絶対零度の仮面
その1

「おお、地獄の復讐がわが心に煮え繰りかえる」
 ヒロインに比べれば若干シンプルなドレスをまとった婦人が、スポットライトに照らされ、舞台の上に浮かび上がる。夢見る乙女の歳をとうに過ぎたと分かる中年女性の声は低く、その怨嗟は地獄の底から響いているように思われた。客席の温度は一気に冷え込んだように感じられ、観客たちが氷結地獄を幻視する。
 膝をついて項垂れていた彼女がゆっくりと頭をあげ、暗く影になっていたその顔の半分が光に照らされた。彼女が頭を動かすと、側面に垂れた髪も揺れる。若く美しい魔性のヒロインを夫が見初め、罪のない彼女と子供が捨てられたとわかったとき、彼女は頭をかきむしり、結い上げていた長い髪を解いてしまったのだ。
 それだけでも恐ろしいのに、暗いまま見えないはずの目が赤くギラリと輝き、観客はざわめいた。
「死と絶望がわが身を焼き尽くす」
 質量をもった憎悪が彼女から噴き出し、前列の観客たちを包む。何もありはしないのに、窒息しそうになる息苦しさを彼らはおぼえた。静かな低い声は、そう大きく拡声された訳でもないのに、会場の隅々にまでハッキリ聞こえる。
「聞け、復讐の神々よ、わが呪いを聞くがいい!」
 雷鳴が響き、背景に稲妻が輝く。これは流石に舞台の演出であった。
『おれは以前、この憎悪を浴びた覚えがある』
 特別ボックス席に座り、すっかり演技に引き込まれながらラインハルトは考えていた。
***
「卿これだったろう」
 掲げたパンフレットを指さしつつ、ラインハルトが尋ねた。整った指先は、サブキャラクターとして小さな写真が載る『復讐に身を焦がす妻エレナ』を指している。
 公演後の夕食をラインハルトと共にして、彼を挟んで向かいに座ったオーベルシュタインが頷いた。
「左様です。さすがは陛下」
 暇を持て余し、興味もない古典バレエやら詩の朗読会へ参加するようになったラインハルトを、「それほどお暇でしたら如何ですか」とこの舞台公演にオーベルシュタインが招待した。
 皇帝を迎えられるような立派な劇団ではないが、軍務尚書自身が昔から軍務の合間をぬって出演しており、今回も演じるという。オーベルシュタインの意外な一面を垣間見、ラインハルトは並々ならぬ興味をもった。
「何の役をやるのか」と尋ねると、「ご覧になって当ててみてください」とオーベルシュタインは挑戦してきた。パンフレットには芸名が記載されており、オーベルシュタインと分かる名前はない。
 ラインハルトは受けて立った。
「卿の面接に立ち会っていなければ分からなかったかもしれん。エレナの憎悪は、元帥府に初めて卿がやってきたとき、卿が私の前で発したものとそっくりだった。しかし、見事に化けるものだな」
 ひらひらとパンフレットを揺らし、オーベルシュタインにニヤリと目を細めてみせる。
 今思えば、エレナは確かに随分背が高かった。声も、そういえば聞き慣れたオーベルシュタインのものと酷似している。しかし、公演中は確かに『女』そのもので、低い声は年嵩の女性のものと聞こえ、長髪のかつらもドレスも全く違和感がなかった。
「女の格好にまったく違和感がなかった。声もそのままだというのに」
「化粧のおかげですな。声については、口調で随分印象を変えられます」
「よく女役をやるのか?」
「一度、この類いの女を上手くやりすぎてしまったようで。脚本や監督にはこういった役が好まれるわりに、女優たちは清く美しく愛らしい役をやりたがります。おかげで、こういう役が全部こちらに」
「ははは! 確かに名演だった。憎悪することにかけては、帝国で卿の右に出る者はおるまい」
 ラインハルトが皮肉っぽく褒めると、「お褒めにあずかり光栄です」とだけオーベルシュタインは応じた。
