夜鷹のおいし
ビテオベBADEND

 美典が遊郭の大通りを疾走している頃、女郎屋の一室でおいしは着物を脱がされ、楼家の腕で甘やかな声をあげていた。美形の呉服屋は拾った夜鷹にすっかり夢中になり、豪華な床に相手を組み伏せ、腰を揺らして突く。熟練技で狙い澄まされた動きは、おいしを蕩けさせ、作り物でない嬌声を繰り返し引き出していた。
 その時、階下で何やら喧噪が起こった。
「……ふぅっ、んっ! ……なんの騒ぎだ?」
「は、ぁッ! ……さあ、」
 直後、なだれのような轟音が階段を駆け上がってくるのが聞こえる。轟音は、楼家とおいしの寝室まで真っ直ぐに向かってきた。
 スパァン! と、勢いよく襖が開かれる。楼家とおいしはギョッと目をむき、突然の闖入者を凝視した。それは、オレンジ髪を振り乱した一人の下級武士であった。
「……美典様?」
「知り合いか?」
 どうしてここに、とおいしが尋ねようとすると、その前にスラリと美典が刀を抜いた。床の二人がヒッと声を上げる。
「おのれ、悪徳商人! おいしを返せ!」
 美典の刀が振り上げられ、おいしの上の楼家に切り下ろされる。楼家は、とっさにおいしから飛び退こうとしたが、刀は彼の首を切り裂いた。
「ぎゃあっ!」
 血しぶきが吹き出し、おいしに降り注ぐ。
「あああッ……!」
 おいしも狼狽し、声をあげた。反射的に顔を両手で覆う。
 楼家は、斬られた部分を手で押さえ、出血を抑えようとした。かわしたお陰か、まだ傷は浅かった。だが、美典の追撃が彼を追う。
「死ね!」
 第二撃が、壁際に追い詰められた楼家をとらえる。裸の彼の胸がざっくりと切り裂かれた。
「ぎゃああ!」
 おびただしい出血が後に続く。それでも美典は攻撃をやめず、第三撃、第四撃と何度も彼を斬りつけた。まもなく楼家は血の池に沈められ、わずかに痙攣したのち、動かなくなった。
 相手の死を確認し、美典は満足げに残忍な笑いを浮かべた。くるりと振り返り、愛しいおいしの無事を確認する。その頃には、おいしは目にかかった血をぬぐい、視界を得られていた。
 おいしは恐怖に目を見開いた。目の前に、あの温かくて愛おしかった美典が、顔も着物もおびただしい血しぶきで汚し、凄惨な笑みを浮かべて立っている。
「もう大丈夫だ。帰ろう、おいし」
 彼は言った。顔の血を軽く腕でぬぐい、散らかされたおいしの着物を集め、それでおいしの裸体を覆う。着物で包まれ、美典の腕に抱え上げられても、おいしは一言もしゃべれなかった。恐怖で硬直していた。
 無音の女郎屋を、美典は堂々と闊歩して歩き出て行く。彼を止める者も、咎める者も誰も居なかった。

      *

「さあ、着いたぞ、おいし」
 美典は嬉しそうにそう伝えた。目の前には、美典の家があった。彼の馬に乗せられ運ばれてきたおいしは、まだ言葉を出せずにいた。
「怖かったな。もう大丈夫だぞ。これからは、おれが守るからな」
 おいしの沈黙を、悪徳商人の監禁故であると解釈し、美典はそう言った。

 おいしを抱きかかえ、美典は彼を客間に連れて行った。明日の朝には両親を説得するつもりでいたので、使用人たちにも気兼ねなく世話を頼み、おいしが快適に過ごせるよう環境を整えていく。
「夕餉は食べたか? 簡単な夜食を用意しようか」
「…………」
「まあ、欲しくなったらいつでも言ってくれ。とりあえずゆっくり休め」
「…………」
 おいしは応えない。監禁から解放されたばかりだ、よほどショックだったのだろうと美典は考え、あまりしつこく追求しないでおいた。
 使用人たちに布団と寝間着を用意させる。おいしは無反応だったので、声をかけてから寝間着に着替えさせた。着替えには大人しく応じたが、やはりおいしは無反応であった。
 美典は、おいしに着替えさせたあと、使用人に敷かせた布団においしを横たわらせた。そして、掛け布団の上からポンポンと彼の胸をたたく。
「安心しろ。これからは、ずっと一緒だ。おれが守る。おやすみ、おいし」
 そのように声をかけ、美典は部屋を後にした。

