ある兄弟の話

 そのとき私は幼かった。母を慕い、兄を慕い、父を恐れる幼子だった。病弱で友人らしい友人をつくれない私にとって、兄は一番の遊び仲間だった。
 しかし、そんな兄と親しくすることを、母は嫌がっていた。理由は教えられない。悲しげな彼女に胸を痛めつつ、それでも兄と遊んだ。母を亡くしたときも、一番の味方はやはり兄であった。

 兄と私の待遇の違いに思い至るまでには、いますこし知識を要した。それは、雇ったばかりの新人のメイドたちの噂話から与えられた。
 眠ろうとして喉が渇き、水差しがカラだったので、下に水をもらいにいった時だった。父は不在で、私はもう眠っている筈であったから、使用人たちは油断していたのだろう。厨房から話し声が聞こえた。
「シュテファン君はかわいそうだ」
 私は物陰に背をつけ、陰に隠れたまま耳をそばだてた。『存在に気づかれれば教えて貰えない』と、幼いなりに学習していた。
「パウル様には綺麗なベッドと広い部屋が与えられているのに、シュテファン君は物置のような部屋で寝起きさせられて」
「二人とも旦那様の血を引いているのに、まるきり使用人の扱い」
「シュテファン君は奥様のお子ではないから」
「パウル様の目のことがわかって、シュテファン君が急に連れてこられた」

「あの子は、病弱なパウル様に何かあった時のための予備の跡継ぎよ」
「じゃあ、パウル様に何かあれば、あの子が貴族に……?」

 そのとき、ラーベナルトの鋭い声が彼女たちを叱った。『仕事に戻れ』と彼が言う。そして、会話は終わった。
 私はそのまま、気配を悟られぬよう寝室へ戻った。ベッドに入った後も、彼女たちの話は繰り返し頭の中に木霊した。
(兄さんは『かわいそう』な扱いを受けている)
(兄さんは母上の子供ではない)
(兄さんは……僕がいなくなれば、貴族になれる?)

 そして私は眠った。

      *

 母との二人暮らしは、けっして楽なものではなかった。日々、食べるものにも着るものにも苦労は尽きず、『金』というものへの執着をいちはやく学ぶこととなった。のちに現れる弟パウルときたら、成人してやっと『金と交換して品物を買う』ことを覚えたというのに。
 極貧に暮らす実の母親は、愛情ぶかいとは言えなかった。もっと豊かであったら、我が子にも優しくなれたかもしれない。今では分からないことだ。
 そんなある日、母が交通事故で亡くなった。孤児院行きを覚悟したが、その前に身なりのいい老人がおれを連れて行った。大きな屋敷では、おれの父親だという貴族の男と、おれの弟だという赤ん坊を抱いた貴族の婦人がいた。

 貴族の子供として迎えられた訳ではなく、おれは使用人扱いだった。しかしそれでも、食うものにも着るものにも困らないし、仕事も別につらくない。貴族の父親は愛情深いとはいえなかったが、貧民街の男ほど粗暴ではない。罵倒も体罰も上品なものだ。
 そして何より、弟のパウルがかわいかった。おれを冷たい目で見る奥様と違い、パウルはおれに笑いかけてくれた。父親に言われたとおり、おれを兄と呼んだ。無邪気に、かわいらしく純粋に、パウルはおれを愛してくれた。おれもパウルを愛おしく思った。