「卿にこんな趣味があったとは、意外だった」
「舞台の上では、自分以外の人生を生きることができますからな。よい息抜きになります」
「なるほどな。面白かった。別の演目をやるとき、また教えよ」
「御意」
 内密に答え合わせをするため、レストランの個室に二人きりで彼らは食事をとっていた。ラインハルトは、ロイエンタールを実は伴っていたのだが、オーベルシュタインの件は秘密だったので先に帰していた。
 皇帝と別れ、帰宅の途についていたロイエンタールは、ラインハルトの誘いとあって仕方なく観ただけのはずだった舞台の余韻に浸っていた。
『うらぎられたエレナ……憎悪を抱き、復讐の業火で自らを焼く、美しいエレナ……』
 エレナのキャラクターは、歪んだ女性観を持つロイエンタールの性癖に深く深く突き刺さっていた。憎き軍務尚書がその演者などとは想像だにせず、金銀妖瞳の元帥は、舞台の上の女性に恋に落ちてしまったのである。
***
 ある日の公演のあと、立派なバラの花束とラブレターを差し入れ係から渡され、オーベルシュタインは驚いて僅かに両の眉を上げた。自分宛に差し入れが届いたのは初めてである。
 その差出人の名前を見ると、さすがのオーベルシュタインも驚愕を外ににじませた。とてもよく知っている人物だったからだ。
 オスカー・フォン・ロイエンタールからの花束に罠はなく、手紙にも、ひたすら熱烈な賞賛と愛が綴られているだけだった。本気か、それとも、気づいた上での嫌がらせか、あるいは罠か。
 いずれにせよ、返事は書けなかった。まったく関わりない人物相手なら喜んで書いたが、ロイエンタールは軍務尚書の筆跡を知っている。ラインハルトなら良いが、提督たちの誰にも自分の趣味――演劇は良いとしても、女の役をやることはあまり知られたくない。
 すると、次の公演でも、その次の公演でも、贈り物と熱烈なラブレターが差し入れられた。手紙には、『劇団の方に伺いました。本業が別にあるとのことで、お忙しい身なのでしょうね。ですが、たった一言でいいのです、貴女のお返事を頂戴できませんか』とやや脅迫的な文面が混ざるようになってきた。
 調べてみると、ロイエンタールは全公演のSS席をずっと買っており、誰かと二人――おそらくミッターマイヤーと隣席で買ったことも一度あったようだが、基本的には一人でずっと観に来ていることがわかった。
『これは、本気かもしれんな』
 オーベルシュタインは心中で呟いた。まあ、エレナは舞台にしか居ない幻の女だ。どうせ公演期間中しか存在しないのだから、その間だけでも恋を楽しむとよかろう。
 彼は劇団に頼み、販売していないエレナのブロマイドをひとつ作って貰った。それに、一言メッセージとサインを他の女性団員に書いて貰い、ロイエンタールへ返送することにした。
***
「ああ、早くエレナに会いたいものだ」
「卿は近頃、その女にすっかり夢中だな。今夜も観劇か?」
「もちろん。彼女は回を追う毎に美しくなる。1回だって見逃せんよ」
 皇帝と三元帥の御前会議の休憩時、ロイエンタールとミッターマイヤーの両元帥はそのように雑談していた。ロイエンタールは金銀妖瞳を輝かせ、メッセージとサイン入りのブロマイドを嬉しそうに眺めている。
 贈り物は喜んで貰えたらしいな、とオーベルシュタインは心の中で呟いた。
 正体を知るラインハルトは、さっきから笑いだしそうなのを堪えて震えていた。オーベルシュタインが(不敬にも)ギロリとひと睨みすると、ラインハルトの笑いは収まったようだった。
「公演のあと、食事の約束を取り付けたいのだがな。出待ちしても一度だって彼女が出てきたことはない」
