イノガミ
その1

 その村では、とある神を奉っていた。それは猪神の化身とされ、神聖な山に住むとされた。その神は怒れる祟り神であり、人を襲い、喰らう。村は、供物を捧げることで、村人の安全を乞うようにしていた。
 ある年、生け贄には、身寄りのない痩せた男――オーベルシュタインが選ばれた。生まれつき体が弱く、肌は青白く痩けていて、力仕事の役に立たない男だった。知恵は人一倍まわったが、小さな村ではさほど足しにならなかった。
 彼は、通告を受けても、ほとんど動揺しなかった。ただ、「わかった」と落ち着いて応じ、しきたりに従って身を清め、白い着物をまとい、付添人と共に山へ向かった。

 付き添い3人、生け贄1人の計4人が、供物の祭壇を目指して山を登る。
 供え物は、美しく織った反物を少々、果物や野菜の作物、そして、村人を1人と決まっていた。山の祭壇に彼らが着くと、付添人は、運んできた供え物を並べ、生け贄は、その手前に膝をついて座った。
 生け贄は両目をつむり、祈りを捧げるように両手を組んだ。堂々たる姿だった。知恵ある彼は、ここから逃げても、死の運命を変えられぬことを悟っていた。
 供え物を並べ終えると、付添人は祭壇から離れ、距離をとった。あとは、猪神が供物を受け取ったことを確認し、帰ることになっている。
 まもなく、獣の唸り声が響いた。付添人たちがビクリと震える。彼らは供物をじっと見据え、あわれな生け贄が引き裂かれるのは今か今かと待った。
 しかし、予想よりも間近に、彼の者は現れた。
「ぎゃあ!」
「うわあああ!」
 背後から悲鳴が聞こえ、オーベルシュタインはバッと振り返った。少し離れた場所に、付添人をした村人たちの、血の池ができあがっていた。
 大人の男の2倍ほどの身の丈と、隆々とした筋肉を持つ、まばらに獣の毛を生やした化け物――するどいツメとキバを持つ猪神が、付添人の片腕をムシャムシャと貪っている。
「ひっ!」
 覚悟を決めていたオーベルシュタインも青ざめ、体勢を崩し、猪神から1歩あとずさる。
 生き残っていた付添人は、1人だけだった。バラバラに千切られ、喰われていく仲間を、腰を抜かして座り込んだまま、声も出せずに青ざめ見ている。
 猪神は、骨ごとバリバリと噛み砕き、殺した付添人たちをすっかり喰ってしまった。あとには、食べ残した帽子と、血溜まりだけが残っている。
「ふう、くったくった」
「ひ、……ひいいい……」
 生き残りの付添人が震え上がる。猪神の食欲は、彼以外の2人だけで満たされたようには思えなかった。
 猪神の鳶色の目が、ぎょろりと残りの1人に向けられる。付添人は、恐怖で失禁していた。
「お前は残しておいてやる。生きて帰って、おれがどんなに恐ろしかったか伝えてこい。『次に供え物を遅れさせたら、村人全員を喰らってやる』とな!」
 野太い脅しが山に木霊する。付添人は激しく頷き、つまづきながら山を転げ下りていった。
「……さて。お前が今日の『生け贄』だな?」
 猪神が振り返り、オーベルシュタインを見やる。オーベルシュタインは青ざめ、また1歩、無意識に後ずさった。
 のしのし、と、猪神が近づく。オーベルシュタインの手がカタカタと震える。
 猪神が、相手の両脇を手でつかみ、『たかいたかい』をするように持ち上げた。軽々と持ち上げられたオーベルシュタインがギュッと目をつむる。
「……ひ、ひとおもいに、……たのむ……」
 震える声で懇願する。猪神に、獲物をいたぶる趣味がないことを祈るしか、もはやできることはなかった。
 猪神が、ウウム、と唸った。
「ずいぶん痩せているな。骨と皮しかなさそうだ」
「……うん?」
 オーベルシュタインが恐る恐る目を開く。猪神は不満そうな顔をしていた。
「腹が減って仕方ないときなら喰ってもいいが、せっかくの生け贄、もう少し肉がほしいものだ」
「……生まれつき、食べても、肉がつきにくい、もので……ご不満、でしょうか」
 震える声でオーベルシュタインが尋ねる。死ぬ覚悟をしてきたのだから、約束を果たしたとは思われたい。
 ウウム、と、猪神はまた唸った。
「よし。もうしばし、お前を生かしておいてやろう」
「は?」
 オーベルシュタインが両目を剥く。
「逃げるなよ。逃げたら、どこまでもニオイを追って、すぐに喰ってやるからな」
 そう言うと、猪神はオーベルシュタインを肩にかつぎ、供え物をひょいひょいと両手に抱え、山を登っていった。

