オーベルシュタインの娘
番外編:5/5 オベ父誕生日話

 ベビーベッドに仰向けた赤ん坊の上にヌイグルミをかざし、彼女が興味をもつように揺らす。このヌイグルミには鈴などがなく、音が鳴らない。すると、大きな目がヌイグルミを追って動くことがわかった。

 大きく移動させ、彼女の目がヌイグルミを捉えていると確認したあと、ヌイグルミを、彼女の手がとどくギリギリのところで止めた。カエデの葉のような小さな手が伸び、ヌイグルミをつかむ。私が手を離すと、彼女が、ヌイグルミを引き寄せた。そして、唐突に口に入れ、ヌイグルミの頭を歯のない口でかむ。しばらく、もむもむとヌイグルミを味わっていた。……幼児用のヌイグルミだから、危険な塗料や素材はないだろう。

「おや、旦那様。お嬢様と遊んでおいでですか」

 声に振り向くと、老執事がそばにいた。哺乳瓶を持っている。食事の時間か。

「この子は、ほんとうに目が見えるのか、と思ってな」
「何度も『健康だ』と言われておりますのに、旦那様はうたぐりぶかいですな」
「……そうだな」

 フフ、と、軽く笑いながら赤ん坊へ目を戻すと、彼女は、ヌイグルミを口から出し、片手に握ったままこちらを見つめていた。笑っている。こちらまで何だか楽しくなる笑顔だ。

「そうそう。10件目の遺伝子検査の結果ですが、98%以上の確率で旦那様の子だそうです。前の9件と同様、ほぼ間違いなく親子という結果でございますな。そろそろ、検査機関のアテがなくなってまいりましたが、まだお調べになりますか」
「いいや。もうよい。ありがとう、ラーベナルト」
「いいえ。それほど、奥様に不貞の心当たりがあったのですか?」
「いや。私の血を引いた者が、本当に五体満足を望めるのか……うたがっていたのは、それだけだ」
「さようですか」

 オーベルシュタインの手が伸び、赤ん坊の頬を撫でた。温かくて、つるつるとして柔らかい。赤ん坊は、父親にかまってもらえて嬉しそうに笑った。

「ラーベナルト……私は、ルドルフの生み出した『劣悪遺伝子排除法』を否定するために30年以上をかけた。どれひとつとして、楽な道のりはなかった。だが彼女は、生まれたその瞬間から、ただ存在するだけでその根拠を否定することができる。歩きも話しもしないうちから、ただ在るだけで、ルドルフの暴論に対する絶対的な反証なのだ……」

 物思いにふける主人を、ラーベナルトは静かに見つめた。彼もまた、その試練の道を主人とともに歩んできており、彼女という存在への感慨深さは、主人のものに劣らなかった。

「私は神を信じないが、もし『神の祝福』が存在するとしたら、彼女はそれを受けて生まれてきた存在だな」

 ベッドの柵を下ろし、オーベルシュタインは娘を抱き上げた。ラーベナルトから哺乳瓶を受け取ると、腹を空かせていたのか、赤ん坊がそれに手をのばしてくる。

「この子の名前は、“祝福を受けた者”──ベアテとする」
「良いお名前ですな」

 父親に抱かれたベアテが哺乳瓶をくわえ、ごくごくとミルクを飲み始めた。

「ありがとう、ベアテ。私はたぶん、お前に救われた」

 ミルクを飲みつつ、こちらを見つめるベアテがその感謝を理解したかどうかは、オーベルシュタインにはわからなかった。

***

「父上の誕生日が近い」
「そうなんだ。いつ?」
「5月5日だ」
「何か、プレゼントとかするの?」
「贈ろうと思っている。だが、父上の欲しいものがわからない」
「聞いてみたの?」
「聞いた。『お前が元気であれば特に何もいらない』と仰られた」
「ありがちだね~。例の、お父さんの部下の人ならわかるんじゃない?」
「聞いた。『お嬢さんがくれたものならきっと何でも喜ばれますよ』と言われた」
「詰んだね~」
「芸はないが、とりあえず父上の年代の男性に喜ばれそうなものをいくつか検討しようと思う」
「あたし達のお小遣いの範囲で買えるものとなると、限られそうだね~……あ。そうだ。ベアテちゃん、バイトって興味ある?」
「バイト?」
「うん。自分の力で稼いだお金でプレゼントを買うって、より想いがこもるだろうし、金額が増えれば選択肢も増えていいかなって」
「……ほう。で、どのようなバイトだ」
「あたしがバイトしてる『メイド喫茶』! どう? ちょうど人手、たりないんだよね~」
「『メイド喫茶』とは何だ?」
「あのね。喫茶店なんだけど、メイドさんを雇えない庶民の人たちでも、お店にいる間だけはメイドさんに面倒みてもらえる……そんなお店のことだよ」
「そんなものがあるのか」
「ベアテちゃんのお家にはマリーさんが居るもんね。メイド喫茶にはね、本当のメイドさんは居なくて、メイドさんの格好をした、あたしみたいな女子学生とかが代わりに働いてるの」
「興味深いな」
「やってみる?」
「くわしく聞きたい。手配を頼めるか」
「わかった! きっと、店長よろこぶよ~」