 翌朝、慌てた様子の使用人に美典は起こされた。
「んん……何事だ?」
「若様。お連れ様がおられませぬ」
 美典は、はっと覚醒した。弾かれたように飛び起きる。
「なんだと?」
「朝の湯浴みをいたしましょうと伺ったのですが、布団はもぬけの殻で」
「さがせ!」
 美典はすぐに着替え、自らもおいしを探して屋敷中を探し回った。

 おいしは、協力を求めた番所の役人に連れられ戻ってきた。履き物が無かったからか、素足で出歩き、白い足が泥にまみれていた。
「おいし……! いなくなったから心配したぞ。どうした? 奴の仲間にさらわれそうになったのか?」
 美典がほっとした様子で尋ねる。昨晩よりは大分顔色を回復させた様子のおいしは、ふるふると頭を左右に振った。
「……帰ろうと、しておりました。しかし、この方々が」
「なんだ。帰る用事があるなら、おれに言ってくれれば馬に乗せてやるのに」
「…………」
「どうしたんだ?」
「……じいとばあに、食事を用意しないと……」
「ああ、おれを起こさないように気を遣ってくれたんだな。よし、今から二人に迎えを出そう。そして、皆で朝食にしよう。な? おいし」
 おいしは浮かない表情のままであった。美典は不思議に思ったが、これがおいしの平時の対応なのかもしれないし、監禁のショックは一日二日で解消するものではないだろうと考えた。
 間もなく、手配通り、おいしのじいとばあが車に乗せられ運ばれてきた。おいしの家にあった僅かな家財も一緒に運搬された。彼らの居室も、美典の家のひとつに用意された。
 じいとばあを見ると、おいしは二人に駆け寄っていった。
「じい、ばあ」
 二人に抱きつく。二人は、不思議そうに互いを見合ったり、なぜこんな所に連れてこられたのだろうといった様子で辺りを見回しつつ、かわいいおいしを抱きしめた。
 美典は、その様子を見て満足した。これからは、自分の家でおいしと、おいしの大切な家族を守る。もう二度と、おいしに夜のつらい仕事をさせることも、危険な目に遭わせることもないのだ。

