼吸を荒らげる。普段平静な彼がこんなに騒ぐことは、何年もないことだった。
 真正面から逆らわれたビッテンフェルトは、しかし、やはり何も言い返さなかった。怒りを感じた様子もまったくなかった。むしろ、鳶色の瞳に憐れみすら宿らせ、目の前の無礼な将校を見つめ返していた。
 その事が余計にフェルナーへ焦燥をあたえ、さらに激昂させた。
「おまえ、……おれが怪我している隙に、閣下を、……閣下に手をだしただろう?」
 そう問いかけられ、ビッテンフェルトはしばし思案した。なんのことか、ピンとこなかった。やがて、謹慎中の出来事を言われているらしい、と思い至った。手を出すも何も、自分は謹慎させられていた方なのだから、向こうが来てくれないことには、何もできない訳ではあったが。
「奴が自分で来たのだぞ。卿も知っての通り、奴の襟首をしめあげてしまって、おれは謹慎させられていたからな。向こうから来てくれんことには、独房から呪うくらいしかできん」
 冗談をまじえ、緊張を緩めようと試みたが、『奴が自分から来た』のくだりでフェルナーは怒り狂い、それどころではなかった。
 それこそが、ビッテンフェルトを許せない理由だったのである。
 だが、次なる激情をぶつける前に、彼は力尽きた。ふたたびの怒りに表情を燃え上がらせ、何かを言い出そうと口を動かしかけたが、突如、糸の切れたマリオネットのようにガクンとその場に崩れ落ちたのである。
 ビッテンフェルトが驚き、近づいて彼に手を貸そうとした。だが、フェルナーはその手をピシャリと払った。
 オーベルシュタインの棺に背を預け、座り込んでしまったフェルナーが相手を見上げる。
緑色の瞳に激しい怨嗟が宿り、ビッテンフェルトをゾッとさせた。
「猪」
 ぽつり、とフェルナーが呟いた。悪口らしい、と、ビッテンフェルトは理解した。
「唐変木、あんぽんたん、野暮、脳筋、野獣、下戸、」
 フェルナーが、思いつく限りの罵りを刻む。
 オーベルシュタイン相手なら、たった一文の事務連絡にすら激昂させられるビッテンフェルトが、フェルナーのライムをいくら聞かされても、少しも怒りを感じなかった。
 逆に、聞けば聞くほど、相手を憐れに感じた。痛々しいほどに、相手の悲しさ・悔しさが伝わってくるのだ。
「なんとか言ってみろよ」
 最後にそう言われ、ビッテンフェルトはようやく口を開いた。
「卿はこれからどうするつもりだ。まさか、オーベルシュタインと一緒に墓に付き添う訳にはいくまい?」
 静かにそう問いかけられ、フェルナーはぎりぎりと歯ぎしりした。
「そうしたい。そうしたいさ! どれほどそうしたいか! だができない。閣下の……最期のご命令を……墓に入ってしまったら、実行できないから……」
 そう答え終える間にも、彼は正気をなくしそうな様子だった。亡き軍務尚書への忠誠が彼を踏みとどまらせているが、それも、正気がもつ間のことである。
 ビッテンフェルトは、ある決意を固めた。ふたたび、フェルナーの前に手を差し出す。彼は、不思議そうに手を見つめた。
「決めたぞ。卿はおれが引き取る。オーベルシュタインを墓に入れ終わったら、身辺の整理をすませ、おれの元にこい。卿の新しい勤め先は、黒色槍騎兵艦隊だ」
 フェルナーの両目は、これ以上は開かないくらい一杯に広げられた。
「は……?」
「これは命令だ、准将。従わなければ、軍規にもとづき処罰するからな」
 そう言い残すと、ビッテンフェルトは踵を返して部屋を出て行った。出て行く直前に振り返ると、フェルナーは座り込み、緑の両目を真ん丸にしたままだった。
(結局、オーベルシュタインに別れは言えなかったが、まあ良いか)
 おそらく、他のどんな別れの挨拶よりも、この方が彼を安心して逝かせられる。そう、ビッテンフェルトは直感していた。
***
「元軍務省勤務、アントン・フェルナー少将です」
 困惑顔の群れに向かって、フェルナーが笑顔で挨拶した。毒にも薬にもなれるタイプの彼は、薬として振る舞えばオイゲンタイプになれるのだが、彼は、黒色槍騎兵艦隊にはないもの――とびきりの毒、それも、可能な限り強力な劇薬となることを決めた様子だった。
「特技は、デスク作業です。書類の不備をみつけ、直すのが得意です。皆さんの備品補充申請書類は、いつもやりがい満点な『間違い探し』でしたね」
 しょっぱなから主砲斉射とばかりに叩き込む。ピリッ、と、場の空気が張り詰めた。オイゲンが胃をさすりはじめる。
「苦手なことは、明らかな罠に突っ込んでいくこと。それから、ほんの少し工夫すれば楽にできることを、真正面から無駄に苦労してやることです」
 フェルナーの皮肉にしては明け透けなそれは、黒色槍騎兵艦隊の人間にも遺漏なく意図が伝わるようにされたものであった。『わざと明け透けにされている』ことも含めて。
 場がさらに剣呑になっていく。オイゲンの胃は、にわかにキリキリと軋みだしていた。
「どうぞ、末永くよろしくお願いします」
 1分1秒でも早く異動したい、その意図は明白であった。
***
「閣下。あの」
「フェルナー少将の件なら撤回しない」
 いらだった様子でビッテンフェルトにそう言われ、オイゲンは、彼の前に何十人と苦言を呈しに来た者がいたことを察した。
「申し訳ありません。しかし、その、……彼自身が嫌がっているように小官には思われます。ここが、彼にとって良い場所であるとも思えません」
「おれも卿とまったく同意見だ」
「では、なぜ?」
「これから、この国の在り方は変わっていく。戦闘の機会は、おそらくほぼ無くなる。おれたちも、在り方を変えねばならん」
「それは、……ええ。そうですな。閣下のおっしゃるとおりです」
「だろう? だが、誰しも急には変われん。そこでだ。軍務省の奴らというのも、軍人として籍を持っている連中だが、これからの国に必要な、平和に寄った生き方をしてきた連中だ。だから、そこにいたフェルナーをここに置き、戦場に偏りすぎているおれたちを、平和に生きるやり方に寄せる。つまりだ、今、彼にとって居心地よくないことはその通りで、彼が居心地よくなるよう、おれたち自身を変えていこうというのだ」
 そう説明されると、オイゲンはかなり得心した様子を見せた。ビッテンフェルトは、それを見て多少の安心を得られた。オイゲン以外の部下はこの説明ではまるで納得せず、「まあ見ていろ」とひたすら言い張るしかなかった。
 だが、心配そうにオイゲンは続けた。
「我々が変わるまで、フェルナー少将は待ってくれるのでしょうか」
 あまりに理不尽な目に遭い、耐えがたいとなったら、彼には『退役』という手段がある。軍人は奴隷ではないからだ。
「なんとかする」
 ビッテンフェルトの答えは、説明十分なものとは言い難かった。だが、オイゲンはそれ以上追求しないことにした。
 この提督は、必ずしも自分の行動に明確な説明ができるわけではない。しかし、それが間違っていたことはない。時には痛手を被ったこともあるが、それは相手が皇帝ラインハルトに匹敵しただけの話である。致命的に間違ったことがあれば、自分たちは生きていない。
 なので、副官として必要な仕事を済ませたのちは、オイゲンは、ビッテンフェルトの決定を信じて従うつもりであった。