実験体LU-0116

「あのオーベルシュタインは死ななかったか。奴が人間であると証明する、せっかくの好機であったのにな」
「悪魔が妖怪に捕まったら、人間としては共倒れを望むだけだ」
「オーベルシュタインを人間と思うから腹がたつのだ」
 などと、武人型の諸将にその怜悧さを忌避され、とかく人間でないものにオーベルシュタインは例えられがちである。しかし、これらの言を発した者の誰も本気でそう信じていた訳ではなく、他に言い表しがたい拭えぬ違和感を表明したに過ぎなかった。
 だが、誰にも明かされていない彼の真の出自を考慮すれば、『人間ではない』との評価も、間違いとは言い切れなかったのである。
 彼の元の名は『LU-0116』といい、数字の部分を2桁ずつに分けて01(アインス)-16(ゼヒツェーン)、または単に16と呼ばれていた。彼には、同じ目的のために人工子宮で造られ、同年に生まれた兄弟姉妹が511名存在したが、彼が成人する前には皆亡くなっていた。
 彼らは、腐敗し尽くしたゴールデンバウム王朝を500年生き長らえさせた太い根のひとつであった。高度な知的労働を担わせる奴隷とすべく、人間を品種改良して創り出された生き物である。
***
 オーベルシュタイン家の先代当主フォルカーは、遺伝子工学の研究にのめり込み、より優れた人間を創り出すことに生涯をささげた科学者であった。欲に惑わされない、知性と判断に優れた人間を生み出すことができれば、平和で幸福な社会が実現され、新旧全人類が幸福になる、と彼は信じていた。
 神の真似事を彼にさせてくれる研究施設は、帝国にたったひとつだけ存在した。それが、後世の軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタインの生まれた秘密研究施設であった。その研究施設で作られていた奴隷は、≪蚕≫と呼ばれていた。
 蚕とは、遙か昔に絶滅した昆虫の一種である。今ではシルクとは化学繊維を指すが、かつてのシルクは蚕がつくる分泌物のことであった。織物や服飾品の材料となる上質な糸たるシルクは人類に愛され、長きにわたって人類の手の中で蚕は子孫を残し、進化していった。その結果、蚕は人の手なしに生きられない生物と成り果てた。
 奴隷たちは、その蚕とよく似ていた。彼らは、一年を通して気温と湿度が大きく変わらぬよう空調されたシェルターの中で生涯を過ごし、味気ない完全栄養食を規則的に食べ、決まった時間に目覚め、働き、眠った。もしも屋外へ出て行けば、環境の変化に耐えきれず一週間ほどで弱り、下手すれば死んでしまう程に繊細だった。
 ≪蚕≫は完璧な人間ではなかった。奴隷として扱いやすいよう、品種改良された結果である。まず、不出来なものを気兼ねなく管理者が破棄できるよう、怒ったり泣いたりしない因子が選択的に残され、喜怒哀楽で彼らが表情を変えることはなかった。つぎに、閉じ込められて暮らすことにストレスがないよう、現状に満足する因子が好まれ、環境を良くしようという欲求を持ち得なかった。死ねと言われたら大人しく死に向かい、仲間が突然消えても殆ど気に留めない。勝手に増えないよう、男女ともに生殖器をもたず、性欲も持ち合わせない。そうした操作の副作用で、日光を直接浴び続けると体調を崩す。重い弱視などの障碍を持って生まれてくることも多々あった。
 一方、≪蚕≫は人間より優れた能力を持っていた。どの個体も幼少から高いIQ値を示し、膨大なデータを一瞬で記憶でき、難解なパズルや知恵の輪を瞬時に解くことができる。帝国の膨大な統計資料を彼らに与えれば、8割の高級官僚が働いていなくても、帝国が問題なく維持されたのである。蚕が上質なシルクを生むように、彼らは上質な労働を生んだ。彼らの計算・分析・推量や最適化・集計の能力は、自然に誕生した人間なら高額な年俸でしか雇えないほど高度であった。