      *

 格子の隙間から差す日光に照らされ、おいしは朝がきたことを知った。
 おいしは、美典家の座敷牢に囚われていた。そこは、美典の家で狐憑きなどが出たときに代々使用されてきた部屋であった。繰り返し(美典にとって)謎の脱走を図るおいしを、美典がやむなく閉じ込めたのである。
 座敷牢の中は、しかし、居心地がいいように最大限配慮されていた。美しい鏡台や、やわらかな寝床、きれいな畳に、たっぷりと高級な着物を詰められた桐箪笥、美典が送った大量の簪や櫛、毎日のように美典が贈る花が差された花瓶があった。おいしを喜ばせようと、美典が心を砕いて用意した品々である。
 だが、おいしの顔は暗いままだった。美典に求められれば大人しく床を共にするし、喘ぎ声もあげるのだが、彼と目を合わせようとはしない。美典を愛おしそうに微笑むことも、甘い睦言をささやくこともなくなった。それどころか、自分からはほとんど話しかけてこない。
 唯一、落ち着きを取り戻してきた頃、おいしがふった話題はこのようなものであった。
「楼家様は、斬られればならぬ事など何もしておりませんでした」
「何を言う、金の力に任せてお前を女郎屋に閉じ込めたではないか」
「そのようなことはございません」
「なぜ奴を庇うのだ? そんな嘘をついて」
「美典様は罪に問われぬのですか」
「問われる筈がなかろう。おれは武士で、奴は商人にすぎぬのだから」
「あなたは……私の存じていた美典様ではない」
「おれはおれだ。何も変わらない。どうしたんだ、一体」
 美典には、おいしの意図するところが全く分からなかった。楼家の監禁がよほどこたえて、軽い錯乱に襲われているとしか思い至らない。
(たくさん、楽しいものや綺麗なものを与えて喜ばせて、おいしを元気にしよう。そうすればまた、元のおいしに戻ってくれるはず……)
 美典はそう考え、芸人や噺家などを見つけては呼び、大切な愛人であるおいしを喜ばせようとした。市で美しい着物や小物を見つけると買い求め、おいしに惜しみなく与えた。食事は、もちろん、精のつく上等なものをおいしに食べさせた。
 だが、おいしは変わらなかった。食事もほとんど残してしまう。笑顔をみせるときと言えば、敷地内で過ごさせているおいしのじいとばあに監視付きで会わせる時くらいのことである。そういうとき、おいしは「美典様には大変よくしてもらっているので、心配要らない」と言った。
 おいしは美しかった。元気はないが、月明かりに照らされた儚い姿は、痩せ細ったかぐや姫のように美典には思われた。月に帰ってしまいそうな姿に、美典は胸を掻き毟った。
 少しでもおいしを留めようと、おいしの世話をできるだけ美典は担った。毎朝、おいしの髪に櫛を通し、おいしの細い髪を整えた。おいしには以前から白髪が多くあったが、こんなに多かっただろうか、と、大人しく梳かされるおいしの後ろで美典は思った。湯浴みのときには、おいしの為の一番風呂を自ら焚き、おいしの細い身体を優しく磨いた。しきりに語りかけるのだが、おいしは気のない返事ばかりをする。
 その状態は、一ヶ月、三ヶ月、半年と、ずっと続いた。温もりの無い夜をおいしと過ごす度、美典の心は、少しずつ蝕まれていった。

      *

 ある日の朝、座敷牢の前に美典が訪れた。手には、牢の鍵を下げている。
「おいし」
 美典が呼びかける。横になっていたおいしが身を起こし、格子越しに美典を見つめ返した。
 美典が牢の扉を開き、中に入ってくる。美典の目には隈ができ、ひどく思い詰めた様子だった。鳶色の瞳は暗く、感情豊かな表情が今はない。
「一緒に死んでくれ」
 そう言う声は、淡々としていた。彼のもう一方の手には、短刀が握られていた。鞘からスラリと抜かれた刀身は、明け方の陽を受けて煌めいていた。
「いやです」
 おいしは答えた。だが、怯えた様子も、逃げる様子もない。
 美典は鞘を床に放り、ぎらつく短刀を片手においしに近づいた。おいしは逃げない。その体は、かすかに震えていた。
「たのむ」
 美典は繰り返した。だが、おいしは首を左右にふった。
「いやです」
 声は静かだった。
 短刀の刃が、そっとおいしの細い首に押し当てられる。美典の目と、おいしの目が合った。しかし、おいしの目は美典を見ているようで、その向こうの何かを見ていた。
 刃が、すうっと滑る。おいしの首が大きく切り裂かれた。
「が、ハッ……げほ、」
 おいしの首から血が噴き出し、口からもおびただしい血が溢れる。くるしそうに、おいしは首に両手をあてた。しかし、血は止まらない。くぐもった苦しそうな声は、血のあぶくに混ざって消えてしまう。
 おいしの体がくずおれた。ゼイゼイとまだ息をしている。美典は、おいしをこれ以上苦しめないことにした。
 美しく整えられたおいしの白髪交じりの髪をつかみ、顔を持ち上げる。そして、短刀を大きく振りかぶり、その首に後ろから振り下ろした。
 研ぎ澄まされた刃が、おいしの骨ごと首を両断した。頭から離された体が、がくんと床に崩れ落ちる。その首から、滝のようにドクドクと血が溢れ落ちた。
 美典は、おいしの首を持って立ち上がった。その首には、美典が愛してやまなかった人の顔がある。
「どうしてこうなってしまったのだろうな」
 美典は、もう何も言わなくなった首に向かってそう言った。首は何も答えない。
 美典は、おいしの体の前に首をそっと置いた。それから、自分の首にも短刀を滑らせた。

Ende