なんだ? 身体が痛い。縛られている? おれは一体、どこにいるのだ!?
ビッテンフェルト警部が目を覚ますと、目の前に見慣れたシルエットがあった。こわばっていた身体が弛緩し、緊張がほぐれるのを感じる。
ふと、相手が気づき、こちらへ歩み寄ってきた。青白い顔に微かな笑みを浮かべている。慣れ親しんだ人物の笑顔を見て、ビッテンフェルトも微笑み返した。
「なあ……おれは、どうしたんだったかな? お前と夕食をとっていて……それから、記憶がないんだ」
身じろぎすると、ギシ、と音が鳴る。首を回してそちらを見ると、柱に縄で拘束されているとわかった。ビッテンフェルトが首をかしげる。
「なあ、これは何の遊びだ?」
おれ、何かしたか? そう続けつつ相手を見るも、微笑みかけながら首を横に振られるだけであった。
ビッテンフェルトが身を揺すり、縄がほどけないか試みる。ビクともしない。ずいぶんしっかり縛られている。
「なあ、どういうことなんだ? 教えてくれ。おれは、何か怒らせたか? なあ」
徐々に不安がつのるのを感じつつ、ビッテンフェルトが問いかける。
おれは、よほど彼を怒らせてしまったに違いない。そう考え、ミステリアスで、いまいち何を考えているのか掴めない、自宅で心理カウンセラー業を営んでいる目の前の恋人とのこれまでのやり取りに思いを巡らせる。
心当たりがない。だが、思慮深く、思っていることを中々口に出さない彼のことだ、知らないうちにおれが粗相をしていて、怒っているのかもしれない。
「言ってくれ。おれは、『先生』ほど察しがよくないんだ」
どうしても縄がビクともしないと確かめた後、ふたたび『先生』へ目を向けつつビッテンフェルトが言う。その瞬間、彼は息を飲んだ。
相手の手に、ギラギラと光る刃物が握られている。
「お、おい。なんだ。何だよ? いやだ、やめてくれ。悪かった、悪かったから……!」
ビッテンフェルトの懇願にも関わらず、刃物はゆっくりと揺れながら彼に近づいていき、その切っ先が胸元に埋められた。オレンジ髪の、筋肉隆々とした男から悲鳴があがる。
「いたい! いたい、止めてくれ!!」
涙を流し懇願する。刃物の先が彼の心臓をつらぬいた後も、彼は、『こんなことはありえない』と思い込んでいた。
うそだ。
ありえない。
彼が、こんなことをするはずがない。きっと何かの間違いだ。
ゴポリ、と、口から血の塊がこぼれでる。それを目にしても、楽しげですらある相手の表情が変わることはなかった。
「いだい……すけ、て……助けてくれ……」
自分を刺した、まさにその下手人に向かってビッテンフェルトが懇願する。ズルリ、と刃物が引き抜かれた。傷口からゴポゴポと血があふれる。しかし、もの静かで優しく、恋人である彼とも患者とも穏やかに語るのが常であった医学博士は、血濡れのアーミーナイフを片手に見ているだけだ。
その顔は、どこまでも穏やかな笑みを浮かべていた。
「…………すけて……」
なおも懇願する声が響き、ゴポリ、ともうひとつ血の塊が口からこぼれた。
やがて、地下室は無音に包まれた。
***
丸二日間に及んだ取り調べを終え、すっかり憔悴した様子のカウンセラーを見て、ミュラー警部は心配そうな表情を浮かべながら駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「…………ええ、お気遣いなく」
「申し訳ございません。貴方と先輩との関係は知っているのですが、仕事上、どうしても貴方の話をよく聞かなくてはならなくて」
「存じております。お気になさらないでください。……なにせ、彼と最後に会ったのは私なのですから……」
力なく答える博士を見て、ミュラーは胸が痛むのを感じた。取り調べを担当したのは彼ではないが、同じ警察組織に属する人間として、行方不明の恋人を案じて不安な筈の彼へ罪悪感を禁じ得なかった。
