絶対零度の仮面
あらたな女優編
その1

 劇団長は目を輝かせた。それは、例えるなら獲物を見つけた飢える鷹のような目であった。
 団長は駆けた。ふくよかな体を凄まじい速さで揺らし、人好きのする穏やかな顔には猛禽めいた形相を浮かべ、猛然と駆けた。駆け寄られた者たちは、いずれも常なら周囲に恐れを抱かせる人間であったが、このときの団長の勢いに気圧され後ずさった。
 団長が目標の両肩をがっしと捕らえる。団長のギラギラとした両目が、困惑の色味をおびた蒼氷色の両目を真正面から捉える。
「キミ! 次回の演目に出てくれないか!? 頼む! 謝礼は言い値で出す! 演技が面倒なら、突っ立っているだけでもいい!」
 ラインハルトは、目をパチクリとさせた。細く繊細な指先をゆっくりと持ち上げて自分に向け、ポカンとした口調で答える。
「…………おれ??」
 彼と共にいたオーベルシュタインは低く呻きをあげ、眉間に手を当てた。またも、頭痛のタネが増えることになりそうだった。
      *
 それは現公演期間の中ごろ、オーベルシュタインら劇団員たちが本番に慣れた頃のことであった。オーベルシュタインが衣装を脱ぎ、メイクを落として帰る支度をしていると、他の劇団員に声をかけられた。
「パウルさーん」
「うん?」
「なんか、会いたいって人が来ててぇ」
「ロイエンタール提督なら追い返しておいてくれ」
「や、ちがくてぇ。うちのエース俳優よりかなーり美人な、超っ絶綺麗な男の子でぇ、白い肌に金髪の……」
 そこまで聞くと、半分化粧を残したままオーベルシュタインはガタと化粧台から立ち上がり、足早に準備室を出て行った。

 関係者入り口の手前に、人気役者たちへの贈り物の花束やフラワースタンドに背景を飾られ、美形を見慣れたスタッフたちすら二度見三度見していく二十代前半の美青年が一人で立っている。元々貧乏貴族であったことが功を奏してか、お忍び衣装はそう悪くない。だが致命的に絶望的に、一度見たら忘れられない煌びやかな容姿がまったく彼を忍ばせなかった。
 急ぎ足でやってきたオーベルシュタインを、ラインハルトは悪びれもせず出迎えた。
「おお! オーベルシュタイン。よかった、まだ……」
「せめて髪を隠してください」
「え?」
 カジュアルな格好のラインハルトの腕をがっしと掴み、オーベルシュタインは彼をスタッフエリアにぐいぐいと引き込んでいく。ラインハルトは「なんだなんだ」と困惑しながらも大人しく引きずられていった。人気のない空き部屋まで連行される間にも、ラインハルトは道ゆくスタッフや役者たちに二度見三度見され、「あの綺麗な子は誰!?」と数回ささやかれた。
 空き部屋に辿り着くと、オーベルシュタインは扉に鍵をかけて閉めた。さらに、誰の気配も側にないことも耳をつけて確認する。
「……護衛をいちいち呼びつけるのも面倒なので、今日はお忍びで来てみたのだが。何かあったのか?」
 ラインハルトが首を傾げる。はああああ、と、オーベルシュタインが盛大に溜め息をついた。
「まあ」
『貴方が元凶だ』という言葉は飲み込んだ。
「それで、どうなさいました?」
 気を取り直してラインハルトに尋ねる。リラックスした主君の様子から察するに、緊急事態ではなさそうだった。
「うむ、お前の演技をまた観ようと思って来た。差し入れに410年物を置いておいたぞ、劇団仲間とでも開けるといい」
「はあ。恐れ入ります」
「それにしても、初めて差し入れ置き場を見たが、色々な贈り物が山と積まれているな! 待っている間、お前宛てのを数えていた。かわらず人気じゃないか」
「ええ。それで、陛下はなぜお越しに」
「いや、別に。『良かったぞ』と軽く声をかけていこうと思っただけだ。『髪を隠せ』とはなんだ?」
 ラインハルトが、丸出しの金髪をキラキラ輝かせ掻き上げながら不思議そうに応じる。はあああ、と、オーベルシュタインがまた溜め息をついた。
「……よろしいですか、陛下。陛下が望まれる望まれないによらず、陛下のご容姿は臣と違い、きわめて特徴的であるばかりか、一度みたら簡単に忘れられないものです。臣を呼びに来た者は、幸い、皇帝陛下のご尊顔とはすぐ分からなかったものの、特徴を伝え聞いただけで臣には陛下と分かりました。特に、その金髪は非常に目立ちます。服装はよろしいと思いますが、御髪をお隠しください。ウィッグでも帽子でも頭巾でも構いませんから」
「むう。そうか……」
 サラサラ、と長く伸ばした髪を手で梳きつつ、ラインハルトが応じる。
「まあ、そもそもお忍びをお止めください。危険です」
「……次にやるときは髪を隠すようにする」
 ラインハルトがそういたずらっぽく答えると、オーベルシュタインは無言で眉を寄せ、反論を示した。しかし、嫌々ながらこの譲歩を受け入れることにした。いつも玉座と王宮に収まり、護衛をぞろぞろと連れるような生活を彼が好まぬことは、オーベルシュタインも承知するところである。
 オーベルシュタインは、礼儀正しく頭を下げた。
「……わざわざのお越し、ありがとうございました。護衛を呼びますゆえ、どうぞお気をつけてお帰りください」
「わかった。ところでお前、化粧が半分ついたままだぞ」
『誰のせいだ』という言葉を、今度もオーベルシュタインは飲み込んだ。

