絶対零度の仮面
その2

 ようやく楽屋から闖入者が連れ出され、化粧を落とすことのできたオーベルシュタインは、げんなり青ざめた自分の鏡像ともども重く溜め息を吐いた。
「なぜバレた……?」
 突撃してきたロイエンタールから『こまります』の一点張りで顔を背け続けていたところ、理解ある女優たち(※常日頃から似たような熱狂ファンに悩まされている人々)が庇ってくれ、なんとか提督を追い出すことに成功した。だが、果たして次も逃げ切れるかどうか。
(潮時か……?)
 そのようにも思い始めていた。ここいらで引退すべしという、天の思し召しなのかもしれない。
 だが、かれこれ十数年、忙しくなってからは練習を一人で行ってまで続けてきた趣味だ。客の心に突き刺さる生々しい怨嗟が監督や脚本家にも好評で、お呼びの声を公演の都度かけてもらっている。手放すのは惜しい思いがあるし、何より、これは立派なストレス解消法だ。失えば、軍務にも支障をきたすかもしれない。
(ロイエンタール提督を何とかしなくては……)

      ***

「おお、オーベルシュタイン。新しい演目もよかったぞ」
「お褒めにあずかり光栄にございます」
「ああ、そうだ。ロイエンタールは来たか?」
 ラインハルトがそう発した瞬間、オーベルシュタインは彼の胸ぐらを掴​――むことは思いとどまり、代わりに身を乗り出した。
「提督に何をおっしゃいました?」
「ん?『以前エレナをやっていた女優をもう一度観たい』と言うので、卿から聞いた演目を教えたが?」
 オーベルシュタインから、どす黒いオーラがほとばしった。さすがのラインハルトも面食らい、わずかに身を引く。
「え。な、なんだ?」
「ほう。さすがは陛下、よい度胸をなさっておられます。臣に、喧嘩を売られるとは……」
「えっ」
「よろしいでしょう。次は、暇つぶしに『陰謀戦』を嗜まれる、ということですな。陛下の敵手にふさわしいよう、臣も、全身全霊をもってお応えを」
「待て待て。すまん、悪かった。それほど嫌とは知らなかった」
 面食らったラインハルトがそう言うと、いまに執務室を覆い尽くさんとしていた黒いオーラが立ち消えた。ラインハルトがほうっと息をつく。
「これはご無礼を。そうでございましたな」
 あのしつこいロイエンタールにどれほど手を焼かされたか、その顛末を知っているのは、自分と、協力した直属の部下たちだけである。自分の知らぬ間に皇帝へ報告されるはずもない。
「言っておくがな、正体については明かしておらぬぞ」
「ええ。それは勿論、存じております」
「何かあったのか?」
 ラインハルトに問いかけられ、オーベルシュタインは、念のため事の顛末をラインハルトにも伝えておくことにした。
 話の間、ラインハルトは何度も笑いを抑えきれなくなり、ヒーヒーと呼吸困難に陥りつつ、顔を伏せ腹を抱え金の髪を震わせながら話を聞いていた。
 オーベルシュタインは、帝国すべてを支える重責を担う彼を笑顔にできるならまあ良いと考え、受け流した。
「くくく……あははは……そうか、そうか。それは苦労したな。ック……! ふふふふ」
「何か案がございましたら賜りたく存じます。劇団にも迷惑がかかりますゆえ」
「ンンッ。……そうだな。予としても、卿の働きで、演劇なるものへの造詣が深まってきたところだ」
 ラインハルトは、かたちのいい白い指を顎にあて、ふうむと斜め上に蒼氷色の目を向けて思案した。
「そうだ。主演級、ないし助演級の役を次にやる、というのはどうだ?」
「はあ。なにゆえに」
「そのレベルになれば、熱狂的なファンが他にもつくかもしれん。さすれば、卿にも劇団にも『他のファンをないがしろにしたくない』という言い訳ができる」
「はあ……。しかし、ロイエンタール提督ほどの人物となれば、身分のはっきりした有名人で、寄付金を積むことも惜しみません。単なるファンとは質が異なりましょう」
「まあ、それはそうだ。しかしだ、オーベルシュタイン、こういう話もある――とある、たいして歌のうまくない、特別に取り柄のないオペラ歌手の女性がいた。彼女には、中程度の貴族のパトロンが一人だけついており、少ない稼ぎを彼の支援で賄っていた。
 はじめは目立たなかった彼女も、実践を積んでいくと、徐々に取り立てられるようになってきた。プリマドンナとはいかずとも、仕事に困らなくなり、そして、パトロンの数も徐々に増えていった。
 すると、かつて唯一の支援者だった男は、急にパトロンを止めてしまった。事情を聞いてみると、『私だけが君を支えていると思ったから、今まで応援することができたのだ』という」
「つまり、ある種の『独占欲』によって彼は支援をしていた、と?」
「そのようだ。まあ、だからといって、歌手に危害を加えたわけでもなし、勝手な逆恨みをする人間が多いことを考えれば、そう悪い人間でもないが」
「して、ロイエンタール提督も同じようになると?」
「恋人がいると知って諦めぬところは厄介だが、他のファンと同等に扱われれば、気持ちも萎えるだろう」
 オーベルシュタインの顔色は、執務室に入る前より明るくなった。とはいえ、前も後もそれほど変わらないが。
「その策を試そうと思います。さすがは陛下、お見事な作戦にございます」
 オーベルシュタインが深々と頭を下げる。彼の世辞には大抵心が入っていないが、今日の言葉には本心が感じられた。ラインハルトがふふんと得意げに胸を張る。
「よい。楽しませて貰った礼だ」
「ありがたく頂戴奉ります。……それにしても、陛下の深いご理解に臣は敬服いたしました。もしや、演劇のご経験がおありでしたか」
 興味本位に尋ねてみる。彫刻のように完璧な美形の顔と、光り輝く豪奢な金髪の彼が舞台に立てば、たとえ台詞が一切なくとも客が舞台に釘付けになることだろう。
「ある意味では、な。ファンの性質ならよく心得ている」
 ふぁさ……と、豪奢な金髪を掻き上げつつ、ラインハルトはそれだけ答えた。オーベルシュタインは、それ以上の追求をしなかった。