 しかし彼らは、労働に対価が存在することすら知らないまま、シェルターの中で質素な暮らしを生涯続けるのである。
 ≪蚕≫は、フォルカーの理想に最も近い生産物であった。彼は10名の≪蚕≫を担当することになり、彼らを養育した。彼は自分の≪蚕≫たちを我が子同然に愛おしく感じるようになり、能面のような顔の≪蚕≫たちも、こころなしかフォルカーに懐いたようだった。
 指定の食事以外を≪蚕≫に与えることは禁じられていたが、フォルカーは、自分の子達にクッキーを用意し、訓練を終えた後にご褒美として1枚与えていた。教育というより、喜ばせたい故だった。市販のチョコチップクッキーに過ぎなかったが、≪蚕≫たちは無表情のまま貪るように熱心に食べた。
 フォルカーは、そうした様子を同僚たちに注意され、「くれぐれもモノだと割り切れ」と何度も言われた。その意味を、間もなく彼は理解した。
 ≪蚕≫たちが10歳になったとき、彼らの『性能試験』が実施された。試験そのものは彼らに真新しいものではなく、いつものパズルや暗算や暗記等のテストを出題され、いつものタイマーで時間を測り、各出題をそれぞれ制限時間内に解けるか試されたのだ。
 LU-0116は、そのテストを全て合格した。すると、フォルカーが非常に喜び、涙を流しながら彼を抱きしめて「よくやった」と褒め称えた。
『いつもと大して変わらないパズルを解いただけなのに、どうして反応が違うのだろう』と彼は不思議に思った。
 その後、次に試験を受けたLU-0117が失格となった。制限時間を過ぎてしまったのである。すると、LU-0117は16と違う部屋に連れて行かれ、姿が見えなくなった。フォルカーが息をのんだが、当時の16には意味を理解できなかった。次のLU-0118は合格し、16と同じ部屋にやってきた。10名の試験が完了し、フォルカーの手で育てられた≪蚕≫のうち、合格したのは5名であるらしいと分かった。
 16と17は隣室だった。彼らは、フォルカーが「静かに眠りなさい」と優しく叱りにくるまで、壁を軽く叩いてモールス信号で会話する遊びをする仲だった。ほんの少しだけ、創造主が意図しない人間性を持ち合わせた二人だったのである。
 16は、いつものように寝る前に『起きているか』と信号を送った。応答がなかった。もう一度送る。音がしなかった。
 本当は眠らなくてはいけないのだが、16は勝手に部屋を出て17の部屋を見に行った。部屋には誰も寝ていなかった。
 就寝を守っていない16を見つけ、フォルカーがやってきた。
「どうした、16(ゼヒツェーン)」
「先生、17(ズィープツェーン)は何処ですか」
 フォルカーは息をのんだ後、少し震えのある声で応じた。
「彼は、外に出たんだ。もうここへは戻らない」
「そう」
 16は、その言をそのまま信じた。当時の彼には、感情のニュアンスを理解できなかった。
「ボクも外に出られますか? 先生」
「……ああ、そうだ。いつかは外に出られる」
「そう」
 16は、それで満足したようだった。彼は自分の部屋に戻り、すぐに眠りについた。
 彼の部屋には、クッキーをいち包装ぶん隠してあった。試験のあと、フォルカーが5人にそれぞれ与えたものである。いつもは1枚だけのクッキーが、12枚ももらえたのだ。
 外に出られるのなら、半分残しておいて17にも分けよう、と彼は思っていた。
 通路に立ちすくんだフォルカーは、嘘をついた罪悪感に囚われていた。だが、失格となった5人が実際にはガス室で安楽死させられたなどと、たとえ許可されていても伝える勇気が出なかった。
 そして、16もいつかは同じ運命を辿ることになる。10歳で適性を測られ、30年間働き、何も問題がなくとも40歳で安楽死処分される。それが≪蚕≫たちの運命だった。
