従卒とイイコト
その1

 パウル・フォン・オーベルシュタイン少佐は、ひそかに有名だった。たぐいまれなる頭脳を持ち、冷静かつ客観的視点を持つと言われた。有力ではない貴族だが、それなりに古くから在る名家の出であった。だが、周囲に自分を理解してもらおうという意欲や、上官におぼえめでたく在ろうとする意欲に欠け、『陰気なやつ』『氷のような男』という評価を同僚・上官からは受けていた。しかし、従卒や下士官からは、また違った評判も得ていた。

『氷の姫』『情報処理課の令嬢』『ガラスの人形』……。

 女のいない環境で長時間すごすせいか、軍には、一部の中性的男性に女性性を求める傾向がある。パウル・フォン・オーベルシュタイン少佐という人物へ向けられる、特に、士官学校の従卒たちの目にもまた、そういった傾向が含まれていた。
 彼は、首都星オーディンにおいて従卒が世話できる軍人の中でも、とくに人気が高かった。同僚や上官への態度は冷ややかとはいえ、目下の従卒に当たり散らすような真似は一切しない。公平で納得のいく説明をする上官として知られるうえ、男性らしからぬ線の細さ、貴族らしく整った顔の造形も相まって、従卒たちの彼への憧れ――そして、彼に対して抱く不貞な妄想は、ますます勢いを増すのであった。

 そんな少佐の従卒を今期、つとめることとなった学生は、オレンジ色の髪と鳶色の瞳をもつ、活発そうな少年であった。彼の名はフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト――平民でありながら、勇猛な艦隊戦術で将来を有望視されていた。
 ビッテンフェルト学生は、緊張した面持ちで体をこわばらせつつ、指定された応接室へと向かった。ノックすると、「どうぞ」と静かで平坦な声がかえってくる。ビッテンフェルトは、ごくりと唾を飲み込み、扉をゆっくりと開いた。
 扉の奥では、窓から差し込む日光を背に、逆光の中、うわさの『氷の姫』が背をピンと伸ばして立っていた。『氷の姫』は、影に溶け込んだ青白い顔の表情筋を、微笑むように微かに動かした。
「きみが今期の従卒だな。はじめまして、私はパウル・フォン・オーベルシュタイン少佐だ。よろしく頼む」
 ささやくような、だがしっかり耳に届く平坦な声で少佐は挨拶した。ビッテンフェルトは背筋を正し、ビシッと敬礼で応じた。
「はっ! 全身全霊をもって、少佐殿のお世話をさせて頂きますっ!」
 彼の元気な声は、少佐の声とは対照的に、若いエネルギーの波動となって応接室中を満たして反響した。
「げんきでけっこう」
 オーベルシュタインは、とくに不快に思った様子もなく応じた。

      *

 従卒となったビッテンフェルトは、オーベルシュタイン少佐の官舎を清掃し、軍制服にアイロンをかけ、靴を磨いた。少佐が官舎にいるとき、または、ビッテンフェルトが彼の職場に呼び出された時には、コーヒーや軽食を用意することが多かった。
 オーベルシュタイン少佐が視界に入るとき、ビッテンフェルトはよく『氷の姫』を盗み見た。
 たしかに、少佐はあくまでも男性である。背は、男性の中でも特に高いほうで、骨格もどう見ても男性だ。しかし、体に筋肉も脂肪もほとんどなく、肌はほとんど日を浴びていないような病的な白さであった。そして、顔立ちは整っていて美しい。母親似だという。きっと、美しい母親なのだろう。彼についた『氷の姫』という異称が、それほど矛盾していない、と思わせられる程に。
 官舎で世話をしていたある時、ビッテンフェルトはオーベルシュタインを見つめ続け、ふと気づけば、出したコーヒーがとうに飲み終えられていた。
「おさげします」
「たのむ」
 ビッテンフェルトは、わずかに黒い液がのこるカップ・アンド・ソーサーを取り上げ、洗い場に持ち去った。
 オーベルシュタインのいる居間から離れ、ビッテンフェルトは洗い場に立った。きゅ、きゅ、と蛇口をひねり、洗い物を済ませようとする。
 ふと、残った僅かなコーヒーが目についた。
 あの薄い唇が、このカップの端を咥えて、コーヒーを……。
 ほんの少し、魔が差した。ビッテンフェルトは、その残りのコーヒーをこっそりと口にした。記憶をたどり、オーベルシュタイン少佐が口にしたであろう端に合わせて。
 こくり、と、その液を飲み下す。少ないコーヒーからは、ほとんどそれらしい味がしない。だが、なんとなく甘いように思われた。

