ご褒美にキスして

「忠誠心というものは、その価値を理解できる人物にたいしてささげられるものでしょう。人を見る目のない主君に忠誠をつくすなど、宝石を泥のなかへ放りこむようなもの。社会にとっての損失だとお考えになりませんか」
 そのようにぬけぬけと言ってのけ、ラインハルトの部下になりたいと願い出てきた元・門閥貴族陣営の軍人は、その神経の図太さを買われ、冷徹氷のごとしと称される参謀長オーベルシュタインの配下につけられることとなった。ラインハルトの狙いどおり、彼はオーベルシュタインを前にしても萎縮することはなく、さらに、彼の元で果たすべき役割を認識し、着実に地歩を確立した。劇薬たるオーベルシュタインを中和する、解毒剤の役割を。
 アントン・フェルナーを評価し、重用するようになった一方、オーベルシュタインは彼に決して気を許さなかった。貴族連合との内戦は終結し、もはや帰れる古巣など存在しない段階になってもなお、オーベルシュタインは、フェルナーの不遜な笑みの下に裏切りの火種がありうることを想定しつづけた。とはいっても、オーベルシュタインが気を許す相手というものは見る限り存在しないので、他と平等に扱っているともいえた。

 そうした完全無欠、冷徹鋭利の警戒心が反応をしめした出来事は、リヒテンラーデ一族を追い落とし、ローエングラム独裁政権を確立すべく、忙しく働く最中の或る日に起きた。
 その日、いつものように、オーベルシュタインとフェルナーは同じ執務室において各自の席に座り、職務に励んでいた。その日の勤務時間が終わりに近づいてきた頃、フェルナーがンン、と背伸びをし、コキ、コキと首を鳴らす。
「今日は定刻に帰るとよい」
 フェルナーに視線を向けぬまま、仕事の手を休めることなく、オーベルシュタインがそう言った。それを聞いて、フェルナーは意外そうにパチパチと両目を瞬かせたのち、ニッと笑って「いえ」と首を横に振った。
「上官が休まず働いているのに、部下が先に休む訳には参りません」
「命令だ」
「『命令』と言われては、従わざるを得ませんが……。小官が残ることで閣下の業務を減らせるのであれば、閣下のご健康のため、小官を残すことを提言いたします。何日も遅くまで働いておられるのは、閣下も同じことでございましょう」
 フェルナーがそう言うのを聞くと、オーベルシュタインは不満そうに片眉を僅かに持ち上げた。それからフウ、と小さく溜め息をつき、「わかった」と一言応じる。そして、帰り支度を始めた。
 不遜な部下は、満足そうにフフンと小さく笑った。他の者であれば、オーベルシュタインの不満を過敏に感じ取り、『出過ぎたことを言ってしまった』と少なからず動揺したことだろう。だが、フェルナーは違う。今の参謀長の反応は、不満ではないことを知っていた。不満があるなら、それを反論にして返すはずである。何も言わずに従ったということは、『言い返せることがなかった』、つまりは『その通りである』と考えたのだ。
 元帥府の定刻ベルが鳴ったとき、オーベルシュタインとフェルナーの両名は、帰り支度を済ませていた。彼らにつく護衛らにも通信を入れ、今日これより執務室が無人となる旨を伝える。
「もし、閣下が小官を気にかけてくださるのでしたら」
 去り際、フェルナーはそのようにオーベルシュタインに声を掛けた。扉を開こうとしていた総参謀長がくるりと振り向き、感情なき機械の目で相手を見据える。
「ほんの少し、ご褒美を頂戴できれば、元気に働いてご覧に入れますよ」
「賄賂をとらせるつもりはない」
 ピシャリとオーベルシュタインが応じると、フェルナーは「そうじゃありませんよ」と首を横に振った。
「機密は教えん」
「そういうものでもなく」
「口利きは期待するな。むしろ逆効果だ」
「そういったものでもなく」
「私の命か?」
「いりませんて。物騒ですな」
「では、なんだ?」
「ちょっとしたもの……くださっても、減らないものです」
 オーベルシュタインが首をかしげる。フェルナーの言わんとするところに、彼は見当がつかなかった。
 考え込んでいると、フェルナーが歩みを進め、オーベルシュタインの間近に迫った。
「これです」
 その言葉の後、彼の顔が間近に迫ってきた。顔が視界に収まりきらぬ程に近づき、整った造作も、好奇心に満ちた目元も見えなくなる。
 そして、総参謀長の薄く青白い唇に、柔らかな感触が押し当てられた。それは、鳥が啄むように軽く下唇を吸い、すぐに離れた。
 フェルナーの顔が再び離れ、オーベルシュタインは、彼の爛々と輝く目とまた向かい合うこととなった。
「……いかがでしょう?」彼の声は期待に満ちていた。
「なんだこれは」オーベルシュタインの声は、普段と変わらず冷淡平静であった。
 フェルナーは、やや残念そうに項垂れた。
「なにって、接吻ですよ。ご存知ありませんか?」
「知っている。確認しただけだ。……罰ゲームか何かか?」
「ちがいますよ」
「では、なぜ」
「なぜってそれは……小官がしたいからです。閣下と」
「なぜ」オーベルシュタインが鋭く問い詰める。
「閣下をお慕いしておりますから」
