にんぎょおうじアントン

 むかしむかし、深き海の底にある人魚の王国に、1人の王子様がおりました。王子は、白金のように美しい銀髪と、宝石のようなエメラルド色の瞳とを持つ、たいへんに美形の人魚で、名前をアントンといいました。
 アントン王子は、ひじょうに好奇心が強く、しばしば水面まで上がっては、人間たちの船などを遠目に眺めておりました。
 ある日、大きな嵐が海におとずれ、大きな船が一隻、嵐に砕かれ沈められてしまいました。
 海面から降り注ぐ残骸の雨をアントン王子が見上げていると、その中に、1人の人間の姿をみつけました。その人間はまだ生きているようで、気泡のあぶくを少々吐き、まだ動いておりました。
 アントン王子は、その人間のところまで泳いでいくと、彼を水面まで持ち上げ、その顔を水の上まで持ち上げました。そして、人間たちの暮らす陸まで彼を運んでいってやり、浜辺に彼を引き上げました。
 波打ち際に仰向けた彼の顔に耳をよせてみると、まだ息があります。しかし、気を失っているようで、その両目はかたくつむられたままでした。
 アントン王子は、気まぐれの救助活動が無為にならなかったことを喜び、相手の顔をよく見ました。
「なんと美しい……!」
 王子はゲイでした。
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 そのとき、陸の内側から人間の声がしたので、王子は慌てて海に戻って隠れました。
 人魚の肉は永遠の命を人にもたらし、人魚の涙は宝石に変わるため、多くの人魚が人間の手にかかり命を落としているのです。そのため、人間に見つかる訳にはいきませんでした。
「ああ、王子! パウル王子! 奇跡だ、生きておられるぞ!」
「彼はパウル王子というのか」
 人間たちが、眠ったままのパウル王子を連れていきました。これで、彼は無事に助かることでしょう。運よく名前を聞くこともできました。
「しかし、どうやって彼に近づけばいいのだろう。ああ、彼に卵を産んでもらえたら!」
 パウル王子は男性ですし哺乳類なので卵を産めませんが、恋に落ちたアントン王子の頭にそんな細かいことは浮かびませんでした。
 城に戻ったアントン王子は、西の魔女に相談することを思いつきました。
「魔女に頼めば、陸にあがることのできる脚をくれるかもしれない」
 アントン王子は、西の魔女ベーネミュンデのもとを訪ねました。
「おや。これはアントン王子。ごきげんうるわしゅう」
「ごきげんうるわしゅう、魔女ベーネミュンデどの」
 魔女ベーネミュンデは、王子の父である王の側室の一人でした。
「王子――王子! ああ、私の息子が一人でも生きていれば、次のお世継ぎだったのに!」
 ベーネミュンデはヒステリックに叫びました。
 彼女は、盛りを過ぎた今なおズバ抜けた美貌を持つ美しい人魚で、王のいちばんの寵姫であったこともありました。しかし、彼女の産んだ136個の卵のうち、孵化した96人の子供たちのなかで、40人の王子達は苛烈な生存競争に全員負けてしまい、生き残れた子供は2名の姫達のみでした。
 ベーネミュンデは、次の王子達を守るために魔法を学び魔女となりましたが、その頃には、陛下のご寵愛は次の側室へと移ってしまいました。
「おれも世継ぎではありませんよ」
「ああ~~!! 陛下! 陛下! どうして私をこんな辺境に~~!!」
 駄目です。話になりません。アントン王子は、北の魔女――いえ、魔法少女を訪ねることにしました。
 北の魔法少女カーテローゼはアントン王子の話を聞いてくれましたが、すぐに首を横に振りました。
「だめよ。そんなこと、すべきじゃないわ。海に生まれた者はね、海で暮らすのが一番なの。だいたいねえ、あんた、人間がどうやって繁殖するか知ってる? 彼らは、卵を産まないの。それに、子供は一度に一人だけで、いちどきに複数生まれることは滅多にないわ。やめておきなさい」
 魔法少女カーテローゼは丁寧に説明しましたが、アントン王子はすでに去った後でした。
 最後に、アントン王子は東の魔女を訪ねました。東の魔女ドミニクは、アントン王子に脚を与えることに合意してくれました。