      ***

 猪神のたくましい肩に乗せられ、のっしのっしと安定した歩みに揺られて、オーベルシュタインは神の住処まで運ばれた。そこは、山の山頂付近にある岩穴だった。
 入り口は、巨体の猪神が多少かがんで入る程度の大きさで、中は広い。居間らしき部屋は意外にも文化的で、中心に簡易な囲炉裏があり、猪神サイズの巨大な藁座布団もあった。人間サイズよりも一回り大きな鍋などの調理器具もあり、野菜が藁ヒモでつるされている。
「…………」
 オーベルシュタインは、それらを驚き眺めていた。ついさっき起きた、荒ぶる獣じみた虐殺からは想像もつかない、整った居住まいだったためである。
(この者は、ヒトなのだろうか。あるいは、ヒトとして育った物の怪か……?)
 無意識に、そのように勘ぐりを巡らせる。
 囲炉裏の前まで着くと、猪神は、供え物を置き、オーベルシュタインのこともそっと下ろした。
 あらためて、猪神を見上げる。身を起こした猪神は、ヒトの倍の丈で、そうして見ているだけで圧倒された。
 見上げるオーベルシュタインに対して、猪神は何も言わず、動かない方の供え物を片付けにかかった。野菜や反物を取り上げ、猪神が奥の間へ向かう。そこには、倉庫とおぼしき小部屋があった。
 すべて収納し終えた猪神は、居間に戻り、ちらとオーベルシュタインを見下ろした。小さな生け贄が、緊張に身を強ばらせる。
「……逃げないのだな」
 猪神は一言、そう言った。オーベルシュタインが目を瞬かせる。
「逃げてほしいのか?」
「はっ、そうだな。そうすれば、お前を追いかけ回して遊べる。いい退屈しのぎになるだろうよ」
 皮肉っぽく嗤い、猪神がそう応じた。生け贄も自嘲気味に小さく笑い、力ない口調で答えた。
「無意味なことはせん。元より、人より足は遅いうえ、この険しい斜面を転ばず歩くことすら困難だろう。あなたから逃げられようはずもない」
 出入り口の外の、険しい岩山の斜面を指し示しながら言う。そこは、でこぼことした大小の岩に覆われており、常人には踏破も難しい場所であった。
「そうか」
 猪神は退屈そうに応じた。彼にもそれは分かっている様子だった。
 それきり、会話は途切れた。猪神は、囲炉裏のそばに座り、火をおこし始めた。食事の支度にかかるらしい。オーベルシュタインは、所在なげに立ったままでいた。
「私を喰らうのか?」
「いや。お前は、もう少し太らせないと、うまくなさそうだ」
「太るまで面倒をみると?」
「ああ」
「私は太りにくいぞ」
「そうか」
 また会話が途切れる。『なら今喰ってしまおう』とはならないらしい。すぐに殺されるとばかり思っていたオーベルシュタインは、意外な事態に、繰り返し目を瞬かせていた。
「お前の寝床はそこ、トイレは出て右に進んだ先の穴を使え。水はあっちだ」
 鍋に目線を向けたまま、猪神は指さしつつ気怠げに説明した。
「早く太るよう、せいぜい無駄に動かんようにな」