***

「はっ!?」

 残業の合間にひとときの休憩をとっていたフェルナーが、スマホを凝視しながら素っ頓狂な声を上げた。わずらわしげにオーベルシュタインが目を向けると、神経の太い官房長官が、めずらしく両目を丸くして驚愕しているとわかった。

「なにごとか」
「ちょっ……は? 何してくれて……えええ?」
「要領を得んぞ。なにごとかと聞いている」
「こ、これ……閣下、これ……」

 説明すら覚束無いフェルナーの様子に首を傾げつつ、彼にうながされるまま、オーベルシュタインがスマホを覗いた。
 画面には、ベアテと、友人のトモコ・オノヤマが映っていた。二人とも何故か、メイド服を華やかにしたような衣装を着て並んでいる。それはオノヤマの書いた記事の一部であるらしく、『きょうからメイド喫茶で働く仲間が増えました! 親友のベアテちゃんです』と書かれていた。

「『メイド喫茶』?」
「なんて事を……お嬢さんが危ない」
「危ない? どういう意味だ」
「ああ、閣下、ご存知ないでしょうが、この『メイド喫茶』というやつは、一見無害ですがね、昼間にやってるキャ〇クラみたいなもんですよ」
「は……?」
「かわいい制服でいたいけな若い女の子を誘い込み、法外な値をつけた低品質のスイーツと引き換えに、卑しい意図を持った男どもと際どい真似をさせる、悪質なビジネスですよ」
「……なんだと?」

 オーベルシュタインが画面を凝視する。写真からはそのような雰囲気は感じられず、オノヤマにも悪意を感じない。……だが、『たんに未だ被害に遭っていない』可能性もある。
 もし、この店の主が、二人に本性をあらわしたら……。

「……卿が何故、そこまで詳しいのかについてと、何故、オノヤマの個人的な投稿にそれほど反応が早かったかについては、後回しにするとしよう。早急に、二人に止めるよう伝えねば」
「それが、お嬢さんにメッセージを送ってみたのですが……『理由は言えないが、辞めたくない』と仰って」

 オーベルシュタインの脳裏に、例によって、一番最悪な想像が閃いた。時すでに遅く、ベアテたちは何らかの辱めを受け、決して人に打ち明けられない弱みを握られている?

「…………この店に行く」
「閣下みずから?」
「私が行かねばなるまい。場合によっては──」

 オーベルシュタインの義眼が、機械的な理由によってではなく、持ち主の感情によってギラリと光った。

「店ごと消えてもらう」

 草刈りスイッチオンなう、と、フェルナーは心の中のSN〇で呟いた。

***

 チリンチリン、と、ドアベルが鳴り、近くにいたメイド員たちが「おかえりなさいま……」と言いかけたところで、店の空気は突如凍りついた。

 とつぜん無音になったので、何事だろう、と、バックヤードからホールを覗いたトモコは、事態を即座に理解した。
 ベアテちゃんのお父さんが来ている。さすがに軍服ではなかったけれど、見間違いようがない。しかも、何か機嫌が悪い感じだ。
『帝国印、絶対零度の剃刀』『ドライアイスの剣』と名高い人物が入ってきた瞬間、和気あいあいとしていた店の空気が突如、氷点下まで下がり、メイドたちも客たちも瞬間冷凍されて静まり返り、固まった。

 どうしよう。お客様──じゃなくて、『ご主人様』が『おかえり』になられたのだから、お席にご案内しないとだと思うんだけど……。
 トモコが周囲を見渡す。誰も動けそうにない。むしろ呼吸すら止まっている。こまったな。さすがに、ベアテちゃんだって恥ずかしいだろうし……。
 そう思っていると、凍りついた世界の中で、ただ一人颯爽と動く者を見た。その者は、堂々とすら見える歩みで帝国元帥の前に立つと、店の制服のスカートを完璧な所作で持ち上げ、うやうやしくカーテシーの姿勢をとった。