 軍属の旦那様は、しばしば長期間家をあけた。そんなときパウルは、シルクの寝間着から小さな足を覗かせてパタパタ走り、使用人部屋のおれの寝室へやってきた。
「兄さん、いっしょに眠りましょう」
 自分の広くて豪華なベッドから抜け出してきて、パウルは嬉しそうにそう言う。おれは、顔がほころぶのを我慢して、せいいっぱい厳しい顔で彼を追い返そうとする。
「父上に叱られるぞ」
「内緒にすればいいでしょう」
 むう、とパウルが顔をしかめる。その顔がまた愛らしい。おれはまた負けてしまう。
「わかった。じゃあ、こちらにおいで」
 パウルが嬉しそうに顔を輝かせ、パタパタと駆け寄ってくる。そして、狭くて硬くてオンボロのベッドに、おれたちは二人でぎゅうぎゅうに詰まる。パウルがおっこちないよう、パウルを壁際に寝させて。
「そら、狭いだろうパウル。ベッドだって、お前のより硬いだろう?」
 おれはいつもそう言う。するとパウルは答える。
「兄さんがいるほうが暖かいよ」
 おれは、形ばかりの溜め息をつく。そして、かわいいパウルの横顔をなでる。
「おやすみ、パウル」
「おやすみなさい、兄さん」

 そして夜は更ける。

      *

 その日、ラーベナルトらに連れられ、パウルとシュテファンは自然公園へ遊びに来ていた。
 すきとおる青空、吹き抜ける風、さざめく緑の草木。笑い声をあげ、自由に草地を駆け抜ける兄弟に抗議する者は、ここには誰も居ない。周囲に他の人も居らず、彼ら二人は、今だけは、身分にも何にも縛られず、自由であった。
 二人は駆けた。「あまり遠くにいってはいけませんよ」と執事らに言われ「はあい」と返事をかえし、ぐんぐんと森を抜け、向こう側を目指す。きらきらと光る何か――湖に向かって。
 湖のほとりに着くと、二人はようやく走ることをやめた。ハアハアと息を弾ませ、鏡のように美しい湖畔を見つめる。さざなみひとつ立っていない自然の宝石は、二人だけの冒険の末、みつけた宝物のように美しかった。
 シュテファンは小石をひとつ拾い上げた。そして、手慣れた様子で石を湖に投げ入れる。すると、石はピョンピョンと数度水面をバウンドし、それからポシャリと沈んだ。
「わあ、すごい兄さん! どうやったの?」
 パウルが興奮して尋ねる。シュテファンはエヘンと胸をはった。
「たいらな小石をまずは見つけるんだ。それで、こう飛ばして……」
 シュテファンに教わったとおり、パウルが石を投げる。だが、何度やっても石はまっすぐポシャリと沈んでしまう。
「うまくできない……」
「ははっ。練習が必要だな」
 パウルは、石をまた探し回った。そして、平らだが大ぶりな石を拾い、ううんと悩んだ後に捨て、それからまた石を物色したりしていた。
 シュテファンは湖畔をじっくり眺めた。地面と湖との境が切り立った崖のようになっていて、この湖は、端でもかなり深さがあるようだった。
 パウルが湖の周りを無防備に探索し、その足取りが湖に近づいていく。
「おい、パウル、危ないぞ。湖からは距離をとれ」
 シュテファンが注意する。するとパウルは素直に従い、湖から離れて石を探した。

 ふと、シュテファンは思った。
(ここでもし、パウルが湖に落ちたら、そのまま溺れてしまうかもしれない)
 その考えに背筋を寒くする。だが同時に、こんな考えも浮かんでいた。
(そうしてパウルが死んでしまったら――オーベルシュタイン家の次期当主は、おれになる)
 ドクン、と、シュテファンの心臓が跳ねる。そのような恐ろしい考えを振り払おうと、シュテファンはブンブンと頭を振った。
(なんて恐ろしいことを! たしかに、平民ではなく貴族になる唯一のチャンスだろう。だがそれに、大切なパウルに代わる価値はない)