***
 秘密研究所の研究内容は、文字通り秘密であった。そして、内容が秘密である予算は、しばしば「無駄遣い」と誤認されるものである。財務省の役人が予算削減のため端を発した「研究所閉鎖案」は、利権を貪る貴族たちによりあっという間に可決された。黄金樹の太き根が、そこに巣くう寄生虫に喰われて断ち切られたのである。
 奇しくも、この同年に後の皇帝ラインハルトが誕生した。研究所が存続し続けていたならば、ラインハルトの覇業はより困難なものとなったであろう。
 ≪蚕≫たちは15歳だった。10歳からフォルカーの手を離れ、別の管理員が彼らを労働に携わらせてきた。彼らは皆従順で、それぞれ割り当てられた端末で仕事をしていた。成果はまずまずだった。
 しかし、研究所の閉鎖命令が下り、≪蚕≫たちは総員殺処分となった。禁忌の科学である『人類の遺伝子組み換え』を外に漏らす訳にはいかない。それに、世間知らずのうえ繊細な≪蚕≫たちは、放り出された所で余計に苦しみ野垂れ死ぬだけだ。
 ≪蚕≫たちは、いつものように仕事をする代わりに、数十名ずつ、『入ったことのない、勝手に入ってはならない部屋』へ入るよう命じられた。その中がなんであるか≪蚕≫は誰も知らなかったが、人間を優に超えるIQを備えた彼らには『自分たちがどうなろうとしているか』の察しがついていた。
 すべて察した上で、『他にどうしようもない』と結論づけていた。彼らにとって、研究所の中が世界のすべてだった。外側があることは知っていても、外がどんな場所であるかは分からない。もしかしたら、外に出ることは死ぬより恐ろしいことかもしれなかった。
 ≪蚕≫たちは常の無表情のまま、指示された通り静かにガス室へ入っていった。
 そのとき、青ざめたフォルカーがやってきて、自分が育てた5人の≪蚕≫たちを死の列から引き離した。
「9、10、12、16、18、こちらへおいで」
 5人は、久方ぶりに見る養父の指示を優先し、彼についていった。彼に従い、不思議な形の大きな箱――自動車に乗り込む。
 フォルカーが、ガレージの扉をリモコンで開く。ごんごんとシャッターが上がっていき、強い光がさしこんだ。≪蚕≫たちが怯え、腕で両目を覆う。彼らが初めて目にした、外の日光だった。
「さあ、外に出るよ」
 フォルカーが声を掛けると、自動車が前に進んでいった。
 外に出て、≪蚕≫たちが自動車の動きに慣れてくると、彼らは窓から外を見た。それは、生まれて初めての外の景色だった。普通の人間向けに、さまざまな標識や店の看板などが並んでいる。
 そうした景色は、≪蚕≫にとって苦痛だった。彼らの寝室や通路は飾りけのない白い壁と床の部屋ばかりであったのだが、それには理由がある。膨大な情報を瞬時に記憶し、すばやく処理できる彼らの脳は、取捨選択することなく目に映るもの全て記憶に留め、それらの意味を考えてしまうのだ。そのため、次から次へと目に映る情報満載の景色は、さながら、彼らの脳に矢継ぎ早に刺さる千の剣であった。
 ≪蚕≫たちは嫌がって声をあげ、両目をおおった。特性を知るフォルカーは、「下を見ていなさい」と指示をだした。彼らは従った。だが、動く自動車に下を向いて乗っていると、それはそれで吐き気をもよおした。
 彼らを乗せた車が、オーベルシュタイン邸に到着した。フォルカーは≪蚕≫たちに降りるよう言い、いちばん飾り気のない離れの建物へ連れていった。勝手に出ていかないよう鍵をかけたが、彼らは外の景色に怯え、出ていこうとはしなかった。
 フォルカーは本邸に戻り、両親に≪蚕≫たちのことを説明した。彼の父親はまだ健在であり、生き物を引き取るのに許可を得る必要があったからだ。両親は、いまだ結婚すらしていないばかりか、人間の子供そっくりの秘密生物を引き取ろうとする息子に難色を示した。不義の子がいると思われ、縁談に悪影響がありそうなうえ、扱い方のよく分からない人型の生き物を飼うなど冗談ではない。
