従卒うりぼう

 オレンジの髪に、泥水色のコーヒーが浴びせられる。その温度にビクリと震えたが、若き従卒の少年は、悲鳴ひとつ漏らさなかった。
「こんなコーヒー飲めるか」
 彼にコーヒーを浴びせた下士官が言う。
 その男は、従卒である彼の担当者であった。士官学校を卒業した、平民である。
 あからさまに貴族と異なる待遇を軍内部でも不当に受け続け、かつて優秀な候補生だった彼は、今ではすっかり腐っていた。部下を持たない彼がいびる相手は、罪なき従卒くらいしかいない。
「……申し訳ありません」
「すぐ淹れ直してこい」
「……はい」
 従卒の少年――若きフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト学生は、大人しく給湯室へ戻っていった。
 自分が失敗した訳ではない。別のカップで水分補給がてら味見し、問題ないことを確認済みである。ただ、彼にとって何か気に食わない出来事があると、口にするコーヒーも必ず不味くなるだけだ。
 しかし、ビッテンフェルトは何もしなかった。反論する気すらなかった。十代の少年にすぎない彼には、後の彼ほどの勇猛さがまだ備わっていなかったからである。
 新しく淹れ直して戻ると、担当者は誰かと口論していた。
 ビッテンフェルトは、溜め息をついた。
(誰か、何か知らんが、八つ当たりはまたおれがされるに違いない)
 見ると、別の士官に、何らかの叱責を受けているようだった。叱責している方は静かに淡々と話しており、自分の上官ばかりが憤って、声を荒らげている。
 やがて、上官は、何やら負け惜しみを吐き捨て、足を踏みならし去って行った。「貴族だからと偉そうに」などとも続く。
 彼が去った後、叱責していた方の『貴族』の士官がこちらに近づいてきた。ビッテンフェルトがビクリと身を強ばらせる。
 彼は、確かに『貴族』らしく、上官に比べると優雅な印象であった。線が細く、健康であれば美形であろう顔をしている。しかし、ろくに食べられていないような痩せ細った体と青白い肌色が、軍人ばなれした儚さを彼に与えていた。
 彼の目がギョロリ、とビッテンフェルトを見る。若き従卒の身体はこわばった。
「お初にお目にかかる、ビッテンフェルト学生。私は、パウル・フォン・オーベルシュタイン少佐である」
「はっ……はっ!」
 ビッテンフェルトは、左手にコーヒーの盆を持ち替え、あわてて右手を上げて敬礼した。その拍子に、コーヒーの飛沫がパチャリと盆にこぼれる。
 それを咎められるかと思いきや、オーベルシュタイン少佐は一切言及しなかった。何も気にせぬ様子で、彼は淡々と続ける。
「急な話で申し訳ないが、現時点をもって、きみの上官は私となった。よいかね」
「は? ……はっ。了解いたしました」
「ふむ。そのコーヒーは、もう要らないらしい。私が頂こう」
 そう言うと、オーベルシュタインはコーヒーカップをすっと取り上げ、それを少し啜った。ごく、と、彼の細い喉が動く。
「よく淹れられている。本格的な仕事は、明日からとしよう。今日はもう帰りなさい」
「はっ? えっと。……はっ! 了解いたしました!」
 ビッ! と再度敬礼し、ビッテンフェルトは空の盆を小脇に抱えて去って行った。
(何が何だかわからない……)
 そう思いつつも盆を給湯室に戻し、帰宅の準備が済むと、ビッテンフェルトは命令通り帰った。

      ***

「できたか。ふむ。ありがとう」
「これは○○○のようにしてほしい」
「ああ、それで頼む」
 ビッテンフェルトにとって、貴族と直接会話するのはこれが初めてだった。あの腐った上官の妬み嫉みしか知らなかったため、『貴族の士官はどれも屑なのだろう』と思い込んでいたが、実際話してみると、理論的で明快で、感謝の言葉もかけてくれる、良い人である。前の上官とはまさに『雲泥の差』だ。
「少佐のような方が『貴族』という方々なら、特別扱いされるのも納得です!」
 打ち解けてきたビッテンフェルトがそう言うと、オーベルシュタインは悲しげに目を伏せ、ゆっくりと首を振って否定した。
「私は……、いや。……彼の言うことも、あながち間違ってはいない。けれど、きみがそう言ってくれたことは、覚えておこう」

 そうして、何事もなく穏やかに従卒勤務は終わった。ビッテンフェルトは、正規の軍人として士官学校を卒業し、オーベルシュタインとも別れ、前線勤務へ移ることとなった。

      ***

 ローエングラム元帥府で再会したとき、オーベルシュタインは、ビッテンフェルトのことを覚えていた。
(生き延びたか。……立派になったものだ)
 だが、従卒時代に知り合ったからといって、特に声をかけなかった。
 ビッテンフェルトは、いまや中将にまで位を上げている。大佐に過ぎない自分が、馴れ馴れしく話しかけても、かえって迷惑であろう。
 ビッテンフェルトも何も言わず、時折、自分に冷ややかな視線を向けていた。武人型軍人の彼からすると、自分のような弱々しい軍人が目障りなのだろう。

      ***

 気に食わん。気に食わん。気に食わん!
 どうしておれに話しかけてこない。どうして、逃げるように去ってしまう?
 おれのことを忘れたのか? 『立派になったな』くらい言われると思っていたのに! 彼からすれば、おれなど、すぐに忘れてしまう程度の存在だったというのか!?
 ああ、気に食わん!
 言わないぞ。おれからは絶対に、言い出さん! 奴の方から持ち出さない限り、おれは絶対に言わないからな!

Ende