ハンニバルパロ
人食い医者と猪警部
その2

 オレンジ髪をなびかせ戸口に立つ精悍な身体つきの警部は、誇り高き獣のごとき印象をカウンセラーに抱かせた。
『フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト警部』と書かれた警察手帳をぱたりと閉じて胸ポケットにしまった彼に、オーベルシュタイン医師が薄く笑みを浮かべて見せる。
「それで、私にどのようなご用件でしょう。ビッテンフェルト警部」
「はいっても?」
「ええ、構いませんよ。本日分のカウンセリングは、ついさっき終わりましたから」
「かたじけない」

 患者の応対に使っている応接室に通すと、警部は、精神科関係の本がずらりと並んだ本棚や、値打ちのありそうなアンティーク調度の数々などを物珍しげにキョロキョロと見回した。捜査のためではなく、個人的に興味をそそられたらしい。
「患者自身は1ページも内容を知りませんが、こういった本の背表紙が並んでいると、彼らは安心するのです」
「…なるほど」
「うつくしい調度も人の心を落ち着かせ、いやしてくれます。ここは、我が家で一番豪華な部屋です」
「先生は立派な方ですな」
「お褒めに預かり光栄です」
 ビッテンフェルトを座らせたソファの向かいに座り、オーベルシュタインが、患者をみるように相手を見つめる。カウンセラーの目は、穏やかで静かだが、暗い水底のように底知れない印象を警部に与えた。
「…では、本題なのだが」
「はい」
「この男を知っているか?」
 ビッテンフェルトが一枚の写真を取り出し、相手側に向けてテーブルに置いた。
 それを、オーベルシュタインはちらりと一瞥したのち、
「患者の情報は業務上お伝えすることができません」
 と即答した。ビッテンフェルトがにがにがしい顔を浮かべる。
「市民の安全を守るためだ」
「令状もないのに?」
「なぜそれを!?」
 ビッテンフェルトが目をむいた。
「あるなら、私に何かたずねる前に出しておられるでしょう。『答える義務がある』と示すために。それと、目が泳ぎすぎですぞ警部」
 博士に指摘され、警部は髪ほど赤く顔を染めた。
「…専門家にはかなわんな。そうだ。令状はない。上に止められているのでな。だが、市民の安全を守るためには、どうしてもこの男を調べる必要があるのだ。頼む。先生に迷惑はかけない」
「そうは言っても、情報の出処を隠すわけにはいかないでしょう。それに、私には、患者の安全を守る義務があります。あなたが暴走警官で、成績ほしさに、私の患者を単なるスケープゴートに仕立てあげるつもりの可能性がある以上、お答えするわけには参りません」
 ぐっ、と呻いたのち、ビッテンフェルトは俯きうなだれた。どうやら力ずくで聞き出そうというつもりはないらしい、と、屈強な警官の前で一人でいる細身の博士は分析した。
 しばらくして、のどの奥から捻り出すように警部は答えを発した。
「……わかった。先生の言い分はもっともだ。ほかを当たることにする」
 そう言うと、ビッテンフェルトは立ち上がり、「失礼する」と一礼して部屋を出ようとした。望みを絶たれたせいか、その足取りはふらついている。
「お待ちください」
 しずかな博士の声が響き、警部は期待にみちた顔で振り返った。単純明瞭な精神性を見て微笑ましく感じつつ、「ご期待にそえず申し訳ないが」と前置きし、
「せめて、夕食をご一緒しませんか。料理が趣味なのですが、食べるものが一人しかいないと、どうも作りがいがないのです。見たところフラついていて、お腹をすかせておられるようですし」
 その指摘に応えるようにビッテンフェルトの腹が『グーッ』と音を立て、オーベルシュタインは小さく笑った。
「お恥ずかしい。実は、朝からまともに食べられていなくて」
「それはよかった。ちょうど、狩ったばかりの新鮮な肉がたっぷりありますので、それでフルコースをお作りしますよ」
「ふ、ふるこーす……!」
 警部が、顔全体に『たべたい』と書いたような顔を見せる。ほんとうに分かりやすいな、と博士は感じた。いつの間にか、少なからぬ好感を彼に覚えるようになっていた。
「ええ。ぜひ、ご一緒させてください」
「で、では……その、遠慮なく」
「はい」
 オーベルシュタインは薄く微笑んで応じた。