 フォルカーが両親を説得する間、使用人が≪蚕≫たちの食事や寝床を用意した。しかし、≪蚕≫たちは見慣れない使用人を恐れ、部屋が寒いことを伝えられなかった。使用人も気づかなかった。
 フォルカーがようやく離れを見に来たのは、使用人から「3人の子供の息がない」と報告を受けた時であった。時既に遅く、3人の≪蚕≫たちが息を引き取っていた。残りの2人は騒ぎも泣きもしていなかったが、低温の部屋と死んだ仲間の姿にすっかり弱り、部屋の隅っこにうずくまっていた。
 フォルカーは部屋を暖めた。2人を励まし、≪蚕≫に必要な世話を済ませて元気づけようとした。しかし、また少し経つと、1人が死んでしまった。ストレスで心臓発作を起こしたらしかった。
 残ったのは、LU-0116だけだった。
「16、お前が最後の一人になってしまったな。頼むから死なないでくれ。お前も死んでしまったら、先生はとても悲しいよ」
 そう語りかけて励まし、彼を抱きしめて撫でた。それから、抗うつ剤や強心剤を打ち、環境の変化によるストレスを軽くして、心臓発作を防ごうと試みる。
 それでも16は弱っていった。フォルカーは全滅を予感し、彼のそばにつきっきりで面倒をみた。
「可哀想に。お前たちはとても可哀想だ」
「かわいそう……?」
 フォルカーの言葉に反応し、16は、連れ出されて初めて言葉を発した。
「ボクたちは可哀想なの?」
「そうだ。みんな、死んでしまった……」
「…………」
 16が黙り込んだのを、フォルカーは悲しみと誤解した。このまま弱って死んでしまうなら、せめて最期を看取ってやろう、とフォルカーは強く抱きしめる。
 だが、16が感じていたのは怒りだった。可哀想と言われたことに憤慨していた。見下されているように感じた。彼は、自分が自分であることを少しも恥じていなかった。とはいえ、生き延びられる種が優れた生き物ならば、確かに自分たちは劣等種だ。
 ならば生き延びてみせる。彼はこの時、恐ろしい外の世界で生き抜く覚悟を決めた。
 その後、16は回復し始めた。フォルカーは、16の顔色が良くなってきたことを喜んだ。
「16(ゼヒツェーン)、お前は今日から『パウル』と名乗りなさい。お前の名前はパウル・フォン・オーベルシュタイン、不慮の事故で物心つく前に母親をなくした、私の息子だ。今日から人間として、人間のフリをして生きていくんだ」
 16が回復したある日、彼に合わせて用意した人間の服を持ち込み、フォルカーが言った。パウルとなった16は、≪蚕≫らしい無表情のまま厳かに頷いた。
「はい」
「私のことも『先生』ではなく、『父上』と呼ぶんだ。できるかい?」
「できます」
「よし。いい子だ、パウル」
 フォルカーは、自分の息子となった≪蚕≫の頭をよしよしと撫でた。『LU-0116』と大きく書かれた服を脱ぎ、ベストにジャボにブローチをつけると、顔色こそ悪いもののパウルは貴族の令息に見えた。
「似合っているよ」
 フォルカーの褒め言葉を聞いても、パウルはこれといって表情を変えなかった。
 こののち、パウルは何年かを『人間になるための訓練』に費やし、それから遅れて士官学校に入った。直接の日射に耐えるべく、彼は毎朝、耐紫外線ジェルを肌の出るところ全てに塗った。さいわい、詰め襟の軍服から露出する肌は、せいぜい顔と首と手ぐらいのものであった。
 やがて、フォルカーの両親は亡くなり、フォルカー自身も早くに病で急逝した。オーベルシュタイン家の当主となったパウルは、年嵩のスタートながらも優秀さを取り立てられ、しかし折角の有力な上官ともしばしば衝突しつつ、軍人としてのキャリアを積み上げていった。
