すべてを忘れて此の先へ

 あれはそう、奴とおれが未だ同じ地位にあった頃のことだ。
 おれは、自分の艦――ヤクト・ティーゲルを賜ったばかりだった。提督としてすべきことがあり、宇宙艦隊総司令部の建物に初めて足を運んだ。
 用事を終えた帰り道、道にまよってしまい、人気のない通路で困り果てていると、足元をふらつかせて歩いている大佐を目にした。
「どうなされた」
 見ず知らずのその男――痩せ細った長身で、髪は半分白髪に覆われており、てっきり老人かと思えば三十後半くらいの顔をした男――に駆け寄り、ビッテンフェルトは彼の肩に手を置いた。
 すると、雷に撃たれたようにビクリと彼が飛び退き、真っ青な顔をしてバッと振り返った。しかし、こちらの顔を視認すると、安心したように身体の緊張を弛緩させた。
「すまない。おどろかせたな」
「いえ」
「みょうな歩き方をしているので、気になっただけだ。どこか痛むようだな? 今日は、上官に云って、早引きしたほうが良いのではないか」
「お気遣いありがとうございます。問題ございません。早くは歩けませんが、事務仕事ですので」
「そうか。卿がそう言うなら良いが……。それにしても、尋常ではない様子とお見受けする。なにか、その……困っていることでもあるのか?」
 後半を言う前に、(ビッテンフェルトにしては)気遣い、声を落とした。
 帝国軍人として働き、国に尽くすことは自分の誇りではあるが、少なからず、その誇りをおとしめる軍人はいる。たとえば、この半白頭髪の大佐のように比較的細身な者を集団で狙い、暴力をふるって憂さを晴らす者たちなどだ。
「卿の名はなんと?」
「うん? おれか? おれは、ビッテンフェルト大佐だ」
「フルネームはなんとおっしゃる」
「フルネーム? フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトだ」
 それを聞いた瞬間、大佐は、すくなからず失望した色を浮かべた。ビッテンフェルトがムッとする。
「なんだ? おれの名前がおかしいか?」
「いいえ。よいお名前です」
「なら、なんだ?」
「……私の件には、首をつっこまれない方がよろしいでしょう。ただ、それだけです」
「なんだそれは? どういう意味だ?」
「この国では、道理や法より、家柄や権力が優先される。……そう言えば、おわかりになりますか」
 それを聞いて、どちらかといえば察しが悪いビッテンフェルトにも、否応なく、彼の意味するところの見当がついた。
 彼は、どこぞの有力貴族に迫害を受けている平民、または下級貴族である。その時点で、加害者側がいかに横暴な真似をし、何十もの法を破り、何百もの確たる証拠が残っていたとしても、訴えを起こしたとき罰せられるのは被害者側となるのだ。
 ようやく、ビッテンフェルトは、先ほど何を確認されたかに思い至った。彼は、自分の名前に“フォン”が入っているか確認したのだ。貴族の家柄であるかどうか、を。
「お気遣いには感謝します。ですが、下手に手を出せば、私への見せしめのため、貴官をもっと酷い目に……ということも十分にあり得ます。おわかりいただけますな」
「……ああ。わかってる。だが、それでは卿はどうなる」
 聞いても詮のないことだったが、ビッテンフェルトは聞かずにいられなかった。
「先日、転属願いを提出しました。こんなナリでも一応、貴族の末席にありますから、上の人々が邪魔立てしなければ受理されましょう。そうなれば、少なくとも此処からは脱出できます」
「そうか……。かなうといいな」
「ええ。それでは、ご機嫌よう、ビッテンフェルト大佐」
 脚を引きずるように歩く彼を、ビッテンフェルトは為す術なく見送った。