 出待ちしていたのか。本業で顔を知られているので、念のため別の出口から出入りしていることが幸いした。
「しかし、彼女は素顔を明かさないのだろう? 夢を壊さないためにも、舞台裏の彼女は見ない方がよいのではないか」
 ミッターマイヤーがそう言うと、ロイエンタールは激昂して机を叩いた。
「彼女の素顔がどんなものでも、おれは彼女を愛せる!」
 寒気をおぼえたオーベルシュタインが震えた。ラインハルトは「ん゛っ」と声をあげてしまい、慌てて咳き込んだフリをして誤魔化した。
 さいわい、ロイエンタールは気にしなかった。
「ミッターマイヤー。おれはな、女にこれほど燃えたのは初めてなんだ。寝ても覚めても、あの人が頭に浮かぶ。おれは真剣なんだ」
 オーベルシュタインは顔面蒼白になっていた。ラインハルトは俯いてぷるぷる震えていた。
「そうか……。なら、何も言わん。正直、おれにはエレナの魅力は分からんかったが、卿にとって理想の女性なのだろう」
「うむ。だが、どうすればいい? 楽屋に花や手紙を贈ってはいるのだが反応はあまり良くないし、舞台の上以外で彼女を見つけられん」
「ふうむ……。いっそ、バックヤードに突っ込んでしまうか、それか、劇団のスポンサーとして然るべき金額を積み、エレナ役の女性に紹介してもらってはどうだ?」
 余計なことを提案するな……! オーベルシュタインは心中でミッターマイヤーを責めたが、それを口に出すわけにもいかなかった。
 ロイエンタールは、パッと目を輝かせた。
「そうだな! 名案だ、さすがは我が友。芸術に金を出すのは権力者の義務だ。女を買うような真似はしたくないが、せめて食事くらいさせて貰ってもバチは当たるまい」
 そのとき、ラインハルトが軽やかに席を立ち、風のように駆けて会議室を飛び出していった。皇帝が急に退室したことに驚き、双璧はあっけにとられた。
「どうなされたのだ?」
「陛下は体調が優れないようだ。実は、私も気分が悪い。申し訳ないが、続きはまた後日の会議に持ち越すということでよろしいだろうか」
 そう告げてきた軍務尚書の顔はいつにも増して蒼白で、彼をよく思わないミッターマイヤーの目から見ても具合が悪そうだった。
「そのようだな。承知した」
「早めに帰ってゆっくり休まれよ、軍務尚書。さすれば、軍務省の者たちも息抜きできるだろう」
 ロイエンタールの皮肉にさしたる反応を返さず、オーベルシュタインは会議室を出た。
 引き受けた役を投げ出す訳にはいかないが、次回からの公演が憂鬱になってきた。
 通路を歩いていると、別室からラインハルトの爆笑が響いた。
***
「ああ……美しいエレナ。こうしてお会いできることが夢のようです」
 夢見心地のロイエンタール元帥が、ディナーの席ごしに『エレナ』を見つめる。
「光栄です。ロイエンタール提督」
 エレナ役の女優カルラを装ったオーベルシュタインは、女優カルラを演じつつ応じた。即興劇≪エチュード≫が不得手ではないことが幸いしていた。
 会議から間もなく、ロイエンタールは元帥に支給される年俸のほんの一部、とはいえ貧しい劇団には莫大な金額を寄付してきた。その代わり、エレナと食事させて欲しいと言ってきたのである。
 団長は金額に目をくらませ、「女優のふりをして、ほんの少し食事をしてすぐ帰ってくれたら構わないから」とオーベルシュタインに依頼してきた。
 自分も同じだけ貰っているので同額を寄付してもよかったのだが、寄付はいつもしているし、そんな理由で金を出すのは気にいらない。何より、ここで断った所で次の強行策に出てくるだろうことは明白である。エレナからオーベルシュタインへ戻りかけた状態のとき、バックヤードに突入をかけられでもしたら目も当てられない。
