目が見えないオーベルシュタインの話
その2

 右の角をまがり、右手を壁に這わせて扉の縁を探る。1つめ、2つめ、3つめ。目的地であろう扉を探り当てると、オーベルシュタインは扉に備え付けられたプレートに指を這わせた。磨きこまれた黄銅のプレートには、通常の文字だけでなく、小さな凸の集まりによっても部屋の用途が示されている。彼の人差し指がその情報を読み取ると、彼の記憶通り『軍務尚書執務室』と刻まれていることがわかった。
 オーベルシュタインは手探りで扉横に備え付けられたカード読み取り機を探り、正面玄関を通ったときと同じようにスムーズにIDカードを当て、扉のロックを解除した。ドアノブを掴んで扉を押し開け、ようやく自身の執務室に入る。

「それでは閣下、ご用がございましたら隣室までいつでもお声がけください」

 上司が無事に部屋に辿り着くのを見届け、安心したようなフェルナーの声が後ろから聞こえてきた。オーベルシュタインは、ああ、と応えかけ、ふと思いついたかのように、いやまて、と振り向いて声をかけた。

「はい」
「中に入って少し待っていろ」
「承知しました」

 カーペットを踏むフェルナーのかすかな足音が執務室に入る。軍務尚書はするり、するりと白杖で床をなで、自分のデスクを探った。部屋の中心部にある、応接用の皮のソファに当たる鈍い音。その奥にある、ローテーブルの脚に当たるコツコツという音。それらの位置から方向を推測し、白杖を滑らせると、彼の重厚な木のデスクが立てるだろう音がした。
 自身のデスクの位置を確認すると、軍務尚書は白杖をスッと垂直に持ち上げ、もう一方の手でデスクの上を探った。整理整頓に普段から抜かりのない軍務尚書の机の天板は、煩雑さとは程遠く、すべての物が彼の記憶通りの位置にとどまっている。彼の手が机の上に鎮座している書類トレーに伸び、一番上の段に入っている書類の束を取り出す。このトレーには、段ごとに期限に応じて整理された紙の書類が収納されている。いずれも彼の決済を待つ書類であるが、凹凸のないぺらぺらとした薄い紙の書類は、今の彼にとって白紙となんら違いがなかった。

「これらの書類は、それぞれ期限が違うが、今週中に決済する必要があるものだ。今の私では内容を確認できん。卿が代理で処理しろ」
「ぉーぅ…承知しました」

 50枚以上ありませんかこれ…とぼやきながら、フェルナーは上司に近づき、彼の差し出す書類を掴んだ。書類が手を離れるのを確認すると、軍務尚書は椅子の背もたれに手を触れ、そっと後ろへ下げ、位置を誤らないよう注意深く座り込んだ。

「ところで、閣下。本日はどうやってお仕事をなさるおつもりで」
「興味があるなら、今見せてやる」
「はい。ぜひ」

 オーベルシュタインは白杖のヒモを手首から取り外し、デスクの脇へ立てかけると、使い慣れたデスクの引き出しの1つをほとんど探ることなく開き、中から彼のキーボード付き端末を取り出した。電源スイッチをいれると、システムの起動画面がうつる。すると、軍務尚書はおもむろに何らかのコマンドを素早く叩いた。フッ、とディスプレイの明かりが消え、代わりに端末から人の音声のような、だが呪文のように何とも聞き取れない音が鳴り始めた。

「え。え。なんですかこれ」
「音声読み上げモードだ。本来、目で見て読むはずのメニューやデータをすべて読み上げるようになる」
「これ、読み上げですか?小官には、何を言っているのか全く聞き取れないのですけれども」
「読み上げ速度を通常より上げてあるからな。私には聞き取れる」
「へええ…なんだか超能力者のようですね」
「見えぬ目を補うために、耳や触覚が鋭敏になるというだけだ。卿も何かの折に視力を失うことがあれば、この程度は聞き取れるようになるだろう」
「はあ~…そうならないことを祈りますが、万一に備えて覚えておきます」

 そうだな、と軍務尚書は応えると、端末に見えない目を向け、呪文のような音声を聞きながらキーボードを高速で打ち始めた。横から覗き込んでも、フェルナーには彼の上司が今何の作業をしているか検討すらつけられなかったが、おそらくいつも通り猛然と大量の仕事を処理しているのだろうということが推測できた。相変わらず何事にも備えに抜かりがない上司に感嘆しつつ、フェルナーは小声で、では、と挨拶し、執務室を出て隣の自分のオフィスへ向かった。