 彼の名前を知ったのは、これから随分あとのことである。

***

「卿の作戦を聞くのは初めてだが、あまり、おれ好みの作戦ではないな。『オーベルシュタイン』大佐」
 作戦参謀室に一人で居たオーベルシュタインにそう声をかけつつ、ビッテンフェルト中将が入ってくる。机に向かっていたオーベルシュタインは、面倒そうに義眼の先を相手に向けた。
「本作戦は、ローエングラム伯とともに決定したものです。ご不満がおありでしたら、どうぞ、伯に上申なさってください。よりよい作戦案があるなら、閣下は、よろこんで耳を傾けてくださると存じます」
「いや、好みではないが、よりよい作戦案はない。変えろ、と言いに来た訳でもない」
「さようですか」
「久しぶりだな」
 ビッテンフェルトがそう切り出すと、無表情なオーベルシュタインは、わずかに眉間に皺をよせた。
「どこかでお会いしましたかな?」
「んなっ……!? お、おれを覚えていないのか!?」
 まさかの反応に、ビッテンフェルトは狼狽した。
「ほら! おれだ! ビッテンフェルト! 宇宙艦隊総司令部で一度、会っただろう? あのとき、おれはまだ大佐だった」
 ビッテンフェルトはそう説明したが、オーベルシュタインは、やはり見当がつかないようだった。
 うそだろう!? わざわざ名前を名乗らせ、お前も名を呼んだではないか! ……お、おれは、あれから気になって気になって、だが名前すら分からず、偶然ここで出会えて安心したのだというのに……!
「……申し訳ございませんが、皆目見当がつきません。閣下のような方をそうそう忘れるとは思えませんし、人違いではございませんか」
「いや! いいや、確かに卿だった! 名前を聞いた訳ではなかったが、確かに、卿と同じく、若い割に半白の髪をした男だった! 卿でないとは思えん!」
 と言いつつ、あまりに反応が薄いので、ビッテンフェルトは自信がなくなってきてしまった。
 彼は、信じがたい、という思いを隠せずにいた。出会った者に忘れられたという経験が、ビッテンフェルトには生まれてこのかた一度もなかった。名前を知らずとも『あのオレンジ髪のやつ』とか『あの声が大きいやつ』だとかで覚えられているのが常である。
「そう言われましても、本当に覚えがないものですから……」
 そっけなく応じつつ、オーベルシュタインは立ち上がり、使っていた資料を片付けようと本棚へ向かった。
 ビッテンフェルトは、そのオーベルシュタインにずんずんと歩み寄り、彼の痩せた両肩をぐわしと掴むと、自分の方を向かせた。
「よく見ろ! おれは――――」
「ヒッ!」
 その瞬間、オーベルシュタインの顔色が一変し、つい先ほどまで智者然として冷ややかだった顔が、おびえきって青ざめた表情となった。予想外の変化に驚き、ビッテンフェルトはすぐに手を離した。
 しかし、オーベルシュタインは恐怖に支配されたままだった。たたでさえ青白いのに、指の先まで真っ白に血の気を引かせ、持っていた資料で自らの頭をかばう。その手が、ガクガクと小刻みに震えている。やがて、立っていることができなくなったのか、ずるずると彼の体が下がっていき、本棚に背を預けてペタリと床に座り込んでしまった。
「やめてくれ……」
「す、すまん。おれは、ただ」
「やめてくれ、やめてくれ、やめて、やめて」
 先ほどまでの静かな声とは打って変わり、うわずった声でオーベルシュタインが繰り返す。様子がおかしい。どうも、おれの声は彼に聞こえていないような気がする。
「オーベルシュタイン大佐、悪かった。乱暴するつもりはない、本当だ。ただ、おれは昔、貴官に会ったことがあるんだ。それで、少し話したかっただけだ。何もしない。急に掴んで、悪かった。なあ、」
 すっかり困り果てた様子でビッテンフェルトが謝罪しつつ、相手を落ち着かせようとする。まるで、地位も体格も下の相手をいじめているようで、卑怯を最も忌み嫌うビッテンフェルトはバツが悪くて仕方がなかった。
 すると、オーベルシュタイン大佐は深く息を吸い、吐き、深呼吸をはじめた。何度か繰り返したのち、ようやく資料を下ろし、頭をかばうことをやめる。目からは、涙の筋が流れていた。その表情は落ち着いてきていたが、顔も体もまだ蒼白なままである。
「手を……」
 ビッテンフェルトが相手を起こそうと手を貸す。しかし、オーベルシュタインは、それをやんわりと払い、本棚に掴まりながら自力で立ち上がった。ふらり、と、足元がぐらつき倒れかけたが、大佐はなんとか踏みとどまった。
 彼が目をあげ、ビッテンフェルトの鳶色の目をみつめる。義眼に浮かんでいた怯えは消え去り、かわって、毅然とした光がそこにあった。
 3秒ほど見つめ合った後、大佐は目をそらし、自身の机につかつかと歩み寄った。そして、抽斗を引き、ガサガサと中を漁り、何かを取り出した。どうやら、薬瓶のようだ。
 その瓶から、白い錠剤を数個手にとり、大佐はソレを口に入れた。瓶を置き、机に置いてあった水を手に取り、ぐっと飲み干して薬を胃の中に押し流す。
 ふう、と息を吐きつつ冷や汗を拭き、ようやく平静を取り戻した様子を大佐は見せた。
「……取り乱してしまい、申し訳ございませんでした」
 空になった水の容器を机に置きつつ、大佐は、ビッテンフェルトに謝罪した。ビッテンフェルトがパチパチと目を瞬かせる。
「いや。おれのほうこそ、詮無きことで食い下がって、すまなかった。まさか、そんなになるとは――」
「言っておきますが、閣下に怯えた訳ではございません」
 ビッテンフェルトが謝罪を返すのも待たず、オーベルシュタインは噛みつくようにそう応じた。大佐がこちらを睨んでいる。しかし、その怒気は、ビッテンフェルトを通して、別の何かに向けているらしかった。
「ただ、私の中に、忌まわしい記憶が残っていて、その光景や痛みを思い出した。それだけです。笑いたければ、好きに笑われればよいでしょう。たかが記憶ごときに震え上がって、と――」
「いや。笑わん」
 ビッテンフェルトは静かに、だがハッキリと応じた。
 軍人をやっていれば、思い出すだけでも脚が震え、歩けなくなるような悍ましい思いをすることもある。どれほど勇敢な人間であってもだ。それが、軍人をやるということだ。
 そして、ビッテンフェルトは、自分が忘れられた理由を本能的に察しつつもあった。
 オーベルシュタインの『忌まわしい記憶』は、この地上で作られたものだとしたら? そして、彼が使っている薬に、その記憶を薄れさせる効果があるのだとしたら……。
「そうですか。……ですが、いずれは消えるはずです。伯に仕えるにあたり、無用の記憶はすべて……そして、コイツもいつかは不要になるはず」
 チャリ、と、白い錠剤が入ったガラス瓶を揺らして見せつつ、オーベルシュタイン大佐は自嘲気味に笑って見せた。
 ビッテンフェルトは頷いて返した。
「はやくそうなるといいな」
「ありがとうございます。それで、他に御用件は?」
「いや、ない。仕事の邪魔をして、すまなかった」
「いえ」
 ビッテンフェルトは会釈を返し、参謀室を後にした。

 彼とは、ここ、ローエングラム元帥府で初めて出会った。そういうことに自分もしておこう。
 自分との最初の出会いの記憶が、震え上がるほどの恐ろしい記憶と一緒に、彼の内から早く押し流されるように。

Ende