吸血鬼のオーベルシュタインとフェルナーの話
その1

 きっかけは、ほんの小さな違和感に過ぎなかった。

 いつも通りに資料デバイスを持ち、オーベルシュタイン元帥の後ろにつき、見慣れた通路を歩んでいたフェルナー准将は、突然、小さな違和感に襲われた。何かがおかしい。
 違和感の理由と思しきものは、すぐに見つかった。つい最近設置されたらしい、新しい鏡の存在を視界に認める。不安を解消したと思ったフェルナーは、フッと小さく笑い、自身の姿でも確認しておこうかと視線を鏡の中へ向けた。
 見栄え良く整えられた、癖のある白銀の髪。緑みがかった薄い翡翠色の瞳。黒地に銀装飾の、清潔な帝国軍服。その軍服をシュッと着こなす、鍛え上げられた身体。そこにいつも通りの自分の姿を認める。すると、不思議なことに一層違和感が強まった。何かがおかしい。何がおかしいのだろう。

 …?
 ……???
 閣下が、映っていない?

 頭の中で理解しかねる結論を出してしまったフェルナーは、思わず歩みを止め、鏡をまじまじと見つめた。

「フェルナー?」

 突然立ち止まった部下を不審に思ったのか、オーベルシュタインが声をかけた。フェルナーは視線を鏡から外し、軍務尚書へと目を向けた。いつもの陰気な尚書閣下がこちらを向いて立っている。フェルナーはもう一度鏡に視線を向けた。鏡の中には、自分と、陰気な軍務尚書がきちんと映っていた。

「どうした」
「いえ、何でもございません。妙なものを見た気がしまして。目の錯覚だったようです」
「そうか」

「いきましょう」とフェルナーは言い、オーベルシュタインは頷いて応え、再び進行方向に向き直った。
 見慣れた通路を再び進みながらも、フェルナーの頭の中では先ほどの“錯覚”が答えを求めて渦巻いていた。鏡に映らない人間。鏡に映らない、生き物…?そういうものを、昔、読んだ気がする…。
 執務室へ着いて、この後の仕事を一通り軍務尚書と確認した後、フェルナーは半分冗談のつもりで切り出してみた。

「閣下」
「なんだ」
「閣下は吸血鬼ヴァンピーアなのですか?」

 すると、軍務尚書は黙りこくってしまった。部屋の温度が急に下がったような錯覚を覚える。この沈黙は…なんだ?

「なぜわかった」

 たっぷりと黙った後、軍務尚書は低く、普通の声量で、しかし部屋中に響き渡る威圧感をもった声でそう答えた。フェルナーは全身から血の気が引き、凍り付いたように感じた。思わず、援軍を求めるかのように部屋中に視線をさまよわせたが、扉は閉められ、ここには自分と軍務尚書しかいなかった。

「え…と…冗談、ですよね…?」
「なぜわかった、と聞いている」
「…さっき…新しく設置された、鏡に…映っておいでで…なかったように…見えて…」
「やはりそうか。…気を抜いていた」

 そう言うと、軍務尚書は義眼の視線をフェルナーから外し、物思いにふけるかのように中空を見つめた。フェルナーは、軍務尚書の悪い冗談だと思いたかったが、彼が冗談を言う人間ではないことはよく知っている。それに、どうやって只の人間が、只の鏡に映らなかったり、映ったりできるというのか。
 吸血鬼。人の血を啜り、人を操る存在…噛まれれば逆らえなくなるのだったか、見つめられただけで従ってしまうのだったか?大昔の記憶を掘り起こしながら、フェルナーは恐怖で息も絶え絶えになっていた。間違いなく、これは閣下にとって、ばれてはならない秘密だ。自分は、消されるのか? 仮に、彼に吸血鬼の特殊能力など無かったとしても、彼には自分1人くらい簡単に消せるということを、フェルナーは痛いほどよくわかっていた。

「私は食事のために人を殺すことはない。ここ最近はずっと、直接人を噛んで生き血を飲んでもいない。輸血パックを少々、頂いてはいるが…それも大した量ではない」

 ややあって、軍務尚書はそう語り始めた。フェルナーの思考が軍務尚書の言葉にようやく追いついてくると、『軍務尚書の声に敵意がない』と思えるようになった。硬直していた自分の身体が、フッと緊張を解いて緩むのを感じた。

「…私を消さないのですか」
「黙っていてくれるのなら、な」
「小官の口約束を信じてくださるので?」
「話されても、それほど問題はない。犠牲者もなしに、そんな話を他人に信じさせることは容易ではない。ただし、卿が好んで触れ回るようなら、消す」