「『おかえりなさいませ、旦那様』」

 先陣を切ったのは、新入りのベアテであった。
 ベアテちゃーーーーん! さすが! 身内が来たとか関係ないね! あたしなんか、出稼ぎにでてる兄ちゃんが来たとき、ずっとキッチンに隠れてたのに。

「応接室の準備が整っております。どうぞこちらへ」

 ドライアイスのオーラを物ともせず、『これがこの店の規則だ』と言わんばかりに演出を続け、堂々と接客するベアテを前に、冷徹と名高い軍務尚書(私服)の険もおさまったようだった。彼と、後ろの者──なんだかニヤニヤしている銀髪の軍人らしき男──がベアテに従って席へと移動すると、春の雪解けが訪れたように客とメイドたちが呼吸を再開し、凍りついていた店内が活動を始める。

 席に座り、ベアテにメニューを渡された異色の客達がそれに目を走らせ始めた。メニューには、いかにも若い女の子が描きました風なポップなイラストと手書き文字で、こういった店特有のメニューが並んでいる。

 天使のふわふわオムレツ──お好きな絵をメイドがケチャップで描きます──3,500帝国マルク……ワンちゃんチョコレートパフェ──2,500帝国マルク……。

「……『チェキ』とはなんだ」

 向かいに座ったフェルナーが「ん”っ」と妙な音を立てた。しかし、何事もなかったかのようにベアテが説明をはじめる。

「お好きなメイドとあちらで写真を撮れます」

 主人たちを見下ろさぬよう、プロの使用人のごとく片膝をついてテーブル横に控えていたベアテが向こうの壁を指さす。そこには、撮影用と思しき背景や、付け耳などの小道具が置かれている。その脇の壁には、これまで撮影した人々と思しき(正直、パッとしない見た目の)男性たちとメイドとの写真がいくつも貼られていた。

「………………」

 その写真と、店内の様子と、ベアテや他のメイドたちがまとった(この界隈にしては丈長めだが、フリルたっぷりで装飾感のある)制服などを、オーベルシュタインが無言のまま見回した。向こうの方では、『メイドさんとゲーム』を注文し、黒ひげ危機一髪に興じる男性が見える。つついているのはちゃちなオモチャだが、若く可愛らしいメイドと遊んでいると非常に楽しいようだ。
 ううん、いかがわしい……こいつは、『草刈り』決定かな。そう、フェルナーは上官の様子を伺いつつ思った。彼に教えたのはおれなので今更だが、お嬢さんは随分熱心にやってらっしゃるようなのに、店を潰してしまったら申し訳ない気がしてきた。
 それに、プライベートで立ち寄ってみたい店だ。

「では、オムレツとコーヒーを頼む」
「はい」

 ずるり、とフェルナーがよろめいた。

「あ……じゃあ、小か、いや、私も同じものを」
「畏まりました」

 注文のメモをとり、ベアテが厨房へと去っていく。フェルナーは上官へ顔を寄せ、聞かれないよう小声で尋ねた。

「普通に注文なさるのですか」
「何も頼まなかったら迷惑であろう」
「てっきり、この店を潰しにかかるのかと……」
「『場合によっては』の話だ」
「……もしかして、意外にお気に召しておられます?」

 フェルナーに指摘されると、(ほんの僅かに)バツの悪そうな顔を軍務尚書が浮かべた。「気に入るかどうかはどうでもよい」と応じられたが、質問の答えはJaであることをフェルナーは読み取った。
 ベアテの後ろ姿を見やる。歩くと、たっぷりとフリルのついた上等そうなメイド服の裾が揺れる。正直、めちゃくちゃ可愛い。ストイックな雰囲気のお嬢さんの顔つきと、これでもかという程ガーリーなメイド服が、不思議な調和を果たしている。

「……あとでチェキお願いしても宜しいですかね」

 ギロリ、と、刺さるような視線がオーベルシュタインから飛んできたため、「冗談です」とフェルナーが慌てて撤回した。クソッ、だめか。おれが注文しなくったって、誰かが注文したら同じ事なのに。

***

 厨房に戻り、注文を伝え終えたベアテにトモコが話しかけてきた。

「お父さんと部下の人、呼んだの?」
「いや。教えてもいない。おどろいた」
「えっ、おどろいてたの? 全然そう見えなかったよ」
「うむ。よもや、このような店に父上がお越しとは……」