「兄さん。いい石がみつからないよ」
 パウルの困ったような声が響き、シュテファンはハッと我にかえった。そして、かわいい弟に笑顔を向ける。
「しょうがないな。兄さんがいくつか、良いのを見つくろってやるよ。それまで待っていろ」
「うん」
 パウルが頷く。疲れたのか、彼はそこで岩に腰掛けた。パウルが休んでいるのを視認したあと、シュテファンは、約束通り石探しを始めた。貧民街時代に石切遊びをよくした彼の目にかなう石は、ここにはまあまあ存在している。
 シュテファンが石探しに意識を集中している間、パウルは湖畔を眺めた。美しい湖は、まるで彼を誘うように煌めいている。
 ふと、パウルは立ち上がり、湖のそばに近づいた。その水の深さを測る。かなり深い。きっと、足をつけられないくらい深いだろう。境目はしめり、滑りやすくなっていた。
(僕に何かがあれば――)
 くるり、と、パウルはシュテファンを見た。そこには、弟のために熱心に石探しする、最愛の兄の姿がある。
(かわいそうな兄さんは、かわいそうでなくなる? 兄さんが貴族になれる?)
 くるり、と、また湖に目を戻す。湖面には、彼の姿が映っている。
 病弱な細くて青白い体をした自分。甘くて弱くて、父を怒らせてばかりいる、母を苦しませ悲しませる原因になった自分が映っている。

(僕さえ、いなければ――?)

 彼の足が一歩、湖へ向かう。ためらう足取りは、泥にすべった。
 そして、バシャン、という音が響いた。石を集めていたシュテファンが、弾かれたように音へと振り向く。
 そこには誰もいなかった。湖面には大きな波紋が拡がっていく。
 パウルが、いない。

「パウル!!!!!」

 シュテファンは石を捨てて立ち上がり、波紋の拡がったあたりを見下ろした。パウルがそこにいた。パウルが湖底へ向かって沈んでいく。
 シュテファンはバッと上着を脱ぎ捨て、靴を投げ捨てた。そして、みずからも湖に飛び込んだ。
 つめたい水の中を、シュテファンは泳ぎ進む。そして、しずむ弟の体を死に物狂いでつかみ、湖底を蹴飛ばした。力強く推力を得られた彼らは、なんとか水面に戻ることができた。そして、陸地をひっつかみ、どうにか二人そろって自らあがる。
「ハァッ……! はあ、はあ……!」
「げほっ、! はぁ、はあ」
 二人して咳き込み、水を吐いて気体を肺に入れようとする。
 ひといきつくと、シュテファンは、ずぶ濡れのパウルをずぶ濡れのまま抱きしめた。
「ああ、パウル! 無事でよかった! 大丈夫か、意識はあるな? なんともないか?」
「ゲホッ、ゲホッ。う、うん。大丈夫だよ兄さん」
「足を踏み外したのか?」
「うん。そうみたい。……ありがとう兄さん」
「ああ、よかった! よかった! おれぁ、お前が死んじまうんじゃないかって、本当に……!」
 そのように泣き声で言いつつ、シュテファンはまた強くパウルを抱きしめた。パウルはしばらく無反応でその抱擁に応じ、それから、シュテファンを彼も抱きしめた。
「……うん。兄さんがいてくれて、よかった。兄さんは命の恩人だ」
 シュテファンは一度、弟を手放し、お礼を言うパウルと正面で顔を合わせた。シュテファンの目はうるんでいたが、彼はニッと笑顔をうかべていた。
「お前が無事で本当によかった、パウル……兄さんにとってお前は、一番大切なものなのだから……」
 その言葉を聞き、パウルは、一瞬もうしわけなさそうに目を伏せ、それから笑顔をかえした。
「うん」

      *

「私を殺せば貴族にだってなれたのに、兄さんはそうしませんでしたね。チャンスはいくらでもあったのに」
 脱出艇に一人のりこみ、オーベルシュタインはつぶやく。
「殺しておくべきだったのだ。そうすれば……。いや」
 オーベルシュタインは自ら反論する。
「……兄さんに失礼だな。これもまた、彼の選択なのだろうから……」

 そして、一人の脱走者を乗せた船は宇宙と飛んでいった。

Ende