獣人ビッテン
動物学者と獣人の話
その2

 人間が嫌いだ。
 私は生まれつき身体に障害を抱えていた。それだけでなく、母親は精神に障害を持っていた。そんな母に嫌気がさし、父親はとっくに居なくなっており、母親は自らのすべての不幸の責任を私に求めた。それが悪質な八つ当たりであると理解するためには、長年の成長を要した。
 私にとって家族といえる存在は、飼っていた犬だけだった。私が泣いていれば慰めてくれた。彼の存在だけが救いだった。
 だが、その家族は突然奪われた。寿命は勿論ちがうが、それでもまだ何年も一緒に居られたはずだった。見知らぬ街のゴロツキどもが彼を殺してしまったのだ。
 殺された理由はわかっていない。優しい犬だから吠えたりしないし、噛み付いたり引っ掻いたりも決してしなかった。敷地から出た訳でもなく、遺体も庭で発見された。家に押し入られた訳でもないから、奴らは強盗目的でもなかったらしい。
 まあ、興味もなかったからどうでもいい。『殺した』という事実さえ分かれば、私には十分だ。私は幼く弱い少年に過ぎなかったが、それでも、あらゆる手段を尽くして十分に準備し、さらに不意をつけば、多少厄介な相手であっても報復ができないことはなかった。
 大切な家族が殺されたということ以上に深く心に刻まれた出来事は、その後の裁判でのことだ。息子の不出来を嘆くあの女のことはどうでもいい、責任転嫁も理不尽な批判もいつものことだ。それよりも、仮にも裁判官という職にある人物から発せられた台詞が印象に残っている。
「それでは君は、たかが犬が殺された程度のことで、このような凄惨な事件を起こしたのか?」
 裁判所の人間すべてが母親同様、理解できないおぞましい化け物に見えるようになった。
 それから私は一切の証言と返答をやめ、会話をあきらめた。犬ならまだ人語を解する知恵があったが、化け物との会話など馬鹿げた試みだ。
 その後、どういう流れになったのか理解できなかったが、私は少年院ではなく病院へ幽閉された。素敵な場所ではなかったが、母親ぬきで衣食住が保障されるだけでも十分に有難かった。それに、訳の分からないことを喚く同居人たちは、外の人間達よりよほど人の実態を体現していて、まともなフリをしている輩よりもむしろ好感をもてた。
 患者として暮らしていたある日、頭の中に花畑がある類の金持ちがやってきて、病院じゅうの少年少女らにテストを課した。優秀な者がいれば養子に迎えるといった。私はどうやら高得点を叩き出したらしい。比較的快適だった病院暮らしはそこで終わり、私は養父母の元に引き取られた。
 二人の頭には常にお花畑があるようで、意識のズレに苦しむこともあったが、常に不機嫌な精神病の母親が居る暮らしに比べれば、二人との暮らしは楽園といってもよかった。あの二人のお陰で、多少は人間に好感を持てるようになった。
 彼らのバックアップを経て、私は大学、大学院へと進み、博士号を得て動物学者になることができた。
 相変わらず、人間と人間の見分けよりは猿と猿の見分けの方がつくため、講義は今でも苦手だ。学生の顔をまるで覚えられない。だが、堂々と動物たちの飼育に日々を費やせるし、不幸な動物たちを人間から守る仕事は向こうから舞い込んでくる。
 最後の研究では、虎獣人のビッテンフェルトと過ごした。彼を無事に故郷へ帰すことができた。
 犬の二の舞にしないで済んで、本当に良かった。