 そして彼はラインハルトに採用され、上級大将にして総参謀長の地位を与えられた。
 朝、詰め襟の軍服をまとうと、彼のうなじに刻印された『LU-0116』の文字列が隠れる。さらに、男性にしては長い後ろ髪が被さると、彼が≪蚕≫であることを示す証拠はすっかり見えなくなった。
***
「なんとも異様な雰囲気の施設ですな」
 中に何があるかを推測する材料が何もない、小さな窓がぽつぽつと並ぶ白い壁に覆われた巨大な施設を見上げ、フェルナーはコメントした。全体の形は丸く、卵の殻を思わせる。実際には繭をイメージした外観であったが、とうに絶滅した蚕なる生物のサナギをフェルナーは見たことがなかった。
 得られた過去の機密情報によれば、ここで、冒涜的な人体実験と、実験で生まれた改造人間の奴隷労働が行われていたという。
「まさか、残っていたとはな。閉鎖されたのち、とうの昔に取り壊されたものと思っていた」
 彼を伴い、たっての希望で直接調査に来た総参謀長オーベルシュタインが呟く。
「閣下は、この研究所をご存知だったのですか」
「知っていたとも、知らなかったとも言える。少なくとも、外観は今日はじめて見た」
「さようで」
 フェルナーは興味をひかれていた。ローエングラム公の凡庸ならざる参謀を生みだした過去に、この謎の施設が関係しているのだろうか。
 私的な好奇心を満たすため彼が調べたところによると、絶対零度の目をもつ上官は、裕福な貴族の出でありながら幼年学校を出ていない。さらに、今では問題にもならぬことだが、士官学校への入学年齢も妙に遅かった。何より奇妙なことに、どう考えても『15歳より以前、彼は世界に存在しなかった』としか思えぬほど、それ以前の写真や映像が全く見当たらないのである。
 そして何より、この施設の研究者に『フォルカー・フォン・オーベルシュタイン』という人間が存在した。参謀長の父親である。奇妙なことに、母親は『不明』と記載されていた。父親ではなく母親が不明とは一体どういうことだろうか?
 しばし外観を観察したのち、オーベルシュタインは正面玄関へ近づき、硝子扉に鍵をあてた。透明な硝子の向こうは見通しがよく、さらに今は明るい昼間だというのに、中は墨を流し込んだような暗闇を満たしていた。
「お待ち下さい、閣下」
 扉に手をかけ、さっさと内部へ入ろうとするオーベルシュタインをフェルナーが止めた。参謀長が顔をしかめつつ振り返る。
「なんだ」
「補足の情報がございます。この施設が閉鎖後、いまだ取り壊されていない理由です。なんでも、かつて研究に関わった人々や、中へ入った解体業者が原因不明の急病をわずらい、ことごとく命を落としたためとの由。辺りの町人の間では有名で、『施設閉鎖時に殺処分された実験体たちの呪い』と言われているそうです」
「ほう。卿はそれを信じるか」
「呪いはともかく、死人の話には記録が確認できました。原因はどうあれ、何らかの危険の可能性はあるかと」
「ふむ……」
 オーベルシュタインがしばし思案する。それも、ほんの数秒のことであった。
「卿は残るかね?」
「ご冗談を。閣下をおひとりにできません。万が一のとき、私がアンスバッハ准将の真似事をしたと思われては困ります」
「では、予定通り調査する。警戒を怠るな」
「はっ」フェルナーが敬礼とともに応じる。
 一応、万が一に備え、伴っていた他の随行員には外で待機させ、内部を調査するのはオーベルシュタインとフェルナーの二人とした。
 参謀長が扉を開き、二人は施設の暗闇へ踏み入っていった。
***
 驚いたことに、電源のスイッチを入れると施設中にパッと明かりが灯った。この施設には、自然を利用した半永久自家発電システムが搭載されており、外部からの電気供給なしに設備を利用できるのだ。かれこれ20年以上人が立ち入っていなかったものの、自動で施設内を清掃するロボットも存在し、廃墟のはずの施設は異様に清潔だった。