 オーベルシュタインは、本職でもない自分を舞台に出してくれている団長の恩義も鑑み、ロイエンタール提督とのデートに赴くことを決めた。
「いや、失礼、カルラどの。素顔も舞台のエレナそのものだったもので、つい『エレナ』とお呼びしてしまいます」
 照れて顔をそむけながらロイエンタールが言う。
 だろうな、エレナ風の化粧をわざわざしてきたのだから。本当に素顔なら、卿は目の前にいても気づかんぞ。
 ただし、貴族のエレナそのものの格好ではなく、庶民らしいストレートのセミロングかつらと、素朴な既製品ふうデザインの衣服でオーベルシュタインは装っていた。女優は普通、身分の低い女性か、没落した下級貴族の出身である。
 本物の女優であったなら、これは、パトロンを得る絶好の機会であっただろう。だが、間違っても食事より先には進ませず、かつ、円満に冷めていただかねば。
「お気になさらないで。エレナをこんなに好きになってくださる方が居られて、嬉しいですわ」
「ええ、ええ! それはもう。全公演、貴女を観ていますとも」
「それに、素敵なバラにお手紙をどうもありがとうございます。差し入れなんて初めて頂いて、本当に嬉しかったですわ。でも、舞台の他にも仕事をしておりまして、忙しくて……。お返事を差し上げられなくて、申し訳ありません」
「いえ、いいのです。劇団の方にお聞きしましたから。また、いくらでも差し上げます」
「わたし、お芝居をするのが昔から好きなのですけれど、それだけでは食べていけなくて。ほら、この程度の顔ですから」
「そんな! 貴女の内面からにじむ美しさは、おれが知る他のどんな女にも勝っています」
 ロイエンタールが、料理にナイフを入れるカルラの右手に自身の手を重ねて触れてきた。とっさに払いのけず、表情も変えなかった自分を、オーベルシュタインは内心で賞賛した。
 軍務尚書として接する普段の彼を思うと、彼に見えている内面とは何なのか疑問だ。
「貴女が生活に困っているのなら、おれが貴女の援助をします」
 ロイエンタールが真剣な眼差しで言ってくる。
 不味い流れになってきたな。持ち上げるのはもういいだろう。そろそろ、自分の印象を下げにかかるか。
 オーベルシュタインは、女優カルラとして微笑んで見せた。
「まあ。それは、身に余る光栄ですわ。でもわたし、もう40近い歳ですの。女優を続けても、そろそろ老婆の役になりますわ」
「おれも33ですから、丁度よいくらいです。大人の女のほうが好きですよ。不自由にはさせませんから」
 切り札を使ったつもりだったが、ロイエンタールが全く動じず、オーベルシュタインは若干面食らった。エレナは30前後の役だし、実年齢を明かしたらパトロンの話が立ち消えになった女優も劇団にはいる。彼は、女の賞味期限だとかを大真面目に話す側の男だろうから、年齢の話をすれば退くと期待していたのだが……。
「それに、今は化粧をしていますけれど、素顔は本当に見れたものではなくて」
「おれは、貴女がどんな素顔をしていても愛せる自信があります」
 いっそもう正体をバラして反応をみるか、とオーベルシュタインは一瞬考えたが、万が一にも相手の言が本当だったら……と考え、やめた。
「……その、実はわたし、元帥閣下の御前で猫を被っているだけで、性格も良くないんですのよ。周囲の人に、言動や行動についてよく陰口を言われます」
「いえ。己の汚い感情を堂々とさらけ出す、あのエレナのような女性がおれはいいのです。ええ、芝居の役に過ぎないことは分かっていますが、舞台の上であのように振る舞える方は、普段から同じように本性を堂々と現わしている方だと思います。おれは、そういう女性をこそ好いています。どんなに大人しく綺麗に見える女でも、とりつくろった我が身に醜い欲望を隠し持っているに違いありません。普通の男にはそれが分からんのです」