「いけない子だ」

 ふいに平坦な声がひびく。ビッテンフェルト学生はビクリと飛び上がり、あわやカップを取り落とし割ってしまうすんでのところで、とびあがったカップをキャッチした。
 彼が振り返る。洗い場への入り口の角に、かの『氷の姫』が、影に溶け込むようにして立っていた。有名な義眼の瞳で、こちらをじっと見つめている。どこか面白そうな表情をうっすらと浮かべて。
「…………っ!!? あ、しょ、しょうさ、こ、これは」
 ビッテンフェルトは、顔を髪色ほど真っ赤に染めて狼狽し、しどろもどろと言い訳にもならぬ言葉を詰まらせる。まったく気配がしなかった。まさか見に来ていたとは。いったいどうして?
 困惑するビッテンフェルトの前に、オーベルシュタイン少佐がユラリと近づく。ビッテンフェルト学生は後ずさった。だが、背後に退路はない。
 彼は追い詰められた。さらにオーベルシュタインが迫る。いまだ伸びしろを残す少年ビッテンフェルトよりも、オーベルシュタイン少佐の背は遥かに勝る。至近距離から見下ろす顔を見て、ビッテンフェルトは怯えて震え、ごくりと唾をのんだ。
 オーベルシュタインは、彼の耳元に口を寄せた。
「……いいのか? カップだけで」
「え……?」
 あやしく蠱惑的にささやく声は、吐息とともにビッテンフェルトの耳を撫でる。その何ともいえぬ感触に、彼は、背中に電流が流れるのを確かに感じた。
 オーベルシュタインが顔を離す。彼はこう続けた。
「どうだね、もっと良いことをしないか?」
 ビッテンフェルトがまた唾を飲み込む。今度は恐怖ではなく、異なる意味合いで。
「い、いいことって……?」
 少年が尋ね返す。するとオーベルシュタインはフッ、と妖しく笑いかけた。
「きみたちの噂は、私もようく知っている。……真相を確かめたいだろう?」
 そう言うと、少佐は右手をのばした。その指先が、少年の下半身に触れる。そこは、とっくのとうに張り詰め硬くなっていた。
「少なくとも君のココは、『良いこと』が何か知りたいと言っているな」
「そ、……あ、あの……」
 ぱくぱく、と、初心なビッテンフェルト少年が答えを詰まらせる。
 確かに、ほとんど与太話のような噂であるが、一部には語られていた。
『オーベルシュタイン少佐は、あの妖しい魅力を使って、気に入った男と寝ている』
 オーベルシュタインが、また少年の耳元に唇を寄せる。
「……無理強いはしない。『良いこと』をしたいなら、私の寝室にきなさい。したくないなら、今日はこのまま帰りなさい。……どちらにしても、きみの評価を不当に扱うことはない」
 そう囁き言い残すと、オーベルシュタインはまたユラリと離れ、もといた部屋へと戻っていった。緊張がとけ、ビッテンフェルト少年がその場にヘタリと座り込む。
「…………」
 吐息で撫でられた片耳を手でおさえる。あのこそばゆさがまだ残っているようだった。
「…………」
 ビッテンフェルト少年は、しばらくそのままでいた。やがて、立ち上がった。

 彼の向かった先は、出口ではなかった。