      ***

 劇団監督に相談してみると、オーベルシュタインの予想より色よい返事があった。
「それはいい! ぜひ頼みます。実は、いつもの脚本さんが、パウルさんが演じるタイプをメインキャラにおいた話をやりたいと言ってまして。でも、パウルさんが出世されてしまって、忙しいだろうと思って頼めなかったんです」
 そのように話は進み、オーベルシュタインは、次回公演にて助演役を受けることとなった。

      ***

「おお……!」
 幕があがると同時にロイエンタールが感嘆の声をもらす。舞台には、彼の執心してやまない『エレナ』――だった、女優カルラが演じる今作女性役が開幕シーンより登場していた。観客たちが一斉に拍手し、ロイエンタールも割れんばかりの拍手を惜しみなく送る。
 その横で、ミッターマイヤーも気のない拍手を送っていた。『エレナが初めてメインキャストをやる舞台が上演されるから絶対に来いチケットと酒と飯を奢るから来い』と親友に熱心に誘われ、またこの劇場へ足を運ばざるを得なくなったのである。
 彼を夢中にして止まない女優を、あらためてSS客席より眺める。けっして不美人という訳ではないが、ここから見ても背の高すぎる女だと感じるし、ロイエンタールにとって魅力的な点――生々しい情念だとか怨嗟だとか――は、ミッターマイヤーにとって欠点に見えた。
(やはり、おれには、この女のどこがいいか分からんな)
 カルラの役所は、やはり『怨念なまなましい女性』であった。以前までは1,2シーンで表現されていたものを、今回は作品全部を通して表現され、ヒロインとの対立として描かれている。怒り憎み騙し、最期には、ヒロインにも観客にも深い爪痕を残す末期の呪詛を吐きかけて敗れ、死んでいく。
(相変わらず、ろくな役所ではないな。お気に入りがこの扱いで、さぞ不満なのではないか)
 そう思いつつミッターマイヤーが横を見ると、ロイエンタールは顔を興奮に輝かせて歓喜していた。閉幕後、アンコールで『エレナ』が登場すると、誰よりも激しい拍手で惜しみなく賞賛を送る。
(ううむ。親しくなって随分たつが、こいつの女の趣味はやはり理解できん……)
 誰よりも親しいはずの友人を見つつ、ミッターマイヤーは改めてそうと認識した。