 こうして、生け贄に差し出されたオーベルシュタインは、荒ぶる神との奇妙な共同生活を送ることとなった。

      ***

「ほら、くえ」
 大ぶりの茶碗に炊きたての白米を大盛りによそい、猪神がズイと〝生け贄〟へ差し出す。
「……こんなには食べられない」
 困惑しつつ、オーベルシュタインは茶碗を受け取った。それは、人間用なら五杯にはなる量であった。
「食えるだけ食え」
 ぶっきらぼうに猪神は応じる。そしてさらに、何かの大きな獣の肉を焼いたもの、貢ぎ物の野菜で作った和え物に漬物、魚と昆布の入った汁物もドンと並べた。
 オーベルシュタインが目をみはる。どれも驚異的な量であるのも然る事ながら、これほど豪勢な品数は、幼い頃の正月祝いでしか見たことがなかった。
 困惑しつつ、猪神に押しつけられた箸を手にする。ふと見ると、漆塗りに金箔がまぶされたソレは、人間の手に合う小さなものであった。
「これは、人の手に合う大きさだな」
 そう呟きつつ、オーベルシュタインはカチカチと先端を合わせた。良い品で、手によく馴染む。それに、川の流れのような美しい模様が入っていた。
「おれの箸じゃ食えんだろう」
「ああ。……だがどうして、あなたの家に人の箸があるのか」
「それを知ってどうする? いいからとっとと食え。食わんと、今すぐ貴様をおかずにするぞ」
 猪神がすごむ。だが、オーベルシュタインはフッと苦笑したのみだった。どちらにしても食われるのだから、無意味な脅しだと思った。
 しかし、言われた通り、豪勢な夕食に箸をつけた。猪神の口の大きさに切られたおかずはどれも大ぶりで、オーベルシュタインの口では一切れに五度頬張る必要があった。茶碗は片手で支えられなかったので、しかたなく床に置き、すくい取るように米を食む。
 温かい米が喉を通ると、哀れな生け贄は、身体の奥底から緊張がほどける心地がした。
「美味しい」
 しみじみと、思わずそう呟く。
 彼は、村の厄介者であった。炊きたての米は勿論、白米を食べたのも久々であった。『仕事もできないのに飯ばかり食う穀潰し』と、責める声も、今はない。生け贄となることが決まって村で最後にした食事より、目の前の食事は、ずっと温かく豪勢であった。
 ほろり、と、彼の目から涙がこぼれ落ちた。泣き伏せることはなく、静かに涙をこぼし、荒ぶる神の望む通りに食事を口に運ぶ。
 猪神は、生け贄の言葉に何も返さなかった。ただ、自分も自分の食事に集中し、大きな茶碗に盛られた米をひょいひょいと口に運んでいく。
 彼が自分の食事をすっかり平らげたとき、生け贄の器には、中身がまだたっぷり残っていた。
「もう食えん」
 口元を押さえ、オーベルシュタインが言う。猪神は頷いた。
「では、寝床に横になれ。食ったものが身になるようにな」
 オーベルシュタインは頷いた。あてがわれた寝床に向かい、そこに身を横たえる。乾いた藁を敷き、そこに掛け布団が被せられた寝床は、存外に寝心地がよかった。
 遠のく意識の中、一人でせっせと食器類を片付ける猪神を眺める。
(不思議なものだ。立派な食事を食わせてもらい、何もせず寝ていていいと言われ、世話されることになるとは。本当に、私を食う為なのだろうか……)
 そんな思考を巡らせつつ、生け贄は眠りに落ちた。

      ***

 猪神との生活は、それから何日も続いた。季節が変わり始めても、猪神は贄を食べようとしなかった。
 オーベルシュタインは時折、自分の腹に手を這わせ、どれだけ肥ったかを確認した。神の住処へ来る前よりは厚くなったように思われるが、相変わらず細身である。
「まだ、私を肥らせるのか?」
 オーベルシュタインは、みずからそう尋ねた。すると決まって、猪神はこう返した。
「ああ。まだだ。まだ痩せすぎだ」

「なにか手伝おうか」
 食べるだけで何もしていないことをいたたまれなく感じ、そう尋ねることもあった。
「いらん。下手に動かれては痩せてしまうからな」
 決まってそう猪神は返した。

 猪神は、中々に多才で働き者であった。時折、貢ぎ物を集めに山を下りるが、基本的にはたった一人での生活を自ら支えていた。
 薪を割り、風呂を沸かし、保存食を作り、米を炊いて食事を作る。魚や肉、山菜などを採集しに行く。畑を作り、自分でも野菜を育てていた。反物は周辺の村から供えさせたが、服や布団などを自ら繕う。『人ならざる大きさであるから、作らなければ着られる物がないのだろう』と、オーベルシュタインは合点した。
(しかし、だとすると……そもそも、なぜ彼には、服を着る習慣があるのだ)
 十分な食事と余暇を与えられ、もとより知性の高い彼は、そう疑問を巡らせていた。

 猪神が留守であったある日、ふと思い立ち、奥の倉庫へとオーベルシュタインは入り込んだ。食料や物資があるばかりと思っていたが、奥に、何やら書物があることに気づく。
 丁寧に積まれた巻物を取り上げ、中を開くと、絵巻物語が記載されていた。他にも、誰かの日誌や記録などが置かれていた。それらは、繰り返し読まれ、擦り切れていた。