 最後の言葉にだけ、重々しく威圧を込めて発せられた軍務尚書の声を聞き、フェルナーは身震いした。しかし、相変わらず正論の鋭いオーベルシュタインの言い分は、もっともであり合点がいった。血を抜かれて死んだ人間がいるでもないのに、自分1人が軍務尚書は吸血鬼だ、などと騒いだところで、『あのオーベルシュタインはとうとう自分の直属の部下にもすっかり嫌われたらしい』とでも言われるのが精々だろう。
 緊張が解け、盛大に息を吐きだしたフェルナーは、そのまま床に崩れ落ちてしまいそうになった。彼はもちろん、この秘密を触れ回るような愚を犯すつもりはなかった。
 どうやら、自分は死なずに済むらしい。

「…日光を浴びても平気なのですね」
「私はそうだな」
「吸血鬼にも、種類があるので?」
「そうだ」
「ははは…閣下とおりますと、小官の知見は無限に広がるようですよ」
「それは、結構」

 ようやく安心して、フェルナーは笑い声をあげた。心なしか、軍務尚書も微笑を浮かべているような気がした。

 それからというもの、他に誰もいないとき、フェルナーは軍務尚書に吸血鬼としての彼の情報をあれこれと聞くようになっていた。軍務尚書は、気まぐれなのか何なのか、自分の他愛無い質問にいちいち真面目に答えてくれていた。

 人間が吸血鬼に噛まれても、ただちに吸血鬼になるわけではないらしい。血を吸われて死に、なおかつ身体の損傷が少ない状態を保ったまま、数日経つと、体質の合う者だけが吸血鬼として蘇るそうだ。
 また、人を噛んで生き血を飲むとしても、胃の容量に限りがあるため、いちどきに致死量まで血を飲み干すことはできないとのことだった。更には、血を吸いだすのにも時間がかかり、少なくとも6分程度は無防備な状態となってしまう。そのため、吸血鬼の犬歯は──この犬歯は自由に伸縮できるそうだ──獲物を大人しくさせ、なおかつ血を飲み尽くすまでの期間、従属させることができる麻酔のような毒を出せるようになっているらしい。
 日光に当たると灰になる吸血鬼も存在していて、それは元々人間だった者が、吸血鬼に転じた者だそうだ。閣下は、真吸血鬼ワー・ヴァンピーアと呼ばれている生き物で、生まれついての吸血鬼である。真吸血鬼は、日の下も歩けるらしい。
 閣下は、少なくともゴールデンバウム王朝ができる以前からの永きに渡って生きていて、自分でももう何年生きているか覚えていないそうだ。パウル・フォン・オーベルシュタインという名前も、生まれついての名前ではなく、人のフリをして暮らすために使ってきた幾百の名前の1つに過ぎないらしい。
 では本当の名前はというと、『吸血鬼は、真の名前を呼ばれると、その相手に隷属し、逆らえなくなってしまうために隠しているのだ』と、これは答えてもらえなかった。
 『十字架や聖水、ニンニクなどは本当に苦手なのか』と尋ねてみると、『恐怖するほどではないが、嫌な感じはする』との回答を得た。十字架が掛かっている家にも入ろうと思えば入れるのだが、特に理由がなければ避けるらしい。

 そうした知識を得ていくうちに、ふと、フェルナーはある好奇心を抱くに至り、とうとうこんなことをオーベルシュタインに言い出した。

「閣下、小官の血を飲んでみていただけませんか?」
「…なんだと?」
「いちどきに死ぬ量はお飲みになれず、従属させる毒にしても、しばらく時間をおけば自然と抜けるのでしょう?吸血鬼に血を飲まれるというのは、どんな感覚か知りたいと思いまして」
「卿は正気か」
「もちろんでございます。…あっ、やはり、男の血などではなく、処女の乙女の血の方がお好みでしょうか」
「…吸血鬼からすれば、血の質はその人間の健康状態によってのみ左右される。性交経験の有無など関係ない」
「そう言われてみればそうですね。食事に使われている肉の持ち主の動物が処女や童貞かなど、小官も考えたことすらございませんし。閣下から見て、小官の血は、どうです? おいしそうですか?」
「…やめておいたほうがいい。歯の毒には、獲物が大人しく血を吸われに来るよう、依存性のある毒が含まれている。私が進んで卿を殺そうとせずとも、毒は毒だ。安全は保証できない」
「しかし、それ自体に大きな害はなく、時間が経てば自然と抜ける毒であるのはそうなのでしょう?お願いしますよ、閣下」
「………」

 しばらく沈黙したのち、ややあって軍務尚書は答えた。

「…後悔しても知らんぞ」

 その答えを聞き、フェルナーはニヤリと笑みを浮かべた。