うつしびと

 彼が出てきた瞬間、脳天から全身に落雷の落ちるような感覚をおぼえた。
「エントリーナンバー12、フィデリオ・リヒテンシュタインです。よろしくお願いします」
 そう言って深々とお辞儀した彼は、〝奴〟と違って柔和な微笑みをたたえており、人なつこい印象だった。線の細さと中性的な顔立ちは確かに似ているとはいえ、別人である。
 しかし、演技を始めると、絶対零度の空気が突然あらわれた。くっと顔を上げ、見下すような目つきをすると、カラー・コンタクトを入れただけの瞳が義眼にすら見えた。
「〝組織にナンバー2は必要ない〟」
 低い声で台詞が述べられると、ビッテンフェルトの脳裏に、今は亡き彼の人物が鮮明に思い起こされた。
「〝うかがおう、ビッテンフェルト提督、ただし手みじかに、かつ理論的に願いたい〟」
 ビッテンフェルトの視界に、ハイネセンの総督府の一室があらわれた。目の前に、軍務尚書のデスクがあり、その向こうに、氷の目線を向けるオーベルシュタインが座っている。
「〝卿らの実績とやらは、よく知っている。卿ら三名あわせて、ヤン・ウェンリーただひとりに、幾度、勝利の美酒を飲ませるにいたったか〟……わっ?」
 不意に、〝オーベルシュタイン〟が無名の役者に戻った。亡き軍務尚書に扮した彼がおびえ、一歩あとずさっている。
 ビッテンフェルトはその時、自分が思わず立ち上がっていることに気づいた。
「大丈夫ですか、元帥?」
 彼の隣に座った、他の審査員たちが尋ねる。
 ミュラーとワーレンも、心配そうに彼の方を見ていた。罪なき平民の役者に彼が飛びかかるようなら、その前に取り押さえねばならない。
「ああ、あ……すまん。大丈夫だ」
 ビッテンフェルトは、自分自身の行動に驚いて狼狽しつつ、元通り座り直した。
「結構です、リヒテンシュタインさん、ありがとうございました。かなり良かったみたいですよ。それでは、別室にて結果をお待ちください」
 専門の審査員からそう言われると、リヒテンシュタインは破顔して笑った。
「ありがとうございます!」
 元気に身体を倒して一礼し、彼は審査室を出て行った。

      ***

 平和になったローエングラム王朝で、とあるノンフィクション・ドラマが制作されることとなった。その名も『猪突の提督』――建国の功臣、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト帝国元帥の人生を描いたドラマである。
 ドラマには、ハイネセンへ派遣された際の出来事も盛り込まれることとなっている。そして、その出来事を再現するには、ビッテンフェルト本人役だけでなく、とある人物を演じる役者選びも重要であった。

 パウル・フォン・オーベルシュタイン役、フィデリオ・リヒテンシュタイン。

 ビッテンフェルト本人がゲスト審査員として呼ばれ、演技を直接みられた彼は、当時の本人を知るビッテンフェルトが思わず飛びかかりかけた程の名演をみせた。全員の審査が終わると同時に彼は採用決定し、国民的人気ドラマの名悪役的な立場の仕事を得たのである。
 彼自身は、冷徹には程遠く、温厚で人当たりのいい人物であった。瞳の色は優しいラベンダー色をしており、両目は生身である。しかし、冷徹を演じることに非常に長けていた。
 ビッテンフェルトは、ドラマの収録がいつかを尋ね、たびたび、リヒテンシュタインの演技を見学しに行った。いつ行っても、リヒテンシュタインの演技は完璧で見事だった。
 それでいて、リヒテンシュタインからビッテンフェルトへの好感度も高かった。彼の採用の決め手となったのは、やはり、ビッテンフェルトのあの反応だったためである。
「どうも! またいらしてくださったのですね、元帥閣下」
 人なつこく笑って挨拶するリヒテンシュタインは、オーベルシュタインの格好のままだったが、まったくリヒテンシュタインであった。そのたび、ビッテンフェルトも笑顔と挨拶を返すのだが、彼には、好感触がうれしくありつつも、どこか物悲しいような感情が渦巻いていた。
「おう。いつも邪魔してすまんな」
「とんでもないです! 軍人さんがお暇なのは、平和な証拠だといいますし?」
 ユーモアたっぷりにそう宣う彼には、まったく嫌な感じがなく、あのオーベルシュタインとは対照的だった。それでもなお、オーベルシュタインを演じさせたら、彼の右に出る者はいないのである。
「ははっ! まちがってはおらんが、言ってくれるな」
「ふふっ。今日の収録はこれで終わりです。お暇ついでにどうですか、夕食でも」
「おお、いつもすまんな。約束があったら無理にとは」
「いえいえ。元帥のために空けてありますとも。美味しいものおごってください☆」
「こいつめ」

 すっかり仲良くなった様子の二人は、リヒテンシュタインの着替えのあと、共に自動運転車へ乗り込み、夜の街へ出て行った。

      ***

「軍務尚書は、本当は優しい人だったのではないかと思いますね」
 高級ステーキに合わせた赤ワインを口にしながらリヒテンシュタインが言うと、ビッテンフェルトは思わず身を乗り出していた。
「どうしてそう思う!?」
「あ。その。外野の意見で恐縮なのですけれど……過去の発言とか、映像の雰囲気とか、そういうのを見ていて、感じました。『わざと周りを怒らせて、若き皇帝への憎悪を引き受けているようだ』と」
 ビッテンフェルトが「ほう」と声をあげる。不快がっている様子はなかった。
「そうか、そう思うか」
「ええ」
「……そうなのかあ」
 ビッテンフェルトはそう呟いたあと、食べかけのステーキをそのままに中空を見つめ、なにやら物思いにふけった。その間、リヒテンシュタインは黙っておいてやり、代わりにご馳走をありがたく食べ進めた。
「さて」
 きゅ、と、彼がナプキンで口をぬぐう。彼の前の皿は、すっかり空になっていた。細身の割に食は進むらしく、元帥との夕食の都度、彼は一切れ残さず食事を平らげる。
「この後はどうします?」
「ん? どうとは?」
「何か〝してほしいこと〟があるなら伺いますが」
「む……。してほしいこと、か」
 含むようなリヒテンシュタインの物言いには気づかず、ビッテンフェルトは首をひねった。しばらくして、彼はまた相手に視線を戻した。
「…………変なことを頼むがな」
「はい」
「おれに『立派になったな』って言ってみてくれ。……オーベルシュタインぽく。だが、皮肉ではなく……その。久々に後輩に会ったような調子で」
 リヒテンシュタインは、少し眉を上げたが、すぐに笑顔を貼り付け直し、「わかりました」と快諾した。
 そして、彼がまた〝オーベルシュタイン〟になった。ただし、優しげな雰囲気をまとって。
「〝立派になったな……フリッツ〟」
「ん゛っ」
 ビッテンフェルトが呻き、顔を伏せた。
 具合が悪くなったのか、と心配した給仕が駆け寄ってくる。それを、リヒテンシュタインは『大丈夫だ』と手を上げて制した。
 しばらくして、ビッテンフェルトが声をあげた。
「……ありがとう。十分だ」

 それで、その晩の夕食会はお開きとなった。代金は、いつもどおりビッテンフェルトが全てカードで支払い、リヒテンシュタインを家に送る自動運転タクシーを呼び、彼を見送った。

Ende