***

「ビッテンフェルト、私はそろそろ帰るよ。お前も群れに帰りなさい」
 久方ぶりの再会のハグをたっぷり交わしたあと、オーベルシュタインは優しく諭した。じきに迎えがくる。この様子を見られたら、もしかすると獣人に襲われていると勘違いされるかもしれない。
『ファーターはここで暮らさないの?』
「ああ。ここには、お前にひと目会いたくて来たから、水も食料もほとんど持ってきていない。町に戻らなくては」
 オーベルシュタインがそう言うと、ビッテンフェルトはむっと顔をしかめた。動物学者の養父は困ったように笑った。甘やかしすぎてしまったのか、彼には少々聞き分けのないところがある。
 しばらくすると、ビッテンフェルトは名案を思いついた顔をした。
『ファーター、おれと一緒に群れで暮らそう』
「えっ」
 まさかそんな提案をされるとは思っておらず、オーベルシュタインは冷や汗をかいた。側に居てやりたいのは山々だし、虎獣人の群れで暮らせるなどまたとない研究にはなろうが、問題は『そんなことはできそうにない』ということだ。
「待て。群れの皆が嫌がるだろう」
『大丈夫』
「だめだ。人間と虎獣人は一緒に暮らせないんだ、ビッテンフェルト」
『おれはファーターと一緒にいたじゃないか』
 もっともな言い分にどう返そうか考えあぐねていると、あっという間にオーベルシュタインは細い体を屈強な虎獣人に担ぎ上げられてしまい、瞬く間に森の中へ運ばれ始めた。
「待て、ビッテンフェルト! やめなさい、戻りなさい」
『やーだー』
 ずんずんと森の中へ進んでいく。養父は何度も説得を試みたが、効果はなかった。
 ふと気づくと、人間の足では到底踏破できないような森林の奥深くまで連れ去られ、出口はどっちか分からなくなっていた。ホームグラウンドに帰ったビッテンフェルトの足は恐ろしく速い。
「どうしたものか……」
 動物学者が呻く。獰猛な動物にでも襲われようものなら勿論のこと、草木で手足を切っただけでも慣れない菌に感染し、そのまま病気で死ぬかも知れない。
 彼の為なら命だって惜しくはないが、彼のせいで自分が死んだように思わせてしまうことは避けたかった。
「頼むよ、ぼうや」
 弱々しく頼んだが、やはりビッテンフェルトは歩みを止めなかった。
『着いたよ』
 ビッテンフェルトが言い、ようやく彼は養父を地面に降ろした。よろけながらなんとか立ち、辺りに肉食獣の独特の匂いが立ち込めていることに気づく。目の前には、おそらくほとんどの人類がお目にかかれない、虎獣人たちのコロニーがあった。
 小さな子供も何人か見えたが、彼の姿をみるとパッと逃げ出し、巣穴とおぼしき虚の中へ隠れてしまった。大人の虎獣人たちがぞろり出てきて、こちらを睨んでいる。当然だが、警戒されているようだ。
「皆嫌そうだぞ」
『みんな分かってくれる』
「分かってくれなかったら、あの家まで連れて帰ってくれよ?」
『分かってくれる』
 かたくなにビッテンフェルトが言い張る。そして、立ち塞がるように養父の前に立つと、群れの者たちと何やら会話しはじめた。さすがに、オーベルシュタインにとっても虎獣人語は理解の範疇外にあった。
 言い争いはしばらく続いた。代表で抗議していた野生の虎獣人だけでなく、他の成人した雄たちも騒ぎ始めた。それでもビッテンフェルトは果敢に唸り返しており、その迫力に時折相手が怯んでいた。
 しばらくして会話が止んだ。獣人たちが各々の住処に散っていく。オーベルシュタインは嫌な予感がした。
「……なんだって?」
『いいって』
 最悪だ。まあ、そんな気はしていたが……。
 十分に食事を与えられ、適度に運動もさせて育てたビッテンフェルトはひときわ身体が大きく、さらに狩りや戦闘のセンスも抜群に良かったようで、野生育ちの群れの者と比べ、彼は力強く見栄えがいい。これは何も、我が子可愛さでそう見えている訳ではないだろう。
 そして、大きくて強い個体は、大抵の社会で強い権限を持っている。恐らく、この群れにおけるビッテンフェルトの権限はかなり強い。もっと素直に喜べる場面でそうと知れれば良かったのだが。
『おれの寝床ひろいよ。ファーターまた一緒に寝ようね』
 無邪気にそう言うビッテンフェルトに、動物学者はとりあえず従うしかなかった。
 根気強く説得するしかない。学者は、とりあえずそう考えておくことにした。