 フェルナーは、照れくさそうにというよりかは、反応を試すようにそう言い放った。だが、その告白もまた、オーベルシュタインの氷壁を溶かすには至らなかった。
「ほう?」応答もやはり、淡々としたものである。
「それで卿は、接吻以上の褒美を先々期待しているのか?」
「頂けるならば頂きますが、なくともこれまで同様にお仕えします」
 フェルナーは、オーベルシュタインの反応の薄さに少々失望した様子は見せたが、それでも傷ついた様子はまったく無かった。
 いくら美形とはいえ、同性相手に突然口づけをして、恋愛感情を利用しようという意図ではないだろう、と、オーベルシュタインは考えた。異性ならばともかく、特に同性愛者という訳でも、そう公言したこともない自分に使う手としては、分が悪い。と、いうことは、想いの程度はさておき、信じられないことだが、この男は自分に好意を抱いているらしい。自ら口づけたいと考える程に。
 なんと物好きな、と、オーベルシュタインは改めて思った。と、同時に、多少の興味もわいた。この自分に、そもそも好意を抱く人間というものが、オーベルシュタインにとっては珍しかった。
 一方で、面白い反応でも期待しているのか、一世一代の告白の答えを待つというよりかは、実験結果を待つような爛々とした目つきが気に入らなかった。好意的にしろ嫌悪的にしろ、この男が面白がる反応を渡すのは、どうにも矜持が傷つく気がする。
「ほう、そうかね」
 オーベルシュタインは淡々と応じた。
「では、折々くれてやる。卿の言うとおり、減る物ではないからな。だが、それ以上を期待せんように」
 彼がやや不満だったことに、フェルナーはそれを聞いて、非常に嬉しそうに顔を輝かせた。
      *
「閣下」
 艦隊戦に一区切りつき、休息を与えられて移動している途中、フェルナーがそのように一言よびかけた。オーベルシュタインが振り返ると、それ以上何も言う様子はなく、ただ、何かを期待するように見つめてくる。周囲に人影はなかった。
 オーベルシュタインは、フウ、と溜め息をひとつつくと、フェルナーに向き直り、唇をほんの少し開けて待った。それが、いつもの合図だった。
 フェルナーが顔を寄せる。薄い下唇を軽く吸い、啄むような軽い口づけをする。それは、最初のころよりも徐々に時間をのばし、じっくりと味わうようなものに変わっていたが、それ以上深くはならない。一度、舌を入れられかけたオーベルシュタインが驚き、反射的にフェルナーを突き飛ばしたためである。
 そのとき、フェルナーは「大変失礼致しました」と一言謝罪と一礼を返した。それからは、どんなに長くとも、接吻は深いものになっていない。
 ちゅ、ちゅ、と何度も繰り返し啄まれ、オーベルシュタインは無意識に目を閉じた。じっと相手の目を見つめていると、動揺を誘われる気がしていた。一方、触感は更に鋭敏になってしまうことが困りものであった。
 は、と、フェルナーが息を吐き、温もりがオーベルシュタインの顔から離れる。それと同時に、オーベルシュタインの義眼も見開かれる。
「満足したか」
「ふふ。ええ」
「では、すぐに休め。戦いが始まれば、しばらくは眠れんだろう」
「はっ。承知しました」
 それから二人はしばらく同行したものの、寝室に入るときには別室に分かれた。そして、それぞれベッドで眠りについた。続く戦いで必要なエネルギーを、少しでも得ておくために。
      *
「そういえば、ご存知ですか。総参謀長閣下は、例の転向者アントン・フェルナーと、愛人関係にあるという噂です」
 ミュラーがそう言うのを聞くと、海鷲に集まっていた提督たちは一斉に咽せた。ちょうどビールを口にたっぷり含んだところであったビッテンフェルトなどは、猛烈な勢いでそれをまき散らし、近くに居たワーレンやメックリンガーから強く非難をうけた。
「なんだと? 愛人?」
「フェルナーというのは女だったか?」
「いえ、男性の軍人です。中々に美丈夫の」
「同性愛者なのか」
「さあ。女性とも付き合いがあったということですので、両性愛ではないかと」
「どちらにしても、あのオーベルシュタインとか? 居場所を得るのに必死なのはわかるが、よりにもよって」
「いえ、それが、あの総参謀長のことですから、やはり反応は芳しくなかったそうで」
「だろうな。あれには男らしいところがない。女でもゾッとするが」
「では、どういうことだ」
「なんでも、フェルナーの方が総参謀長に熱をあげていて、仕事の褒美に口づけをねだっているのだと」
「なんだそれは? 罰ゲームの間違いではないのか」
「参謀幕僚から聞いた確かな情報で」
「なんとまあ……。本当だとすれば、あの男、相当の好き者と見える。何をどう拗らせたら、オーベルシュタインをそう好むようになるのか」
 一同は両者の口づけをうっかり想像し、うぷ、と吐き気を催した。
「……もうよそう! 酒が不味くなる」
「ああ。人の恋愛をとやかく言うものではない」
「にしても、オーベルシュタインねぇ……」
 それから提督達の話題は別に移ったが、その噂が彼らに与えた衝撃は、他の話題のいずれよりも強いものであった。