「あなたは、かつて人として暮らしていたのではないか?」
 猪神が戻り、食事の時間となったとき、オーベルシュタインはそう尋ねた。
 猪神は、顔をしかめた。
「おれが人に見えるか?」
「言葉を話し、衣服を身につけ、文字を読む……。あなたは、あまりに人らしすぎる。人を喰らうあなたが、何故そうであるのか」
 猪神は、答えなかった。代わりに、なにかを飲み下すように食事をかき込む。ガツガツと米・おかずを頬張り、汁物でごくりと流し込んだ。
 オーベルシュタインは、返答がないと見ると、いらだったように続けた。
「あなたには、人の肉を喰らう必要があるのだと思っていた。しかし、そうではないだろう。人より遙かに多く食べるが、他の物で事足りる。人として、どこかの村で暮らすことも……」

「おれは人ではない!」

 猪神が吠えた。その勢いに小さな生け贄は押され、後ろに仰け反り倒れ掛けた。
 猪神の目は、怒りに燃え上がっていた。フー、フー、と、息を荒らげている。オーベルシュタインは、鋭利な爪が自分にかかることを覚悟した。
 だが、怒りの炎はすぐに消えた。猪神は、何事もなかったかのように目線を食事に戻し、淡々と続きにとりかかった。
 一見、無感情に戻ったような両目には、かすかに悲しみの色があるように思われた。
「そうか……。そうだな」
 オーベルシュタインが呟く。
「私もそうだ」
 奇妙な言葉を聞き、ちら、と、猪神は再び目を向けた。オーベルシュタインは、もとどおり真っ直ぐ座り直した。
「私も、言葉を話すし、衣服を身につけ、文字を読むことができた。村の暮らしを良くするために、提案した。力仕事は苦手だったが、最善を尽くした。それでも私は、村にとって『人』にはなれなかった。『生け贄』……捨て石になって、ここに居る。詮無きことを言って、すまなかった」
 そう、淡々と述べたのち、粛々と食事を口に運び始めた。食事をとり、少しでも早く肥えることが、荒ぶる神の要求である。
 猪神は、何も答えなかった。しばらくして、代わりにこう述べてきた。
「人の代わりに、山菜と魚と獣肉を食っていても、確かにおれは生きられる」
 オーベルシュタインが目を上げた。猪神の目は穏やかだった。
「だが、おれは人を喰らわねばならぬ。より正確にいえば、『おれは人を喰う』と思わせる必要がある。おれは、恐ろしい人喰いの化け物だと。人がおれを避け、おれを倒そうとせんようにな」
「それにおれは、人と同じものを喰らう。食料が少なくなれば、奪い合いになる。そうならんよう、周囲の村で人が増えすぎぬようにする。不作の年には、さらに人を減らす」
「だが、村がなくなってしまうのはおれも困る。なので、供え物と生け贄を求める。『そうすれば見逃してやる』と言ってな。誰を捧げるか選ばせ、おれに作れないものを差し出させる。そうして、減らさねばならぬ数だけ殺し、村を維持し、『猪神を討伐すべし』という気も削ぐのだ」
 突然流ちょうに、それも知性豊かに説明された内容を、オーベルシュタインは目を見開いて聞いていた。
 彼には、猪神の言い分をよく理解できた。豊作が常に続くわけではないので、一時の豊作を理由に住民を増やすべきではない。住民を増やしたいなら、不作に備えて蓄え、安定した収穫を伸ばすため工夫するべきである。そう、かつて彼は提案したことがあった。
 猪神が代行していることは、つまり、『増えすぎてしまった住民の間引き』である。
「そうか……。あなたは確かに『神』なのだな」
 オーベルシュタインは呟いた。
「あなたは、この辺り一帯の村を守る神。増えすぎた人を喰らい、人自身には手を汚させず、村が破綻することも防いでいる……」
「あるいは、ただの『化け物』だ」
 猪神は自嘲的に応じた。しかし、ほとんど空になった茶碗に向けた表情は、少し穏やかであるように思われた。

 いつものように多すぎる食事をほとんど残し、オーベルシュタインが食事を終える。先日、供え物を持ち帰った猪神から新しい茶碗をもらい、人間分量となった白米だけは完食していた。
(そうだとすれば、私は……彼にとって、私とは……)
 考えた末、生け贄が口にしたのは、全く違う質問であった。
「あなたの本当の名は?」
 やや、考え込むように黙った後、猪神は答えた。
「〝ビッテンフェルト〟だ」
「ビッテンフェルト……」
「お前は何という名だ」
「オーベルシュタインという」
「そうか」

 それから二人は、時折、互いを名前で呼ぶようになった。