 2つのオムレツを皿に盛り付けつつ、ベアテが続けた。

「うちにはメイドがいるのにな」

 んんんん~絶対、ベアテちゃんが居るから来たんだと思うな~。惑星と惑星の間を飛んでまで来る理由、それ以外にないと思うな~。
 トモコはそう言いたい気持ちで一杯だったが、まだ仕事中でもあるので、グッとこらえてベアテを見送った。

***

「オムレツにお好きな絵をお描きします」

 ケチャップを構えてベアテがそう申し出るのを聞き、オーベルシュタインはしばし思案したあと、「では犬を描いてくれ」と申しつけた。オムレツの上で容器の口を動かし、シンプルな犬のイラストをベアテは描いた。続いて、フェルナーが「おれはハートで♡」と注文したので、ベアテはその通り描いた。

「どうぞごゆっくり」

 ひと仕事を終えたベアテはペコリとお辞儀し、次の客の相手をすべく去って行った。2つのオムレツを見比べ、フェルナーはヒュウと口笛を吹いた。風の噂で、つい最近までコーヒーひとつ満足に煎れられなかったと聞いたが、悪くないケチャップ・アートだ。
 さっそく、スプーンをオムレツに入れ、ふんわり焼き上げられたソレを口に運ぶ。うん。美味い。お嬢さんがハートを描いてくださったオムレツだと思うと一層美味い。
 ふと、上官の方を見やると、スプーンを持ったまま硬直していた。

「召し上がらないのですか」
「……崩しにくい」

 かわいらしいケチャップの犬をじっと見つめ、オーベルシュタインが応じた。ブホッ、とフェルナーが吹き出す。

「口をつけずに帰っては、お嬢さんが悲しまれますよ」

 そうフェルナーが進言すると、オーベルシュタインは眉を寄せながら渋々、といった様子でオムレツを崩し始めた。

***

「「「いってらっしゃいませ、旦那様!」」」

 メイド達に見送られ、オーベルシュタインとフェルナーが帰っていった。防犯カメラ越しに監視していたオーナーは、それを見てホッと胸をなで下ろした。よかった。いや、まだ油断はできないかもしれないが、少なくとも、『ドライアイスの剣』と名高い冷徹軍務尚書に即時の制裁を受けることは免れたようだ。
 釈明の機会が与えられれば反論はあるのだが、うちのような商売は『いかがわしい』と思われがちだ。実際、そういう店も中にはあるだろうし、若い女の子を騙すようなやり方をしている所もあるだろう。しかしウチは、いたって健全にやっているつもりだし、危ないお客が来た時の対応も一応は備えてある。
 ふと、店内が騒がしくなってきたため、オーナーが画面を確認した。どうやら、軍務尚書が居る間は大人しくしていたが、メイドに過剰なサービスを要求しにきた客がいたらしい。
 厨房からベアテが出てきて、騒いでいる客の元に近づいていく。

 1HIT、2HIT、3HIT。

 見事な蹴り、ブロー、体勢崩しを連続でキめ、騒ぎの元凶の男をベアテが床に這いつくばらせた。彼女が取り押さえる間に、他のメイド達がスムーズに通報を進める。程なくして、男は、警察に引きずられていった。
 いやあ、ベアテちゃん、素晴らしいな。トモコちゃんもとても頼りになるけれど、2人になると対応がよりスムーズだ。本当にありがたい。軍人少女バンザイだ。いかつい警備の男を配置して、店内の雰囲気を重苦しくすることは避けたかったが、彼女たちであれば、店の雰囲気を損ねることなく治安を向上できる。

 オーナーは満足げに微笑み、彼女たちへのボーナスを帳簿に追記した。

***

「Alles Gute zum Geburtstag(お誕生日おめでとうございます)、父上」

 5月5日の当日、休日を利用して帰省してきたベアテは、メイド喫茶でレシピを習得した、手作りのケーキを父親へ振る舞った。上面には、誕生日を祝う文言の他に、チョコレートで犬の絵も描かれている。「絶対に喜んでくれるよ」と、相談に乗ってくれたオーナーが勧めてくれた案である。
 父親の様子を伺うと、予想以上に喜んでいる様子だった。

「崩しにくいな」

 他人の前では決して見せない微笑みを浮かべ、オーベルシュタインはそうコメントした。

Ende