行方不明となっている先輩のビッテンフェルト警部から、彼の話をよく聞いていた。控えめで物静かで、それでいて威厳と知性があり、カウンセラーとして、心に傷を負った数多くの患者たちを支えているという、先輩の自慢の恋人である。
その彼と先輩の逢瀬が、いま分かっている限り最後の目撃証言となっていた。
だが、彼のことを話していた先輩の口ぶりからしても、すっかり弱って不安を感じている相手の様子からしても、痩躯で弱々しい彼が、屈強な先輩をどうこうしたとは思えなかった。
「今日はこれで終わりだそうです。よろしければ、お送りしましょうか?」
「……ええ。よろしければ。……家に着く前に、倒れてしまいそうで」
言いながら、カウンセラーはフラリとよろめき、ミュラー警部は慌てて相手を支えた。
「あぶない!」
「うっ。……すみません」
「いいえ」
ふらふらと歩く彼を支え、ミュラーは、自分のパトカーに彼を連れていった。
相手を後部座席に乗せ、運転席に座ったあと、ミュラーは、バックミラー越しに相手を見ながら話しかけた。
「そういえば、お名前を聞いていませんでした。先生は、なんと仰るのでしたっけ」
カウンセラーは微笑んだ。
「パウル・フォン・オーベルシュタインと申します」
***
外は、すっかり暗くなっていた。
オーベルシュタイン邸に着くと、「作り置きですが、よろしければ夕食を食べていってください」と誘われ、断ろうとした。しかし、ミュラーの腹の虫が代わりに返事してしまったため、お言葉に甘えて家に上がることにした。ビッテンフェルト警部が行方知れずとわかってからというもの、食事をまともに取れていなかった。
オーベルシュタイン邸は、広々として洒落たマナーハウスといった様相をしており、内装はシックなアンティークでまとめられていた。食堂の壁には牡鹿の剥製が、窓のそばには小さな婦人の石膏像が置かれている。
オーベルシュタインはミュラーを食堂に通すと、すぐに食べられる木の実やチーズと、食前酒とグラスとを出しておき、食事の支度に取り掛かった。
一時間弱ほど後、「お待たせしました」と声が聞こえ、よく焼けた肉の良い香りと共に彼が戻ってきた。味付けして、冷蔵庫に仕込んでおいた肉料理だという。美味そうな匂いにあてられ、ミュラーは、うっかり涎を垂らしていまいかと口元を拭った。
唾液でいっぱいの口に肉片を含んで噛み締めると、凝ったソースの味と、一風変わった肉の味がジュワァと中に広がった。その美味しさに、ミュラーが目をつぶる。
フフ、と、横から笑う声が聞こえ、ミュラーは仄かに顔を染めつつ家の主人を見やった。
「すみません。あんまり美味しくて、夢中になってしまいました」
「それはよかった」
「不思議な味ですね。これは、何のお肉ですか?」
「イノシシの肉です。召し上がったことは?」
「いえ、初めてです。ジビエですか。しかし、クセが無くて美味しいです」
「よく気を配って処理していますから」
「あなたが? 買ったのではなく?」
「ええ。食材には特別こだわりますので。獲物を狩るところから自分ですることも多いです」
「なんとまあ……。見た目からは想像もつきません。とても理知的で」
「『この細腕で』、と思われるでしょう? 彼にも言われました」
「……きっと、無事に見つかりますよ」
「……ええ。そうだと良いのですが」
「……そ、それにしても、これは本当に美味しいです。仕事が長引いたとき、よく先輩が『はやく帰って恋人のつくる夕食がたべたい』とボヤいていました。今日頂いて、納得しましたよ」
「ありがとうございます。……力強い味がするでしょう? この猪は、特別、勇敢で屈強で、誇り高く美しい魂を持つ猪でした」
オーベルシュタインがうっすら微笑む。
「彼と親しい同輩のミュラー警部ですから、特別にお出ししたのですよ」
なぜか、その笑顔はミュラーの背に寒気をおこさせた。
***
初めて彼と出会ったのは、患者の一人にとある殺人容疑がかかったときのことだった。事情聴取のため、彼が、我が家にやってきたのである。