***

『ここが泉。綺麗な水がのめる』
 ビッテンフェルトが教えてくれた湧き水の出処を見ると、たしかに文句なしの清流だった。しかし、いくら綺麗に見えても実際には細菌がいることは多く、飲むなら煮沸のうえ茶葉を浸して安全を期さねばならないだろう。
『ここゴミ捨てるところ』
 やや落ちくぼんだ場所に、食べた残りカスとおぼしき動物の骨が大量に落ちている。ほう、とオーベルシュタインが感嘆の声をあげる。
 まるで原始の人間だ。そういえばゴミは落ちておらず、寝床周辺は綺麗だった。とはいえ、ここにプラスチック等の廃棄物を捨てる訳にもいかないだろう。
『ここで仲間と狩りの話する』
 点在する獣人たちの寝床の中央くらいに位置する広い場所だ。村の広場のように使っているのか、とオーベルシュタインは感心した。
『はい』
 ある所で、赤黒い物体を渡された。骨付きの動物の肉だ。オーベルシュタインはなんとか顔をしかめるのを堪えた。
『おれがとった!』
 ふふんとビッテンフェルトが胸を張る。見ると、元はウシ類の大きい獣だったと思しき動物の残骸が転がっており、幾人かの獣人がそのご相伴に預かっていた。
「すごいな」
 群れで大きな役割を果たしているらしい我が子を誇った言葉は本心だったが、問題は、こんな生肉を自分は食べられないことだ。焼いても食えるかどうか。
『……食べないの?』
 ビッテンフェルトが悲しそうな声をあげる。養父はちくりと胸が痛むのを感じた。無理を承知で一口くらいは齧ってやりたいところだが、それで腹を下して死ぬようなことになれば、もっと酷いことになる。
「すまない。その……あまり食欲がないんだ」
 申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、肉をそのままビッテンフェルトに返す。
『そっか……』
 ビッテンフェルトがそれを齧った。
「人間は肉をそのままじゃ食べられないんだ。火に炙ったりしないと……。ほら、ソテーにしたりシチューにしたりして私は食べていただろう?」
 オーベルシュタインが説明する。正確には生で食べられない訳ではないが、そこまでの解説はビッテンフェルトには分かりにくいだろう。
 ビッテンフェルトは記憶をたぐるように首をかしげ、どうやら合点がいったらしかった。
『じゃあ、どうしたらファーターに食べさせてあげられるの』
「まず、火をおこさないとな」
『火はどうしたらおきる?』
「……燃料が欲しいな」
『どこにある?』
「さっきのテントに少し残っている。緑色のやつだ」
 希望を感じてそう言ってみるも、結果は芳しくなかった。
『わかった!』
 ビッテンフェルトはそう言うと、パッと駆け出して群れから離れていった。あとにはオーベルシュタインだけが残されてしまい、慣れない野生の獣人たちに白い目をされながら心細く待った。幸い、彼らはビッテンフェルトに義理立てしているらしく、今のうちに学者を排除するような真似には出なかった。
 養父を担いでいないビッテンフェルトのスピードは凄まじく、彼はまもなく往復して帰ってきた。
『わかんなかったから全部持ってきた』
 そう言うと、広げていた物資もすべて詰め、チャックまで丁寧に閉めてくれたらしいバックパックを渡してきた。こんなに森に適応してはいるが、人類の道具の使い方はきっちり覚えているらしい。
「……ありがとう」
 まあいい。燃料が必要なことと、それが無くなったということを示せば、少しは説得も進むかもしれない。
 オーベルシュタインは、ビッテンフェルトによく見えるよう、木の枝を拾ってきて組み上げて見せた。それから周りに石を並べ、燃料を添えてマッチで火をつけた。ものすごく顔を近づけるビッテンフェルトを「あついぞ」と押し戻し、火が大きくなるのを待つ。
 調理に十分な大きさになると、獣人たちが集まってきた。明るいので何事かと思ったのだろう。彼らが少々騒ぎ出したが、ビッテンフェルトが宥めるように声をあげ返した。すると静かになった。
 彼らには山火事のほうが馴染み深いだろう。悪いことをしたな、とオーベルシュタインは考えた。
「肉をくれるか?」
 オーベルシュタインが言うと、ビッテンフェルトは嬉しそうに獲物をよこしてきた。それを学者は枝に刺し、火の上にくべる。まもなく焼き色がつき、湯気をあげるそれを息で冷ましつつ、オーベルシュタインはようやく口をつけた。
「おいしいよ」
 やっと褒めてやると、ビッテンフェルトは顔全体を破顔して笑った。養父もホッとした。
「食べるか?」
 炙った肉をひとつ差し出すと、ビッテンフェルトは真似して息を吹きかけ齧った。
『やわらかい。おいしい』
「そうだな、噛みちぎりやすくなる」
『すごい』
「そうか」
 ビッテンフェルトが食べているのを見て、群れの者達はにわかに興味を示したようだった。近づいてきた群れの個体に、ビッテンフェルトは焼いた肉を分けてやった。どうやら、強いだけで支持を得ている訳ではないらしい。養父は嬉しそうに微笑んだ。
「火をおこすには燃料がいる。でも、これももうないんだ」
 ひとしきり炙り肉をつくって群れに分け与え、火が消えたあと、オーベルシュタインは切り出した。
「だから私は何も食べられなくなる。ちゃんと戻るから、これを取りに町へ戻らせてくれ」
 ビッテンフェルトが押し黙る。すっかり疑われてしまったようだ。無理もないか。
「今度は必ず戻るから」
 ビッテンフェルトは動かない。
「……わかった。お詫びにここで飢えて死ねばいいんだな? 結構。ついでに群れの皆で食べれば食料に」
『向こうにつれてく!』
 養父が皮肉ってみると、ビッテンフェルトはようやくそう言った。
 オーベルシュタインは嘘をついた訳ではなかった。ここで暮らすための物資を集め、また戻る。いい研究がまたできそうだった。

