絶対零度の仮面
あらたな女優編
その2

「いいよイイヨいいよぉ! かがやいてる! スポットライトを浴びるキミがむしろ光源ッ! 後光さしてる! 神がかっている、いやむしろキミが神! 神降ろししてるよぉ!」
 観客席から舞台を見上げる団長兼監督が、すっかり興奮して歓声をあげる。
 舞台中央には、今作の主役級・黄金神シヴを務めるレイナード――と偽名を名乗る、ラインハルトが立っていた。周囲には、今日練習するシーンに出演する役者たちと、舞台演出スタッフなどが並ぶ。彼らは今、本番用舞台ホールを使っての練習に励んでいた。
 黄金神シヴに扮したラインハルトは、地毛に似た色で、足元までに及ぶ長さの豊かな金髪のウィッグをつけ、古代ギリシャ風の白く豊かなヒダを持つゆったりとした服を着ていた。アクセントに緑のツタも頭にまきつけ、豊穣に関わるシヴのイメージを表現している。その上から半透明のヴェールを被り、両手で肩に巻き付けた状態でシヴは登場する。そして、神に拝謁する定命のものたちに顔を見せるとき、そのヴェールを外すのだ。
 シヴを演じるラインハルトは口をきかない。表情もほとんど動かさない。ただ出てきて、人間役の役者たちが滔々と話すのを見つめ、その後はフイと顔を背けて去って行く。次の出番はフィナーレだ。数々の試練を超えた人々の祈りを聞き、シヴが恵みを授ける。このときも、ラインハルトはしゃべらない。超然とした態度で高台から見下ろし、ゆったりと両腕を広げる。すると、舞台装置が演出効果を発して「恵み」を表現し、人々に救いが訪れる。人々は喜び歌い舞い踊る。シヴはやはり、無言のままフイと背を向けて去って行く。
 たったそれだけだが、ラインハルトの存在感や威厳、ただならぬ者であると思わせるオーラは隠しようのないものである。観客の千や万を前にしたところで態度がかわるはずもない。しいて言えば、演技経験の乏しい彼はラインハルト以外の何者にも成れないが、ラインハルトらしい神々しさこそ、今作で団長が黄金神シヴに求めていたものであった。
 ラインハルトは、黄金神シヴの格好をして、シヴの台本通りに動いたが、基本的にラインハルトのままであった。しかしそれだけで十分、彼は舞台を引き立たせる存在に成り仰せ、中性的な美しさは歴戦の花形女優すらも圧倒していた。
      *
「おつかれさまでした! 休憩はいってくださーい!」
「ふぅ……」
 ラインハルトは額をぬぐい、ヴェールを化粧室のハンガーにかけた。ウィッグを外してマネキンの上に乗せ、ギリシア風の白い衣装をたくしあげながら休憩スペースへ向かう。
 飲み物を受け取って席に向かうと、彼は、おなじく休憩中のオーベルシュタイン――今作の村女Eの役の格好をしている――を見つけ、向かいに座った。
「調子はどうだ?」
 ラインハルトが尋ねる。すると、オーベルシュタインはジトッ……と見つめ返してきた。化粧を落としておらず、その姿はまだ村女のままであるのに、苛立った顔つきはオーベルシュタインそのものである。ラインハルトはクスリと笑った。
「なんだ?」
「……御髪、」
 オーベルシュタインが、ラインハルトの剥き出しの金髪を指差す。正体を隠したければ髪を隠すよう彼は申し出ていた。
「舞台に立つときはウィッグをつけている」
「同じ色では意味がありますまい」
「仕方がないであろう。監督たっての指定なのだから」
 くい、と白い顎を背後の団長兼監督へ向けつつ、ラインハルトはいたずらっぽく笑って言った。オーベルシュタインがフン、と不満そうに息を吐く。
「ばれるようなら、さすがに安全のためお辞め頂きます」
「わかっておる。なあに、存外わからんものさ。実際、劇団の皆は気づいておらぬしな」
 そのとき、劇団員の女性たちが傍を通り過ぎた。彼女たちは『期待の新人レイナード』を見ると、一様に顔を赤らめ、照れくさそうに「お疲れ様」と口々に声をかけてきた。ラインハルトが美しい愛想笑いを浮かべて挨拶を返すと、女性たちは益々顔を赤くし、逃げるように去って行く。
「おれも社交的になったものだ」
 ラインハルトは得意げに言って笑う。一方、オーベルシュタインは、ラインハルトほど楽観的な思考にはなれない様子であった。