「ただし、タダってわけにはいかないわ。代わりにあんたの声をもらう。それから、月がいちど満ち欠けするまでに、パウル王子の愛を手に入れることができなければ、あんたは泡になって消えることになる。それでもいい?」
 アントン王子は即座に快諾しました。王子は、たいそうな自信家でありました。
 王子は、魔女ドミニクから秘薬を受け取ると、パウル王子を運んだ入り江へ行きました。そして、浜辺に上がると、人間の脚を手に入れる秘薬を飲み干しました。
 秘薬を飲み込むと、喉に焼けるような痛みをおぼえました。そして、みるみるうちに尾ビレが変形し、あっという間に人間の脚に変わりました。
 アントン王子は立ち上がりました。そして、人間の真似をして脚を動かしてみました。なんとか歩けそうです。
 つぎに、『ふく』というものが無いか探しました。彼が学んだことによると、人間は、かならず『ふく』というものをまとっているからです。すると、古い帆の残骸が落ちているのを見つけました。それを体に巻いてみると、とても『ふく』っぽく見えました。ちょっとだけ違う気もしますが、何も無いよりはいいでしょう。
『ふく』を身につけたアントン王子は、パウル王子の連れて行かれた方向へ歩いて行ってみました。すると、たいへん運のいいことに、ちょうどパウル王子が馬車から降り、漁村の村人たちと話しているのを見つけました。
 アントン王子はすっかり嬉しくなり、満面の笑顔をうかべてパウル王子のもとに近づいていきました。
 パウル王子は、きたならしいボロ布をまとった、しかし世にも美しい男性が笑顔でこちらに近づいてくるのを見て、たいそう困惑しました。
「おまえはだれだ?」
 パウル王子が尋ねると、ボロをまとった美丈夫は口を開き、何かしゃべっているようにパクパクと動かしました。しかし、声はいっさい聞こえません。
 声が出なかったという事実に本人もおどろいているようで、彼は、エメラルド色のきれいな瞳を瞬かせ、喉をおさえました。
「声がだせないのか?」
 パウル王子がきくと、彼はコクコクと頷きました。耳は聞こえるようです。
「浮浪の啞者か、難儀であるな。これをとっておきなさい」
 パウル王子は懐から金貨を1枚とりだし、彼に差し出しました。
 アントン王子には、貨幣という概念がありませんでした。王子は、金貨を受け取ると、かがやくソレを噛んでみました。
(とても硬い。食べ物ではないらしい)
 受け取った金貨を突然噛み、顔をしかめた彼を見て、パウル王子はかすかに驚きをあらわしました。
「口が利けぬうえに、気狂いか。なんとも憐れな。おまえ、いったいどこから来た?」
 浮浪者は、海の方を指さしました。そこに民家はなく、入り江しかないはずです。
「わからんのか。行く当てはあるのか?」
 浮浪者は、ふるふると首を横に振りました。
「そうか。では、私のもとに来るか?」
 浮浪者は目を輝かせ、コクコクと頷いて応じました。
「よろしい。では、ついてくるがよい」
 こうして、アントン王子はパウル王子の城へとスムーズに引き取られていきました。
 城につくと、オレンジの髪をした、猛獣のような雰囲気の護衛兵が王子の馬車を迎えました。彼は、黒色槍騎兵隊隊長のビッテンフェルトといいました。
「おかえりなさいませ、殿下。……ん? その汚い者はなんです?」
「視察先で拾った啞者だ。村の者は誰も知らんと言うし、行く当てがないらしい」
「こまりますな、殿下! そのような得体のしれぬものを城に入れるなど! つい先日も汚い犬を拾って帰られたばかりだというのに、今度は人間ですか。護衛する者の身にもなっていただきたい!」
 ビッテンフェルト隊長は、なにかとパウル王子につっかかる傾向があり、裏でも文句たらたらでした。しかし、それらはすべて、実のところ、静かで知的で美しい王子への恋慕の裏返しでした。とはいえ、王子のほうは隊長に興味がありませんでした。
「迷惑はかけんよ」
「どうでしょうな」
「もう良いか」
「どうぞ!」
 二人の王子を乗せた馬車が城門を通り過ぎてゆきました。
 その後、こころなしか肩を落としたビッテンフェルト隊長の肩を、部下たちがポンポンと叩いて慰めました。