***

 きれいな大皿の中心に、花びらのように美しく盛り付けられたステーキがある。その周りに、ぐるりと2色のソースが回しかけられ、付け合わせが添えられている。ビッテンフェルトには馴染みのない、高級レストランで出される盛り付け方だ。
 見た目だけだろうか、と思いつつ、ひとくち口に運んでみると、やわらかく味わい深い。お気に入りのダイニング・バーでも食べたことがない、つきぬけるように美味い肉料理だった。
 ずらりと並べられた料理を、ビッテンフェルトは次々口に運び、夢中でむさぼった。はた、と、礼も言わずに無言で食べ続けていたことに気づき、向かいに座ったホストへ目を向ける。料理上手のカウンセラーは、そんな自分を微笑み眺めていた。
「……エヘン。申し訳ない。あんまり美味しいので、つい夢中に」
「空腹は最高のスパイスですからな」
「ええ。いや、たしかに空腹でしたが、それでなくともコレはすごく美味いです、先生」
「お気に召して何より」
「本当に先生が作ったのですか?」
「もちろん」
 はああ、と、警部は感嘆をもらした。
「先生は、料理人としても一流だ」
「めっそうもございません」
「おれはあまり稼ぎがよくないのだが、お代はどれだけ要るだろうか」
「無用ですよ。夕食にご招待したのですからな」
「かたじけない」
「とんでもございませんよ。ふだん、私ども市民を守って頂いている、ほんのお礼です」
 そう応じたあと、オーベルシュタインは少しだけ前のめりになり、ビッテンフェルトへ顔を近寄せた。
「……もちろん、犯人確保にもご協力いたします」
「? それは、願ってもない申し出だが、ついさっき先生が断ったではありませんか」
「患者の情報をさしあげることはできません。しかし、もし、警部が私に、捜査資料をみせてくださるのであれば、犯人確保に協力できます」
「なっ。そんなことはできない。先生が、患者の情報を伝えられないのと一緒で、我々も、外部の人間に捜査資料を洩らすわけにはいかない」
「命令されていない捜査はしているのに?」
「うっ……」
 痛いところを突かれ、ビッテンフェルトは押し黙った。肉を運ぶ手も止まる。オーベルシュタインは、警戒を解くように薄く微笑んだ。
「責めているわけではございません。ごりっぱな心がけだと思います。私は、あなたが来たことを他に洩らすつもりはありません」
「……かたじけない」
「もちろん、捜査資料を見ても、決して外に洩しません。私の提案はこうです。『あなたが捜査資料を見せて下さるのであれば、私はそれを見て犯人を分析し、逮捕に協力する』。見返りは結構です」
「……し、しかし、なぜそんなことを?」
 オーベルシュタインが薄い微笑みを返す。どこか、得体のしれない笑みだ。
「社会の安全は、市民全員にとって利益になる。そうでしょう?」
 ビッテンフェルトはううんと唸り、考え込んだ。皿はすっかり空になっている。彼の身体は、とびきり美味い肉料理から得た満足感でいっぱいに満たされていた。
「わかった。くれぐれも、見聞きしたことは内密に頼む」
 しばらくして、警部はそのように応じた。

***

「やった! やったぞ、先生! また大手柄だ!」

 いつも通り、診察後の時間にやってきたビッテンフェルトは、玄関が開くやいなやオーベルシュタインに飛びつき、彼の細い身体が折れそうなほど強く抱擁した。博士が苦しげなうめきを洩す。
 ビッテンフェルトはすぐに離れ、喜びでいっぱいの顔を相手に見せた。
「先生の言ったとおりの場所に、犯人がいた! 人質も無事に救出できた! なあ、議員がおれに感謝の握手をして、署のみいんなに拍手をされたんだ、はは!」
 その場で踊り出しそうな調子で子供のように報告する警部を見て、オーベルシュタインは、いつもの薄い微笑みを浮かべた。
「おめでとう、警部。私も嬉しい」
「先生のおかげだ。捜査資料を見せていることは明かせないので、先生のおかげだっていうことを誰も知らないが、おれは、先生のおかげだっていうことを分かっている。忘れていない。なんとお礼をいったらいいか……」
「よいのです。社会の安全は、市民全員の利益ですからな。それに……」
 博士は、オレンジ髪の警部の唇にちゅっと口づけた。
「恋人が成功をつかんだのだから、自分が表彰されたように嬉しいとも」
 ビッテンフェルトが嬉しそうに満面の笑みをうかべる。そして、いとしいカウンセラーの細い身体をまたギュッと抱きしめた。
「なあ、今晩は泊まっていくのだろう……?」
 博士が誘うように尋ねると、「そのつもりできた」と力強い応答がかえった。
「夕食の支度をしてある。今夜は、『子牛の肺ロースのワインソース和え』だ」

***

「先生。こいつを分析してもらえないか」

 歓喜にみちた祝いの日の逢瀬とは打って変わり、神妙な面持ちで訪ねてきたビッテンフェルトは、そう言って、極秘の捜査資料をオーベルシュタインに見せてきた。
「殺人事件の資料だ。犯人の目処はまったく立っていない。わかっていることといえば、この女性が『肺』だけを切り取られて亡くなっていることと、それが、高度な外科手術で行われていることくらいだ」
 オーベルシュタインは、たっぷり時間をかけ、資料にじっくり目を通した。ビッテンフェルトがゴクリと唾を飲む。いつもは、数秒も見れば何らかの分析を口にするのに、今日は何もでてこない。
「……すまない。私にも、たいしたことは分からない」
「……そうか……」
「役に立てず申し訳ない」
「いや。おれたちも雲をつかむようで困っていたのだから、先生がわからなくっても仕方ない」
「すまんね。……しいて、分かることは……まず、外科手術は一朝一夕にできることではないから、犯人は医者だろう。そして、それだけ証拠を残していないということは、とびきり用心深く賢いということだ」
「……ああ、そうだろうな……」
 うなだれた警部に、博士が、いつもの薄い微笑みを返す。
「協力できることがあれば何でも言ってくれ。善良ないち市民として、できることは何でもしよう」