***

『私が彼らに話しかけて注意をそらす』
 オーベルシュタインが群れの者に説明した。発音に自信がないため、身振り手振りも加える。彼らを注意深く観察し、時折ビッテンフェルトにも教えて貰い、虎獣人言語をある程度解するようになっていた。
『君たちは後ろに回り込み、私の合図で一斉にかかれ。小さいからと侮るな、奴らは銃を持っている。すぐに仕留めろ。首を狙うといい』
 トントン、とオーベルシュタインが自分の首をたたく。獣人たちは同意の吠え声をあげた。
 ビッテンフェルトだけが渋い顔をしていた。
『ファーター』
「どうした?」
『本当にやるの?』
「ああ」
 動物学者は短く答えた。
『……話しかけて、帰ってもらうのは?』
「不可能だ」
 オーベルシュタインがキッパリと答える。会話はそれきりだった。

「助けてくれ」
 オーベルシュタインは両手をあげ、わざと情けない声をあげて茂みから出てきた。銃口を向けていた狩猟隊は銃を下ろした。現地民ではない、文明レベルの高そうな人間だ。
「よかった。人に会えるなんて。調査隊とはぐれて、森に迷い込んでしまって」
「あんた、研究者か? こんなところまで物好きだな」
「もうダメかと……頼む。助けてくれ。謝礼なら、大学から十分でるはずだ」
 それを聞き、無法者の密猟者たちはにわかに興味を引かれたようだった。虎獣人はすばしっこくて中々捕まらないし、汚くない出処で多額の謝礼はなかなかに魅力がある。
「水。水をくれないか? たのむ」
「水か? いいとも」
 密猟者の一人が前に出てきた。残りもこちらに注目している。獣人たちが音もなく位置についたのをチラリと見やり、オーベルシュタインは手で合図を送った。密猟者が首を傾げる。
「なんだ?」
 振り向いた瞬間、彼は呼吸できずにゴボゴボと音を立てた。
 密猟者たちが、装備のない首から血を噴き出す。だが一人だけ無事な者がいた。ビッテンフェルトが担当した人間は押し倒されただけで、まだ生きていた。
「何をしている、早くやれ!」
 オーベルシュタインが鋭く言うも、ビッテンフェルトはまだためらっている。
「野郎!」
 密猟者はなんとか片腕を自由にし、腰からナイフを取り出そうとした。その瞬間、彼の頭が吹き飛んだ。
 目の前で人間の頭が吹き飛び、ビッテンフェルトは驚いた。ばっと前を見ると、オーベルシュタインの手から煙が上がっている。しくじった者が万一いれば対応できるよう、彼は拳銃を一丁持ってきていた。
 彼は、ビッテンフェルトが見たことのない恐ろしい目をしていた。
「何をもたもたしていた? お前が死んでいたかも知れないんだぞ」
 迷わず自身の同族を殺した学者が厳しく叱りつける。ビッテンフェルトがびくりと震えた。
『ごめんなさい』
 他の獣人たちが集まってきた。
『どうした、ビッテンフェルト』
『仕留め損なうなんてらしくない』
 彼らも口々に言う。ビッテンフェルトはうつむいた。
『おれは……』
「いや、いい。お前は悪くない」
 不意にオーベルシュタインが表情をやわらげ、首を横にふった。
「お前は優しい子だからな。お前はおかしくない……。彼らもな」
 周りの獣人たちを示しつつ養父は言った。
「おかしいのは私だけだ」
 そう言った彼の声は悲しげだった。
 ビッテンフェルトは、養父が人間であるゆえに人間を殺すことをためらったのである。一方、人間である自分は……。

***

 ある日、オーベルシュタインは水鏡をじっと見ていた。そのまま動かないので、ビッテンフェルトは不思議に思って近づいた。
『ファーター、どうしたの』
 ややあって養父は答えた。
「どれほど人間を憎んでいても、私は人間以外の何ものでもないのだな、と思っていた」
 養父は水鏡を見つめたままだった。ビッテンフェルトも隣に立ち、一緒にそこを覗き込む。
「何が見える」
『ファーターとおれがいる』
「そう。人間と虎獣人」
『ファーターとおれだよ』
 オーベルシュタインが視線を獣人の養子へ向ける。彼は少し微笑んでいた。
「そうだな」

Ende