 色々と言いたいことはあるが、とりあえず、この男の歪んだ女性観にエレナがぴったりはまったらしいことは理解できた。
 しかし、こまった。もうネタが思いつかん。既婚だと嘘をつくか? 子供がいると言ってみるか? いや。ロイエンタール提督のことだ。嬉々として不倫や再婚を申し出てくる様が目に浮かぶ。それに、登場人物が増える嘘は避けたほうがよい。
 何より、女優カルラになりきっている自分の心の一部が、ロイエンタールの熱烈な口説き落としに揺さぶられつつあった。無理もない。もし自分が本当に40前の売れない女優だったら、若く有能な美丈夫かつ、帝国元帥の地位にある彼の誘いを断ろうはずがない。
 一時撤退したほうがよいだろう。
「……ごめんなさい。わたしには、その、元帥閣下にご支援頂く資格があるとは思えません」
「そんなことは、」
「それに、閣下はわたしのことをよく観て下さっているけれど、わたしは閣下と初めてお会いします。閣下のことをよく存じ上げませんし、その……わたし、人見知りが激しいのです。どうか、考える時間を頂けませんか」
 その言葉には、さすがのロイエンタールもハッとしたようだった。
「これは……大変に失礼しました。まったく、その通りですな。おれとしたことが、貴女とお話できた嬉しさのあまり、つい先走ってしまって」
「いいえ。お会いできて良かったですわ、閣下。すみません、ちょっと今日は疲れておりまして。これで失礼いたします」
「わかりました。また、会っていただけますか?」
「ええ、きっと」
「約束ですよ」
 食べかけの料理をそのままに、カルラはそそくさと席を立った。
 正体がバレないようにすることばかりに重きをおき、ロイエンタールに諦めさせる作戦のツメが甘かった。どうせ次回もあるだろうし、今度は作戦を立てねばなるまい。
 そのように算段をつけつつ店を出たあと、不意に後ろから手首をつかまれ、カルラに扮したオーベルシュタインがビクリと飛び上がった。振り向くと、ロイエンタールがつかんでいる。
「申し訳ない。だが、最後にひとつだけ」
「なんでしょう」
「おれのことを貴女が調べれば、おれが、女性を取っ替え引っ替えにしているとわかるでしょう。ですが、誓って、それらの女性は、向こうから来た者を拒まなかっただけであって、複数をかけもったこともないし、貴女は別です。おれは、これほど女性に恋い焦がれたことがありません。それだけは覚えておいてください」
 そう言い残すと、ロイエンタールはようやく『エレナ』を解放した。
 やっと解放されたオーベルシュタインは、ロイエンタールの視線を背中に感じつつ、
『あるいは、女性ではないからこそか?』
 などと考えていた。
***
「いかがでした、ロイエンタール提督とのデートは」
 目を輝かせ、さも面白そうに聞いてきたフェルナーに、オーベルシュタインは眼光一閃で応じた。ヒャッと悲鳴を漏らし、「申し訳ありません」と部下は慌てて謝罪した。
 ふん、と鼻息ひとつで応じ、オーベルシュタインは目の光を和らげた。
「冷めて貰うことに失敗した。40間近と言えば退くと思ったのだが」
「年齢を気にするのは、女慣れしていない男でしょう。閣下は魅力的でいらっしゃいますからな、本当に素顔を明かしても、あるいは提督は退かぬかもしれません」
 フェルナーの言い分の後半を完全には否定できず、軍務尚書は眉をよせて小さく呻いた。
「なおのこと、正体を明かす訳にはいかん」
「それにしても、ベタ惚れですな」
「どうやって諦めさせればよいものか……」
 ロイエンタールと同等か、彼に勝る他の男がいると分かれば諦めるだろうか?