 浮浪者――口の形でなんとか名前だけは読み取り、名は『アントン』と分かった彼――を湯浴みさせてやり、もっとマシな服を身につけさせてやっていると、パウル王子の兄シュテファン王子がやってきました。
「おかえり、パウル。視察はどうだった?」
「ただいま、兄さん。問題なかったよ」
「そいつはどうした?」
「漁村で拾いました。アントンという名の浮浪啞者で、少々気が触れているようです。でも、見た目はなかなか悪くないでしょう」
 パウル王子は美形好きでした。
「確かにそうだな。だが、気が触れている人間を手元に置いて、お前に危険がないか心配だな」
 そう言うと、シュテファン王子はパウル王子の頬をなでました。
 シュテファン王子は妾腹の兄で、王位継承権がなく、王妃の息子である弟のパウル王子とはちょっと複雑な関係にありましたが、ふしぎなことに兄弟の仲はわりと良好でした。
「問題ないでしょう。気が触れているといっても金貨を口に運ぶくらいで、大きな害はございません」
「ならいいが。ペットを拾ってくるのも、ほどほどにな?」
「ええ」
 人魚には『ペット』という概念が分からなかったため、アントン王子は『見た目が悪くない』と言われたことを気楽に喜んでいました。
(この調子なら、月の満ち欠けどころか、次に日が昇るまでにカタがつくかもしれん)
 パウル王子は、その日の晩にはアントン王子をベッドに入れてくれました。しかし、それ以上のことは一切許さず、触れようとすると「やめなさい」と命じて制しました。ぬいぐるみ感覚でした。
 そしてそのまま、あっという間に日は過ぎ、月の満ち欠けが一周する日が近づいてきました。
(まずいな。どうしたら彼の愛を手に入れられるのだろう?)
 アントン王子は悩みました。パウル王子は、いつでも彼を連れて歩きましたし、彼の銀髪に触れましたし、いつも一緒に眠ってくれました。しかし、それ以上のことはしてくれません。
(やはり、口が利けないせいだろうか。嫌われている訳じゃないのは確かだが。そもそも、『愛を手に入れる』とは何だ? どうなったら『愛を手に入れた』ことになる?)
 アントン王子は、そもそもの根本を悩み始めてしまいました。どん詰まりです。魔女ドミニクにもっと良く聞いておくべきでした。
 ある日、アントン王子はパウル王子に連れられ、客船の船の旅に出ました。嵐に見舞われて死にかけた割に、パウル王子は意外と平気で船に乗れました。
 その旅には、他国の王子も乗り合わせ、共に会食し、パウル王子と語り合っていました。相手は、獅子の国のラインハルト王子といい、獅子のたてがみがごとき豪奢な金髪と神々の造形による(略)白磁の肌と蒼氷色の瞳をもつ絶世の美貌を備えた聡明な王子でした。
「ひさしいな。卿はまだ王子なのか?」
「父上がいつまでもお元気なもので」
「ははっ。いっそ、王権を簒奪してしまえばどうだ」
「めっそうもございません。私に王は向きませんよ。父上が亡くなられたら、兄を推して王にするつもりです」
「大胆な発言だな」
「そして私は、あなたの国に伺います。私を、宰相として使って頂けませんか? あなたの国と我々の国で力を合わせれば、互いの国がおおいに繁栄することでしょう」
「そして卿は、ふたつの国を裏から支配するわけか。見た目に似合わず野心家なやつよ」
「恐縮です」
 ラインハルト王子は美しく笑い、パウル王子は薄暗く笑みを浮かべました。
 なお、世にも美しいラインハルト王子のことを、パウル王子は実益以外の面でも気に入っていましたが、ラインハルト王子は赤毛の従者と美貌の姉姫(※嫁ぎ済み)以外に愛情を向けませんでした。
 アントン王子は気が気ではありませんでした。
(パウル王子は、このラインハルト王子を愛しているのだろうか。こんなに美しい人間が存在するなんて! このおれでも、とっても敵いそうにない……)
 失意にくれたアントン王子は、会食の場から出て、船の縁から海をながめました。
「アントン。アントン、聞こえるか?」
 すると、海から声がしました。水面を見下ろすと、黒髪の人魚がこちらを見上げていました。