 オーベルシュタインとフェルナーは、過去の資料から得た地図をもとに移動し、電子資料室をまず訪ねた。外部に接続されていない、施設内イントラネットワーク接続の端末はまだ生きており、かつてここで行われていた研究データを閲覧することができた。
「……≪蚕≫……」
 資料にあった単語をフェルナーが呟く。そこには、この場所の全てが記録されていた。
 読み上げる総参謀長の頭の中では、幼い頃の記憶と、研究としてのこの場所のデータが次々と突き合わせされていった。きらいではなかったが、今考えると意味不明だったパズルの繰り返しの日々、自分たちがどう生まれどのように管理されていたか、どんな仕事をして過ごしていたか……。
 最後に、とある映像ファイルを開いた。映し出されたものは、小さな穴が壁にも床にも無数に空いた窓のない部屋に、≪蚕≫の子供達がずらりと列をなしている姿だった。
「まさか……」
 フェルナーが青ざめて呻く。彼の想像は当たっていた。
『シュウウウ』という音がして数秒すると、子供達は次々に倒れ始めた。悲鳴ひとつあげることなく折り重なって倒れ、それきりピクリとも動かなかった。
 吐き気を催し、フェルナーは「うっ」と呻いて片手を口にあてた。人間のなんと残酷なことか。たしかにニコリともしない不気味な子供達ではあったが、別のデータに写っていた、研究員たちに素直に従う様は愛らしかった。親同然の研究員たちを信じ、ガス室に入った結果がこれと思うと、いっそう残虐性が際立って感じられた。
 上官の様子を見ると、『ドライアイスの剣』と名高い参謀長は顔色ひとつ変えていなかった。さすが、というべきだろうか。
 参謀長は、罪のない実験体たちがガスで殺されていく映像に眉ひとつ動かさなかったばかりか、さらに別の処刑映像も続けて再生した。フェルナーは目をむき、おぞましい映像から目を背けた。それでも、ガスの噴き出す音と倒れる音だけで場面が頭に浮かび、また吐き気と戦わねばならなかった。
「507人か」
「はっ?」
「ここで死んだ者は507人、はじめ作られた数は512人、ここで死んでいないのは差し引き5人、とみて間違いないか? フェルナー」
「申し訳ございません、小官にはとても直視できず……」
 なんて人だ。延々処刑映像を見ていると思ったら、死んだ子の数を冷静に数えていたというのか。平民を消費財のように扱う貴族どもとて、死の瞬間を見れば吐き気のひとつもするだろうに。この方には人間の心というものがないのか?
「そうか、ならよい」
 そう告げると、オーベルシュタインは端末室の席を立った。どこへ行くとも告げず部屋を出て行く彼を、フェルナーは慌てて追いかけた。
「閣下。どちらへ?」
「調査はこれで十分だが、最後に見ておきたい場所がある」
「ガス室ではないでしょうな」
 もしそうなら、申し訳ないが先に退出して待たせて貰おう、とフェルナーは思っていた。
「違う。≪蚕≫たちの寝室だ」
「寝室?」意外な言葉にフェルナーは不思議そうな顔をうかべた。
 ≪蚕≫たちの寝室は、清潔ではあるが囚人の独房と見紛う飾り気のなさで、小さなベッドと僅かな棚くらいしかない。特に見るべき箇所はなさそうだが。
「嫌なら先に出ていてもよい」
「いえ。お供します」
 二人は、無人の施設を進んでいった。オーベルシュタインの足取りは、初めて訪れる場所にいると思えぬほど迷いがない。
 フェルナーはふと、『外観は今日はじめて見た』という、入る直前の彼の言を思い出した。
『閣下は、この施設の中にいらした事があるのか……?』
 しかし、当時の研究員たち――関係する“人間”は全員、原因不明の急病を患い、既に亡くなっている。それでは、参謀長は何者だったのか?