      ***

 男性役より高い背丈を誤魔化すため、立ち位置に段差をつけ、相対差をわかりにくくする。いつもは一人練習で本番直前まで済ませていたが、合わせ練習を幾つか増やし、メインキャストとして遜色ないよう整える。それらを軍務と平行するため、さすがのオーベルシュタインといえど疲労しはじめていた。
 しかし、彼はやってのけた。それも、とてもよくやってのけた。
「パウルさん。見て下さい、すごいですよ!」
 差し入れ係がそう声をあげる。何人かで協力して運んできたものは、いくつもの手紙と花束と贈り物の群れであった。差出人は、ロイエンタールだけではない。
『引き込まれる演技に感銘を受けました。どうして今まで埋もれていたのか分からないくらいです』
『あなたの○○が大好きです!』
『最高の演技でした。惚れました』
『ファンになりました』
 手紙には、好意的なメッセージが幾つもあった。作戦の成否はまだ不明ではあったが、普段鉄面皮の彼もつい嬉しくなり、口の端が上がりそうになっていた。
「パウルさん、大変好評でしたよ! この分なら、その――『熱狂ファンを増やして、ロイエンタール提督にはご遠慮いただく作戦』?――上手くいくんじゃないですか?」
 監督も太鼓判をおす。オーベルシュタインが頷き返した。
「そうだといいです」
 嬉しそうに笑っていた監督は、ふいに顔を強ばらせた。
「ですがいよいよ、『実は男』だってのは隠し通さなきゃならなくなりましたね」
 その言葉に、オーベルシュタインも少々身を強ばらせた。

      ***

「――で、どうであった」
 執務室の机で優雅に頬杖をつき、麗しき皇帝が楽しそうに尋ねる。目の前の軍務尚書の顔は、相手ほど明るくはなかった。
「ファンクラブの会長として、ますます活動を活発化させているそうです」
「ん゛っっ」
 ラインハルトがゴツンと頭を机にぶつける。突っ伏したまま彼が小刻みに震え始めたが、それは痛みによる震えではなく、こらえきれない笑いによるものであった。
「……まあ、デートに誘われにくくはなりましたが」
「ふふっ……! く、く……そうか、そうか。なら、作戦目標は概ね達成か?」
「次回もまた主要な役をと言われておりまして……このままですと、本業務に支障が出かねませぬが」
「おもしろいので許す。そちらに注力せよ」
 ラインハルトから無慈悲な勅命が下りる。これで、オーベルシュタインに選択肢はなくなった。
「……おそれながら、陛下。こうなることが分かっていたのではありますまいな」
「なんだ、今頃気づいたのか。卿にしては鈍いではないか」
 その瞬間、執務室の気温がガクンと落ちた。にわかに寒気をおぼえ、ラインハルトが目を上げる。
 オーベルシュタインが、見たことの無い表情をしていた。
「すまん、冗談だ。予想外だった。……おい。冗談だと言っている」

      ***

「閣下。ツ○ッター経由で『まだ付き合っているのか』『カルラ様と別れろ』と、ファンクラブから小官のアカウントへリプ殺到しているのですが、なんとお応えしましょう? 『もう別れた』と『カルラならおれの横で寝てるよ』のどっちがいいですか?」
「好きにすればよい」
 やや自暴自棄な口調で、オーベルシュタインは部下に吐き捨てた。

Ende