 オーベルシュタインはふと、すぐ近くの机にいる官房長官の顔を見やった。
「そういえば、卿の顔はそう悪くないな」
「おや、ようやく小官の魅力にお気づきですか」
「卿の矜持が許すなら、そして、私用の依頼になるが、協力して貰えないか」
 察しのよい部下は、それだけで何を頼まれているか理解した。ニヤッと笑みを浮かべ、右手をあげて敬礼を返しつつ快諾する。
「ンフフッ。お任せ下さい。実に面白そうです」
「……快諾はありがたいが、真面目に頼む」
「はい♡」
***
 カルラを迎えるため、劇団員出口へ急ぎやってきたロイエンタールは、目の前の光景に少なからずショックを受けた。
 カルラが別の軍人と腕を組み、親しげな様子で帰路についている。しかも、忌々しいことに、カルラを引き連れている男は准将という十分高い地位にあり、顔もいずれ劣らぬ美形であった。二人は時折視線を交わしあい、ロイエンタールに気づかぬ様子で歩いて行く。
 ロイエンタールは、その場に立ち尽くして呆然としていた。
 勿論、二人はロイエンタール提督に気づいていた。むしろ、ロイエンタールが来るタイミングを見計らってスタンバイしていた。
『目標、こちらを確認。立ち止まってショックを受けている模様』
『僥倖だ。次の角を左に曲がり、五百メートル先の右手にあるパブへ入る。そこでしばし恋仲を演じ、提督が去ったら退店する』
『了解』
 カルラに扮したオーベルシュタインと、いつも通りのフェルナーが小声で囁き交わす。パブに入店した二人は、バーの隅っこの2席を陣取った。フェルナーは、恋人同士の雑談を演じつつ、器用にスマホを操作し、街頭監視カメラを通じてロイエンタールの様子をうかがった。
「この間撮ってくれた写真?」
 カルラはそう言いつつ、一緒にロイエンタールの様子を覗き込んだ。
「良く撮れてるだろ?」
「ええ。貴方、撮り方がうまいわ」
「被写体がいいのさ」
「ふふっ。……あっ、今日のおすすめを2つ頂ける?」
 他人に覗き込まれる心配のない位置に座り、自然に会話し注文する彼らの姿は、誰がどう見ても男女の恋人たちに見えた。
 なかなか上手いな、とオーベルシュタインは感心していた。まさか、男の上官と一緒にいるとは誰も想像できまい。
「ほら、この間の稽古」
「まあ……」
 運ばれてきた酒とお通しを口に運びつつ、二人はロイエンタールの動向を見守った。
 ロイエンタールは、しばらく立ち尽くしたままだった。よほどショックが大きかったのだろうか。食事にいったのは明らかに劇団の指示からだろうし、彼をパトロンとすることに難色を示していたので、不自然でも不義理でもないはずだが……。かなり強い想いをこじらせていたようだし、女にフられた経験がなさそうだから、慣れていないのかもしれない。
 すると、ロイエンタールは突如、決然と歩み始めた。二人に緊張が走る。帰ってくれるならば大成功だが、このルートの先にはパブがあるので、まだ油断できない。
 恐れていた事態が起きた。パブの近くまで彼が来たため、念のためフェルナーはスマホを閉じた。カルラを笑顔で見つめるフリをしつつ、パブの窓の外をみやる。ロイエンタールが外におり、こちらを食い入るように見つめていた。
『外から見られています』
 緊迫感を顔には出さず、他の人間にきこえぬようボソボソとフェルナーが報告した。
『恋人とはっきり分かるよう振る舞って見せろ』
『はい』
 指示をうけたフェルナーは、不意にカルラの首に手を回し、軽くだが相手に口づけた。
「んっ……」
 突然の行動だったが、オーベルシュタイン(カルラ)は顔を背けたり拒んだりする様子をいっさい見せなかった。ただ、ロイエンタールの角度からは見えない目元の冷ややかさで
『誰がそこまでやれと言った』
 と、訴えかけていた。フェルナーはというと、いたずらっぽいウインクで応じるのみだった。
『だって、これ以上はないでしょう?』
 そう言わんばかりである。
 しかし、真にせまった彼らの演技にもよらず、絶望を予告するように入り口のドアベルがチリンチリンと軽快な音をたてた。フェルナーの両目がぎょっと見開かれ、そちらを見ていないオーベルシュタインにも『ロイエンタールが入ってきた』と分かった。
 最悪だ、ここまでしたというのに。一体何をするつもりだ?