『≪蚕≫の生き残りは5人……』
 半白の後頭部をフェルナーが見つめる。颯爽と歩みを進める義眼の上級大将の正体について、推測だが、なんとなくの見当がついてきていた。
***
『LU-0116』と大きく印字された寝室の前に来たとき、オーベルシュタインは、自分にも郷愁の念が存在することを知った。扉を開いて中に踏み入り、スイッチを入れて明かりを灯すと、目の前に現れた光景――白い壁、白い床、小さなベッドと棚、そこに並んだ少しの本が過去の記憶を次々に呼び起こす。
 オーベルシュタインはベッドの脇に膝をつき、その下を覗き込んだ。何かがそこにあるのを視認し、手を伸ばして掴み、引き寄せる。
 それは、朽ち果てたチョコチップクッキーのパッケージだった。中身は、膨らみからして半分ほどである。袋の中身を引き出すと、カビの生えたクッキーが6枚残されていた。
 オーベルシュタインはそれをしばらく見つめたのち、湿った毛布のかかったベッドの上へ置いた。
「嘘だったんだな、先生」
「なんです?」
 ボソリと呟いた上官の言葉を聞きそびれ、部下が聞き返したが、オーベルシュタインは無視した。彼に伝えたかった訳ではない。
 17(ズィープツェーン)は外に出られなかった。外に出た数が5人だけなら、17は外に出ていない。オーベルシュタイン邸に連れ出された≪蚕≫だけで5人なのだから。
 不思議なものだな。オーベルシュタインは内心で思った。少し考えれば、17が亡き者であろうことは自分ならすぐに分かったはず。なのに、今日この日まで『17は外で生きている』と考えていた。幼さ故の信用、か。
 オーベルシュタインは立ち上がり、17の寝室側の壁をココ・コン、コン、と、何らかのリズムを伴って叩いた。
『起きているか?』かつて発したモールス信号で問いかける。
 当然だが、応答はない。
「今のは?」
「気にするな。無意味なことだ」
 フェルナーの問いに素っ気なく応じ、「待たせた」と言って参謀長はかつての寝室を出た。
「出る。もうここに用はない」
「はっ」
 二人が通路を引き返し、施設の出口に向かっていく。
 そのとき、背後から微かに『コココ・コン、コン』と、壁を叩く音のようなものが聞こえた。二人が足を止め、バッと振り返る。
「聞こえたか?」
「ええ。侵入者でしょうか?」
「さあな。噂を信じるなら、『住民』の方かもしれんぞ」
「閣下、脅かさないでください。今は信じてしまいそうです」
 しかし、音の出所は見えなかった。念のため引き返し、近くの寝室をすべて見て回ったが、音を出した犯人は見当たらなかった。
「誰もいない、か」
「壁が軋んだとか、そういう類いの音だったのでしょうか」
「そうは思えんが」
「もう出ませんか? 恐ろしくて心臓が持ちません」
「ほう。卿の心臓が持たないとは一大事だ」
「からかわないでください、後生です」
「よかろう」
 その後、二人は何事もなく施設を脱出することができた。
 のちに、研究施設の跡地はオーベルシュタインが買い取り、おおむね現状の状態で保存されることとなった。彼が付け加えた変化は、ここで亡くなった507名の実験体たちの慰霊碑の建設である。
 その甲斐あってか、施工担当者も、オーベルシュタインとフェルナーも急病に見舞われることなく、その後を生きることができた。
***
「閣下はこれがお好きですよね」
 オーベルシュタインは軍務尚書、フェルナーは官房長官となった後のある日、フェルナーがそう言って何かを上官に差し出した。それは、創業数百年の歴史を誇るメーカーのチョコチップクッキーだった。
「ああ」
「休憩時にいくつかお菓子を用意しますと、決まってこれを手に取られる」
「そうだったか」
 と言いつつ、『収賄になるかもしれん』と差し入れを受け取らないオーベルシュタインは、そのクッキーを大人しく受け取り、封を切って1枚食べ始めた。
「お飲み物はいかがしましょう」
「コーヒー」
「かしこまりました」
 フェルナーが給湯室へ向かう最中、オーベルシュタインは無表情のまま2枚目のクッキーを食んでいた。

Ende