 ふと、ラインハルトは、オーベルシュタインの手元に目をとめた。そこには、数枚のブロマイド写真が並べられている。ラインハルトに見覚えのあるものであった。
 それもそのはずで、そこに映っていたものは、他ならぬ彼自身――が黄金神シヴに扮し、販売用ブロマイド向けにポーズをとった姿であった。
「それ、……買ったのか?」
「購入いたしました」
「てっきり、お前はいやがっているとばかり」
「それはそれ、これはこれと申します」
 それを聞いてラインハルトは噴き出し、カラカラと笑った。
      *
 ある日の御前会議休憩での出来事であった。
「なあ、これを見ろワーレン。この『黄金神シヴ』なるもの、陛下に似ておらんか?」
 よく響くビッテンフェルトの声がそう発するのを聞いた瞬間、ラインハルトは『んぐっ』とくぐもった声をあげた。あと数秒はやければ、喉をうるおすために口にしたミネラルウォーターを吹き出していたところである。
 ラインハルトが声のするほうを見やると、ビッテンフェルトがパンフレットのようなものを取り出し、机に広げて同僚たちに示していた。それを、ワーレンやミュラー、メックリンガーなどが覗き込んでいる。
「ほお。確かにそうだな。美人に見えるが……これは、男か? 女か?」
「役者の名前が『レイナ』とあるから、女優だろう。これは金髪のカツラだろうが、しかし面立ちがよく似ていると思わんか?」
「ええ。似ていますな」ミュラーが頷く。
「なんと美しい。陛下にも劣らぬ、生ける芸術と言うべき女性ですな」
 メックリンガーはホウ、と溜め息をつきながらパンフレットを取り上げ、そのトップを飾る『黄金神シヴ』をまじまじと眺めた。
「これほどの逸材を知らずにいたとは盲点でした。いったい何処の劇場です?」
「あまり大きなところじゃない。郊外にある、中ぐらいの規模の劇場でやっているらしい。おれもまた観たわけではないのだ。部下たちと飲んでいて、偶然ポスターを見つけてなあ」
「観てみたいですな。どんな女性なのでしょう」
「そうだ。卿ら、今度の休みは空いているか? どうやら公演はまだやっているようだし、生で観てこようじゃないか」
「いいですね」「ふむ、たしか空いています」
「おお! そうだな、行こう!」
 ビッテンフェルトが喜び応じる。それからふと、彼は神妙な表情を一瞬うかべると、パンフレットをメックリンガーから取り返した。くるりと身を返し向かった先は、ラインハルトの座る席である。
「陛下。つつしんで申し上げます」
 ビッテンフェルトが深々と礼をしつつ、うやうやしくそう声をかけた。
「おそれながら、よろしければ我々と共にこの劇を観に参りませんか? 以前お誘い頂いた古典バレエは、残念ながら小官の教養が至らず良さが分かりませんでしたが、今度こそ、陛下と共に楽しめたらと愚考する次第にございます」
 ビッテンフェルトがスッとパンフレットを差し出す。そこには、ラインハルトが余りにもよく知っている代表舞台写真――いくつかのリテイクを繰り返し、OKをもらった自分の『黄金神シヴ』が映っている。
 ラインハルトは、なんとか引きつった笑顔を浮かべて誤魔化した。
「あ、ああ。別に気にしなくともよい。むしろ、卿の趣味をわきまえず迷惑をかけたな」
「もったいないお言葉。しかし、このくらいの大衆劇であれば……」
「すまん。せっかくの誘いだが、予にはしばらく空きがなくてな。皆で行って、感想をぜひ教えてくれ」
 ラインハルトがそう応じると、ビッテンフェルトはしゅん、と、捨てられた子犬のように肩を落とした。
「そうでございますか……。承知しました。このビッテンフェルト、小官の説明だけで舞台をありありと思い描けるほど、些細な報告をしてご覧に入れます」
 ビッテンフェルトがドンと胸を叩いて下がる。
(よく知っているので、気にしなくてもいいのだが……)
 そう思うラインハルトであったが、当然のことながら口をつぐんだ。

 ラインハルトがオーベルシュタインに泣きついたのは、その日の御前会議が済んだ後、二人きりになってからのことだった。
「どうしたらいいと思う、オーベルシュタイン」
「どうもこうも、お好きになさってください」
 オーベルシュタインはどうでもよさそうに応じる。ラインハルトは顔を覆って机につっぷした。