宰相閣下は総参謀長を困らせたい
その1

 それは、リップシュタット戦役が終了し、リヒテンラーデ一族が駆逐され、ラインハルト独裁政権が確立したころの出来事である。ある日の夜、ラインハルトのもとを訪れたオーベルシュタインは、幼帝の処遇について主君に尋ねた。
「皇帝は殺さぬ」
 ラインハルトがワイン・グラスを揺らしながら応じるのを聞き、オーベルシュタインは満足した。
 この苛烈な青年は、あるいは憎悪の赴くまま、ゴールデンバウム王朝の血脈を完全に殲滅することを望むかとも考えていた。もしそうであれば、憐れなエルヴィン・ヨーゼフなどは贄の羊にしてしまって一切かまわなかったが、幼児虐殺の汚名からは主君を守らねばならなかった。しかし、杞憂であったらしい。
「生かしておいてこそ利用する価値もあろう。そう思わないか、オーベルシュタイン」
「たしかに、いまのところは、さようでございますな」
「ああ、いまのところは……」
 ラインハルトがグラスをかたむけ、中身のワインを飲み下す。
 オーベルシュタインは一礼し、今日一日の疲れを癒やそうとする主君のもとから離れようとした。ラインハルトは、能力がとびきり優れているばかりか、働きぶりの勤勉さについても、オーベルシュタインが知る上官のうち、最も抜きん出ている。休息のじゃまをしたくはない。
 だが、去ろうとするオーベルシュタインを、ラインハルトは呼び止めた。
「ときに、オーベルシュタイン」
「は」
「おれは卿のことが好きだ」
 グラスに目を向けたまま、ラインハルトが、なんということもなさそうに言い放つ。ラインハルトがチラ、と蒼氷色の目を総参謀長へ向けると、オーベルシュタインは表情をわずかにも変えることなく、そのままその場に直立していた。
「……と、言ったら、卿はどう思う」
 ラインハルトが続けた。いたずらっぽい笑みが、神の彫刻がごとく美しい顔にひらめく。
「……は。意外ですな。そして、光栄に存じます」
 そのように淡々と応じ、オーベルシュタインは深々と一礼した。すると、ラインハルトがフンと鼻をひとつ鳴らした。
「なんだ、すこしくらい動揺を見せてもよいだろうに」
「ご期待に添えず申し訳ございません」
「もういい。卿ももう帰って休め」
「御意」
 ラインハルトの許可を得て、オーベルシュタインはようやく部屋をあとにした。

 夜中の元帥府の通路を歩いていたオーベルシュタインは、もうほとんどの構成員が帰宅しており、ほかに誰もいないのを確認したのち、彼らしくもない大きな溜め息をついた。それから、義眼を痛めたかのように眉間に指をあて、眉をよせる。だが、義眼に異常があった訳ではない。
「…………なんだ、あれは」
 オーベルシュタインは一人つぶやいた。
 彼は、いつものごとく、そして、長年の訓練の成果により、ラインハルトの前では微塵も動揺を悟らせなかった。だが、動揺をしなかった訳では全くなかった。心臓は今も早鐘を打ち、血流はうるさいほど音を立てて激しく身体中を巡っている。
(なぜ。どういう意味だ。私は、キルヒアイスの……。いや、彼はそう思っていないが。しかし……なぜ……)
 オーベルシュタインの明晰な頭脳が、あらゆる可能性を弾き出しては検討する。だが、どれだけ彼の脳が回転しても、ラインハルトの意図として適当なものが浮かばなかった。
「……たわむれだ。ただの」
 とりあえず、そう結論づけておくことにした。なるほど、いたずらを仕掛ける程度には確かに、彼の主君は彼に好意を実際、抱いてくれているのかもしれない、と、彼は思った。
(それにしても……)
 オーベルシュタインは、今度は口元に手をあてた。今も、心を表情に現わさずにいられているか、彼には自信がもてなくなっていた。
(『うれしい』と、言っても良かったのだろうか……?)
 一瞬だけ、そのような考えが浮かんだが、実行する予定はなかった。

「お前はおれを叱るかな、キルヒアイス」
 ラインハルトは座席の背もたれを大きく倒し、仰向けて照明を見上げ、胸元のロケットをいじくった。
「そうだな、あの男はどんな残酷な手も使う。お前とは違うな。だがな、優しさを持たない訳でも、憎悪以外に心がない訳でもないと思うのだ、おれは……」
 カチャカチャ、とロケットを鳴らす。
「ほんの少しだけ。奴を困らせてやるのは、おもしろいと思わないか? キルヒアイス」
 そう呟き、ラインハルトはニヤリと笑みを浮かべた。