 護衛に連絡をつけたあと、到着時間に合わせ、ラインハルトとオーベルシュタインは部屋を出た。オーベルシュタインが先をゆき、左右を確認しながら主君を先導していく。「敵地かなにかか」とラインハルトが後ろで笑い、「似たようなものです」とオーベルシュタインは応じた。
 その頃には、ほとんどのスタッフや役者が帰宅していた、またはアフターに出たため、舞台裏に人はいなくなっていた。オーベルシュタインは安堵しつつ、外で待っているはずの護衛と車までラインハルトを送り届けようとした。
 そのときであった。
「あ、パウルさん! お疲れ様です。まだ帰ってなかっ……」
 言葉が途切れる。それは聞き慣れた、オーベルシュタインが昔から世話になっている壮年の劇団長の声であった。
 オーベルシュタインは嫌な予感をおぼえた。振り返って声の主を見ると、それが間違いでなかったことに気付かされた。
 劇団長が突進してくる。まさか皇帝だとは露知らず、ラインハルトに向かって。
      *
「キミ! 次の公演期間に出そうかどうしようか悩んでいた演目に登場する、黄金神シヴのイメージにピッタリなんだ! 頼む! むしろ、キミでなければならない!」
 劇団長がその場に膝をつき、ラインハルトの手を握って捧げ持ち、頭を深く下げる。ラインハルトはすっかり困惑した様子で団長とオーベルシュタインを交互に見やった。オーベルシュタインはまだ額を押さえていた。
「……団長。その。彼は……」
「おお! 紹介もなくすまなかったね!」
 手を離して団長が立ち上がり、シャツの裾を引っ張り整える。
「私は劇団長のフランク・フラウエンロープ。キミは、パウルさんの親戚か何かかな?」
「ええとおれ、いや、私は……」
 ラインハルトがキョロキョロと周りを見回しながら答えようとする。すると、代わりにオーベルシュタインが応じた。
「彼は、私の本業の『同僚』で……」
『同僚』という言葉を強調しつつ、オーベルシュタインはラインハルトをチラリと見やった。ラインハルトが意図を察し、コクリと頷く。
「……『レイナード』、といいます」
「はじめまして」
 オーベルシュタインがラインハルトから団長に目を移しつつ偽名を答え、ラインハルトは団長に頭を下げた。
「へえ! 同僚というと、軍の?」
「ええ」
「随分お若いですな」
「彼は優秀ですから。しかし、休みの過ごし方に困っているようだったので、よければここの劇を観ないかと」
「なるほど! ありがたいねえ。しかしレイナードさん、驚きませんでしたか? パウルさんが女性役をしていて」
 ラインハルトは硬い愛想笑いを浮かべた。
「そうですね。しかし、性別はともかく、彼らしい役柄だと思いました」
「そうでしたか! ……どうです? レイナードさんも舞台に立ってみませんか?」
 団長が目を怪しく輝かせて尋ねる。オーベルシュタインは小さくうめいた。
(皇帝だと気づかれていないのは幸いだが、さすがに舞台など……まあ、陛下がお断りになれば問題は……)
 オーベルシュタインがラインハルトを見やる。その瞳の輝きを見て、オーベルシュタインは頭を抱えた。
「やる。……じゃなかった、やります」
「おお! ありがとう、ありがとう!」
 劇団長はすっかり感激し、ラインハルトと、ついでにオーベルシュタインも事務室へ引っ張り込んだ。
 公演日程、練習場所や詳しい演目内容について一気に説明され、オーベルシュタイン経由でラインハルトへ連絡できるようにすると決まったのち、二人はスタッフエリアから出てきた。外では、なかなか出てこない二人を心配する護衛たちが待っていた。
 出てきた二人は、一方は目を輝かせて台本をめくりながら、他方は精根つきはてた顔をしながら歩いていた。
「どうするおつもりですか」
 オーベルシュタインがジロリと横目で主君を見やりつつ尋ねた。
「決まっておろう。出る。約束したからな。卿とて、あの御仁を失望させたくはあるまい?」
 はああああ、とオーベルシュタインが溜め息をつく。
「知りませんぞ、ロイエンタール提督のような人間に執着されても」
 恨みがましく去り際のラインハルトにそうオーベルシュタインが告げる。だが、ラインハルトはフフンと不敵に笑うだけであった。
      *
「……なんっだ、あの『女』は!」
 レイナードを名乗るラインハルトが出ることとなった次回の演目が公開され、その初日公演を観たロイエンタールは、自宅に着くなりテーブルにパンフレットを叩きつけながら叫んだ。そこには、本公演のメインキャストが華やかに映し出されている。
 それは、足元まで豊かに伸びる金髪をなびかせ、きよらかな白い布を纏い、さらにヴェールを両腕でかかげた、美しき黄金神シヴの舞台写真であった。
「こんなポッと出の、舞台経験ナシでセリフも歌もない女優が主役だと!? 許せん! 今度こそ主役はエレナ、いやカルラだと思っていたのに! この女、顔はいいが突っ立っているだけではないか! ……まあ所作は優雅と言ってもいいが……しかし、演技の熟練度はエレ…カルラの足元にも及ぶまい」
 ブツブツと文句を言いながら、ロイエンタールが自宅のリビングをグルグルと歩き回る。苛立ち紛れに安いワインを一本開け、グラスに注いでガブガブと飲み干した。
「……うぷ。くそ。『レイナ』め。さては団長と寝たな? 貴様を舞台から追い出してくれる、エレナのために……」
      *
「なぜ陛下まで女優のフリを……」
「面白そうだったのでな。正体を隠すにも都合がよいし、違和感もあるまい?」
 ラインハルトは本名を『レイナード』と偽り、さらに芸名としては『レイナ』を名乗ることとなっていた。

つづく