 フェルナーが目を覚ますと、そこには、病室の天井があった。
(はて。何があったのだったか……)
 昏睡と覚醒の間をさまよいながら、フェルナーは記憶をたどった。自分はたしか、ラグプールに向かい、部下の指揮をしていて……。
 はた、と、彼は事件を思い出し、カッと目を見開いた。あわてて飛び起きようとするも、身体に何かが巻き付けられている。さらに、ズキリという痛みも生じ、彼は眉を寄せて呻いた。
「まだ動くな」
 横から、聞き慣れた冷淡な声がした。それは彼が愛して止まない声であった。
 ベッドに再び背を預けたフェルナーは、目だけを動かして声の出所にむけた。そこには、愛しい想い人――こと、上官たる軍務尚書オーベルシュタインが佇んでいた。
「閣下」口から出た声は、かすれていた。
「申し訳ございません」
「何を謝る」
「……このような、ことに……お役に立てず」
「卿のせいではない」
 オーベルシュタインは淡々と事務的に伝えた。だが、その僅かな声音の違いに、彼の思いやりがあることをフェルナーは理解するようになっていた。ふ、と、フェルナーが微笑む。
 すると、オーベルシュタインはゆっくりとフェルナーの上に上半身を覆い被せ、自身の影の中に相手を取り込んだ。そして、自身の顔をフェルナーの顔に寄せていく。
 やがて、彼の薄い唇が、フェルナーの幾らか色味の良い唇と合わせられた。フェルナーがするように吸いつくことはなく、軽く合わせるだけの口づけである。それは、ふわりと触れるようにだけ行われ、すぐに離された。
 オーベルシュタインが元通り身を起こし、部下を見下ろす。その眼光には、いましがた行ったことの痕跡がまったくない。
「褒美だ。……生きて戻ったことへの。受け取るが良い」
「はい。しかと」
 フェルナーは微笑み応じた。
 オーベルシュタインは、それに頷いて応じた。あとは『用が済んだ』とばかりに外套を翻し、すぐに病室を出て行った。
      *
 透明な棺の中に、青白い上官が横たわっている。死に化粧を施され、死亡直後よりも大分顔色を改善させた彼は、生きて眠っているかのようだった。だが、彼にもはや息はなく、その身体は永遠に冷たくなってしまっている。
 フェルナーは、棺の横で一人、葬儀の準備を進めていた。時折、天上(ヴァルハラ)に旅立ってしまった、愛しい上官の顔を盗み見る。
 一段落ついてまた顔を見たとき、フェルナーは思い立ち、上官を冷蔵している棺のスイッチを押した。プシュン、と音を立てて棺が開かれ、中から冷気があふれてくる。その冷気に顔を近づけ、棺の中へと身を乗り出し、フェルナーは上官の亡骸に、その薄い唇に口づけた。
「つめたっ! 硬っ!」
 温度と硬さに驚き、フェルナーはすぐに離れてそう呻いた。だが、彼はすぐに気を取り直し、気が済むまで遺骸に口づけた。死人の唇は冷たく、石のように硬く、彫像に口づけているかのように感じられた。
 それから、フェルナーは顔を離した。もう一度、棺を閉じる前に上官の死に顔をじっくりと眺め、そしてようやく閉じる。棺の機構から再び冷却が行われ、朽ちゆく遺体の形を葬儀まで保とうと働く。
「お疲れ様でした、閣下。ごゆっくりお休み下さい」
 誰にともなく、フェルナーはそのように声をかけた。その声に嘆きや悲しみはなく、気楽に平時の別れを告げるような口調であった。
「考えたことはあるのです」
 また、誰にともなくフェルナーが告げる。部屋には誰もいない。
「職務をうんと果たして、何もすることがなくなったら、閣下と二人で……誰も、我々を知らぬような田舎惑星に引っ込んで、小さな家を買って暮らして。毎日、他愛もない雑談をして、二人分の食事を囲んで、外を散歩したりして」
 彼に応える者はない。
「そういう隠居生活がしてみたいなと思ったことがあります。ですが、接吻より多くのものを望まない約束ですからね」
 フェルナーがまた、棺に視線を落とす。オーベルシュタインは眠ったまま、応えない。
「ですが、接吻は本当、好きなだけさせてくれましたよね。閣下ったら律儀でいらして」
 彼に応える者はない。
「なので、満足してますよ、おれは。……さて! 最後の一仕事……これが終わったら、田舎に引っ込める!」
 そう気合いを入れたのち、フェルナーは仕事用のパッドを片手に立ち上がり、部屋の外に向かった。そこは遺体の保管室であり、正式な仕事場ではない。今頃本来の自席で、彼の決済を求めて右往左往する部下がいるかもしれない。

 部屋からフェルナーが出て行く。あとには、無音の部屋と、もの言わぬオーベルシュタインの棺が残された。

Ende