目が見えないオーベルシュタインの話
その1

 コン、コン、カランカランカラン、コン、コン…

 靴がたてる音に比べると少々大きく、白杖はくじょうが石畳を打つ音、弧を描くように転がる音を響かせ、軍務省の正面玄関へとオーベルシュタイン軍務尚書が出勤してきた。彼の頭をみると、両目を覆い隠すようにぐるりと何重かの白い包帯が巻き付けられている。石畳を打つ音は、彼の居場所を周りに知らせ、目が見える者に配慮を願うためのものであり、弧を描くように転がす動作は、前方に障害物のないことを確認するためのものである。
 彼は最近、義眼の洗浄液を替えたのだが、どうやら体質に合わなかったらしく、眼窩に炎症をきたしてしまった。愛用の光コンピューターが搭載された義眼は、2週間の間着用できないとの医者の通告を受けた。今彼の眼窩に入っているのは、少量の軟膏のみである。

 軍務尚書の姿をみた衛兵たちは、すぐに直立敬礼の姿勢をとった。しかし、ふとその行動の意味がないのでは、と思い、お互いに姿勢を保ったまま視線だけをチラリと通わせる。だが、敬礼する手が空を切るかすかな音や、足を揃えるときの靴音を聞きつけたのか、オーベルシュタインは立ち止まり、包帯に両目を覆われた頭で衛兵たちに軽く頷いて見せた。
 正面玄関から入った先には、IDカードを通して通過するゲートがあり、関係者以外の出入りのないよう管理されている。ゲートを監視する警備兵は、一瞬、痛々しく包帯を巻いた軍務尚書の姿をみて立ち上がりかけたが、オーベルシュタインが白杖を滑らせ、すいすいとゲートに近づいていくのを見て思いとどまった。玄関の床には、視覚に障害のある者のための奇妙な凹凸のあるパネルが設置されており、オーベルシュタインはこれを辿ってゲートの位置を把握できるのだ。このパネルは彼が軍務尚書として勤めをはじめてすぐの頃、将来的な障害者登用にも備え、彼自身の主導により設置されたものである。
 カツン、カツン、とゲートに何度か白杖がぶつかるのを確認すると、オーベルシュタインは白杖を手首に通したヒモでぶら下げて手放し、カードを通すべき正確な位置を手で探った。つるりとしたカード読み取り位置の範囲を触覚で確認すると、オーベルシュタインは手探りで自身のIDカードを引っ張り出し、その場所へ触れさせた。キンコン、と正常な読み取りを知らせる心地よいチャイムが鳴り、ゲートがすうっと開いて道をあける。再び白杖をしっかり握り、オーベルシュタインは自身の仕事場への歩みを再開した。いつ助けが必要になるか、とやきもきしながら見ていた警備兵の心配にもかかわらず、軍務尚書は流れるように何の問題もなく通過していき、エレベーターへと向かった。

 エレベーター・ホールでは、フェルナー准将がエレベーターの到着を待っていた。白杖が床を叩いて響く音に気付き、目を向けると、彼の上司が痛々しく包帯を巻いているので、驚いて目を見開いた。

「軍務尚書閣下!」
「………フェルナーか?」
「おはようございます。その包帯はどうされたのです」
「新しく使い始めた義眼の洗浄液が合わなくてな。炎症を起こして義眼をつけられなくなった。2週間ほど、このまま過ごさなければならない」
「それは大変でございますね。しかし、そんな状態でしたら、無理にご出勤なさらず、2週間お休みになられたほうがよろしいのではないでしょうか」
「仕事が山ほどある。そんなに休んではいられん。目が見えなくともできる仕事だけでも、片付けておく」
「はあ。しかし、我々の仕事は書類仕事が多いですよ」
「承知している。こういう時に備えて準備してある。急な事態でなければ、だいたいの仕事に対応できるはずだ」
「さすがでございますね…ですが」

 チン、とエレベーターの到着を告げる音が響く。オーベルシュタインは軽く、舌打ちのような音を立てた。フェルナーとの会話に集中していて、音の鳴る方向に注意を向けることを失念していたのである。

「……今、到着したエレベーターはどれだ」
「は。…あっ、これは失礼いたしました。お連れしますよ」
「…ああ」

 少々、渋々といった様子をにじませながら、オーベルシュタインは彼の助力を受け入れた。フェルナーに両の二の腕を包むように背後から掴まれ、そっと押される方向に歩いてゆく。軽く床が上下するのを感じ、オーベルシュタインは自分がエレベーターの中に入ったことを感じた。

「閉じますよ」

 フェルナーはオーベルシュタインの体が扉から十分離れたことを確認すると、軍務尚書の体を手放してエレベーターのスイッチを押した。扉が閉まります、と柔らかな音声が響く。エレベーターが彼らの職場のある階へ向けて静かに上昇していくのをオーベルシュタインは感じた。

 目的の階に着き、エレベーターが扉を開くと、フェルナーは上司を通路に導こうと再び軍務尚書の二の腕に触れた。しかし、軍務尚書はそれを振り払うように軽く体をゆすり、「もうよい」と告げると、フェルナーの居る側とは反対側の扉の端を、白杖で軽く叩いて確認し、スッと通路に出て行った。向こう側の壁まで進み、片手を伸ばしてぺたぺたと壁に触れる。ここのエレベーターはすべて同じ方向を向いており、この壁を伝って記憶通りに進めば、彼のオフィスまで辿り着けるはずだ。

「小官もおりますのに閣下は強情ですね」
「黙っていろ」
「はい」

 片手で壁に触れ、もう片方の手で白杖を握り、軍務尚書は自分のオフィスへと進んでいった。ここの通路にはカーペットが敷かれており、白杖で叩いてもあまり音がしない。後ろからフェルナーがゆっくりとした速度でついてきている気配がする。軍務尚書は先に行けと言おうかと一瞬考えたが、上司とたまたま合流した、同じ方向へ向かう部下が一緒の速度で歩き、歩みが遅いからといって追い越すのは失礼にあたると思うのは自然であることに思い至り、口を閉ざした。