(オスカー兄さん)
 アントン王子は口の形だけで兄に呼びかけました。兄のオスカー王子は、真っ黒な美しい黒髪と、青と黒のオッド・アイを持つ、弟に負けず劣らず美しい人魚でした。ゲイを公言している弟と違い、女漁りの激しい漁色家でしたが、実のところ彼もある既婚者の男人魚が本命でした。ちなみに、アントン王子が唯一訪ねなかった南の魔女エルフリーデと犬猿の仲にありました。
「このままでは、お前は泡になって消えてしまう。だが、人間を惚れさせることは上手くいっていないらしい。そこで、こいつを魔女にもらってきた」
 オスカー王子が差し出してきたのは、鉱石でつくられた美しい短剣でした。
「それで相手の心臓を刺し、血を浴びろ。そうすれば、魔法が解けて声も戻り、お前が泡になることもなくなる。幸運を祈る」
 そう伝えると、オスカー王子は水底に消えました。人間の気配がしたからです。
 アントン王子が振り返ると、パウル王子が目の前に立っていました。
「どうした。顔色が悪いな。船に酔ったか?」
 顔面蒼白になったアントンを見て、パウル王子は心配そうに言いました。
 アントン王子は、受け取ったばかりの短剣を背後に隠していました。
(刺す? 殺す? 彼を? ……ああ、だが確かに、オスカー兄さんの言うとおりだ。おれは、いったいどうしたら彼に愛してもらえるか分からない。このままでは泡になってしまう)
 アントン王子は、ゆっくりと短剣を構えました。パウル王子は、ふしぎそうに美しい短剣を見やりました。
「……どうしたのだ、それは。どこで見つけた?」
 アントンが刺してくるとは夢にも思っていない様子でした。
(今ならやれる)
 アントン王子は、短剣を力いっぱい振り上げました。
 そして、その切っ先は、アントン王子自身の胸元に埋まりました。するどい刃に刺された胸からは、みるみる赤い血潮があふれ出します。
「!!? おい、アントン!? なにをしている!」
 アントン王子が崩れ落ちました。パウル王子は驚き、ぐったりとしたアントン王子の身体を支えました。真っ赤に染まった短剣が引き抜かれると、さらに血潮はあふれ、アントン王子の手から剣はカランと落ちました。
(これでいい。ひとりで泡になって消えるのもイヤだが、彼を殺すのもイヤだ。これで、せめて彼と一緒にいるまま死ぬことができる)
 アントン王子は、満足そうな笑みを浮かべました。彼の顔は、みるみる青ざめて白く変わっていきます。
「……おい。アントン、しっかりしろ。死ぬな」
 パウル王子の声は悲しげでした。
(おれが死ぬのを悲しいと思ってくれるのですね、パウル王子)
 アントン王子はパウル王子に微笑みかけ、彼に顔を寄せました。すると、あれほど何もさせなかったパウル王子は、はじめて彼に口づけを許してくれました。
 ふしぎなことが起きました。アントン王子の身体が光につつまれたのです。おどろくパウル王子の目の前で、アントン王子の傷口はみるみる塞がっていき、彼はすっかり無傷に戻りました。顔色もすっかり良くなっています。
「アントン……? 治ったのか?」
 アントン王子も驚いていました。
「これは……」
 アントン王子は、ハッと口元を押さえました。1ヶ月弱ぶりに、彼は自分の声を聞きました。
「アントン、声が」
「声が……声が、だせる。パウル王子!」
「なんだ、おまえ、まともに口を利けたのか」
「愛しています!」
 アントン王子は元気に叫び、パウル王子を抱きしめました。
「覚えていますか? おれは、あの船が沈んだとき、あなたを助けた人魚ですよ。ああ、やっと貴方と話ができる!」
「なに? ……そう、いえば……あのとき、銀の髪とエメラルドの目、それに、尾ビレを見た気がした。……夢だと思っていた」
「覚えていらしたのですね! ああ、嬉しい。貴方が好きになって、魔女の魔法で脚を貰ってきたのです」
「そんなことができるのか」
「ああ、パウル王子!」
 アントン王子が、きらきら輝く目でパウル王子を見つめました。

「おれのために卵を産んでください!」
「は?」
 パウル王子は卵を産めませんでしたが、二人は幸せに暮らしましたとさ。

Ende