「マスター、ウイスキーをロックで一杯」
「あいよ」
 カウンターに寄り、立ったままロイエンタールが注文する声が聞こえる。
「……ねえ、何か食べる?」
「……あ、ああ。そうだな。チップスでも食べるか」
 気づいていないフリをしていたが、演技達者な二人の声もさすがに強ばっていた。
 隣に座って話しかけてくる? 何を話しかけるつもりだろう? 劇団への寄付を匂わせてくるか、それとも、カルラを強引に連れ出そうとするか。
 すると、二人とも想定しなかったことに、ロイエンタールは唐突に二人の間に割って入り、まるでフェルナーなど居ないかのような態度でカルラと向かい合った。二人とも目に見えて面食らったが、たとえ演技でなくとも、こんなことをされたら面食らいもするだろう。
「こんばんは、カルラさん」
「……こ、こんばんは、ロイエンタール提督」
「良い夜ですな。本日の公演も素晴らしかった」
「それは……その、どうもありがとうございます」
「すみません、元帥閣下。彼女は小官と飲んでいたのですが?」
 背中を向けられたフェルナーが刺々しい声で言った。突然侮辱された怒りの声は、演技するまでもなく真に彼が感じるところであった。
「おや。これはこれは、軍務省官房長官殿。気づきませんでした」
 肩越しに見やりながらロイエンタールが応じる。ピクリ、とフェルナーの目元が震えた。
 くそったれ、なんて図々しい野郎だ。
「閣下。わたし、今晩彼と約束していたんです。すみませんが、」
「カルラさん。軍人でもない貴女が把握していなくとも何ら不思議はありませんが、准将と元帥では、間に少将・中将・大将・上級大将があり、その地位も権力も大きく異なります。彼は確かに見栄えも悪くないですし、この若さで彼も『閣下』と呼ばれる身分ではあります。元帥の上には、我らが皇帝の他にありません。どうです? おれを選ぶ方が豊かに暮らせますし、ベッドでも決して貴女を失望は」
 その続きを、ロイエンタールは口に出せなかった。頬をしたたかに叩かれたためである。パブに鋭く平手打ちの音が鳴り響き、にぎやかだったパブは静まりかえった。
「わたしは娼婦じゃありません、女優です。……売れない年増の女優なんて、貴方のような地位の方には、娼婦と同じでしょうけれど、……」
 怒りを抑えた女性の震え声は、オーベルシュタインはよく芝居で発するものだった。震える肩も、今にも泣きそうな響きも、正体を知るフェルナーすら信じさせるほどに名演技であった。
「馬鹿にしないで! お金や権力で選んだわけじゃないわ」
 そう怒り心頭の声で言い放つと、カルラは目を拭いながらパブを飛び出していった。
 ロイエンタールが呆然としている隙に、後ろでフェルナーも多めの紙幣をカウンターに置き、これ幸いとカルラに続いてパブを出て行った。「カルラ!」と叫ぶ演技も忘れない。
 パブを出た二人は、あらかじめ脱出ポイントと定めていた路地裏で落ち合った。そこで、ハウプトマンが待機していた。彼が、オーベルシュタインの服とメイク落とし道具とを『カルラ』に差し出す。通路の反対側では、送迎用の車も用意されていた。
 着替えて化粧を落とし、『オーベルシュタイン』に戻ってから三人で車に乗り込み、ようやく一仕事おえた彼は盛大に溜め息をついた。
「もううんざりだ。二度とごめんだ。信じられん、提督のしつこさは予想以上だった。頼むから二度と言い寄らないでもらいたい」
「提督はともかく、恋人ごっこ、小官は楽しかったですな。またやりませんか?」
 殺気に満ちた目でギロリと睨みつけられ、「冗談です」とフェルナーは諦めた。
***
 あの後、ロイエンタール提督はしばらく落ち込んでいるようだった。劇団への連絡もなくなった。残りの公演チケットも購入済みだったが、舞台からは客席の顔が判別できないため、はたして来ていたのかどうかは定かではない。
 そうして、無事に公演は千秋楽を迎え、オーベルシュタインは晴れて『エレナ』を終えることができた。彼はしばらく間をおき、再び公演に出してもらうときには別の芸名を使い、ロイエンタールに見つからぬよう心がけた。
 もともと演劇を観ていた訳ではないそうだし、もう放っておいて貰えるだろう。
 そう思っていた。
「カルラさん! やはり貴女でしたか! 芸名が違っていましたが、きっと貴女に違いないと思いました。先日の件をどうか謝らせて下さい。貴女に焦がれるあまり必死になってしまったのです。ところで、しばらく准将に会っておられぬように見受けますが、その後も彼と続いているのですか? おれの想いは変わっておりません」
 バックヤードまで突っ込んできて絡むロイエンタールを見て、舞台化粧(女性役)のままだったオーベルシュタインは気が遠くなった。

Ende