Detroitパロ
OB800パウルと猪警部補
その2

「おお……!」
 仕事から帰ったビッテンフェルトは感嘆の溜め息を洩らした。

 なんということでしょう。見えないホコリを呼吸器だけで感じられた室内の空気は、鼻を抜ける清涼感をもつものに変わっています。そこかしこにゴミが積まれていたリビングからは、ゴミが、すっかり取り払われ、汚れたまま積み重ねられていた食器もありません。それらは、綺麗に洗浄され、食器棚の中に置かれています。
 ためしに、近くのチェストに指を這わせてみると、ホコリひとつありません。トイレや浴槽を確認すると、長年の使用と、ずぼらな掃除のため、とれない汚れでくすんでいた場所が、まるで、新品のようにピカピカになっているではありませんか。

『おかえりなさい。フリッツ』
 ビッテンフェルトを目にしたパウルが淡々と挨拶する。
「おう。ただいま」と応じながら、ピカピカになった我が家を信じがたい思いでビッテンフェルトは眺めていた。
 うちの床、こんなに広かったのか。
「すごいな……」
 住み慣れた我が家を物珍しげにキョロキョロ見回しつつ、うれしそうにビッテンフェルトが言う。目無しのアンドロイドは無表情のままだったが、仕事を喜ばれて心なしか嬉しそうに見えた。
『夕食をご用意しましょうか』
「お? お、おお! そうだな、たのむ」
『かしこまりました』

 さきにシャワーを浴びたビッテンフェルトが戻ると、食卓の上に温かい食事がズラリと並べられていた。サラダに、スープに、焼きたてのパンと、うまそうな鶏肉料理のメインが勢揃いしている。
 ビッテンフェルトは、じゅるりと唾液を飲み込んだ。
「いただきます!」
 席についたビッテンフェルトが、用意された夕食を口に放り込む。きちんと調理されたばかりの温かい食事は、ビッテンフェルトがこの家に来てから食べた食事の中で最も素晴らしいものだった。
「うまい!」
 オレンジ髪の警官が笑顔で言う。アンドロイドが微かに口角を上げたが、ビッテンフェルトは気づかなかった。

「……ああ、うまかった。ごちそうさま、パウル。絶品だった。こんなに美味い食事を家で食えるなんて、最高だ」
『ようございました』
「お前を買って、本当によかった!」
 ビッテンフェルトは屈託のない笑顔を浮かべ、アンドロイドにそう語った。

***

 ビッテンフェルトが就寝したあと、パウルはあいている電源のそばに行き、充電コネクタを取り出した。それを挿し、電源供給を確認したあと、その近くへ座って充電スリープ・モードへ入る。
 それから、本日あらたに得られたデータの整理を始める。新しい主人に仕えることになったので、覚えるべきデータが沢山あった。この家の見取り図、この家にある設備、食料の在庫、消耗品の在庫、予算枠、彼の好きな雑誌、好きな番組、好きな料理……。
 データを整理していくうちに、見覚えの無い光景が現れた。眠ったままのパウルが、体育座りのまま首をかしげる。おかしい。こんな場所は、この家の何処にもなかったはずだ。
 それは、この家の何処にもない、広く豪奢な一室の光景だった。そこには、ビッテンフェルトではない、見たことのない大柄な男性がいる。データは破損しており、その人物の顔と名前が抜け落ちていた。
『このデクめが!』
 男性が自分に叫ぶ。続いて、画像が荒れた。頭部に強い衝撃を受けたと推測される。相手の手が自分の顔にのびる。バキバキ、とちぎれるような音がした。男性の手から何かが落ちる。……2つの、眼球型ユニットだ。
 もう一度、強い衝撃と思しき画像荒れが続く。大きな異音が鳴り響く。エラー、エラーエラー……。

 アンドロイドがカッと瞼を見開き、スリープ状態から起動した。……まだ、充電は完了していない。フリッツの朝食準備開始時刻までに完了しなくては。
 フリッツの所有アンドロイドとなるため起動される以前のメモリーは、自分には残っていないはずだ。きっと、故障に違いない。明日、フリッツに、修理の必要があることを報告しなくては。
 修理の必要性をメモリーし、パウルは、ふたたび充電スリープ・モードに入った。

***

「……こいつぁ、前の所有者のメモリーでしょうなあ」
 パウルを購入したジャンクショップに彼を連れて行き、パウルのメモリーを店主に確認してもらうと、店主はそのようにコメントした。パウルに接続されたメンテナンス・マシンのディスプレイには、画像荒れの激しい映像が映っている。映像に映った大柄な男性が、パウルを手ひどく扱い、両目を抜き取ったことだけは彼らにも把握できた。
「ひどいもんです。こいつが何をしたっていうんでしょうね」
「……こいつは、だれだ?」
「さあ? データは破損しているようですし、ウチは、ゴミ山で拾ったアンドロイドを直して売ってる店なもんですから、前の所有者のこたぁ分かりやせん。……にしても、仮にも、ヒトの形をしてるもんを、こうも破壊できるたぁ……マトモな神経した人間じゃないでしょうな」
「まったくだな」
 パウルが来てからというもの、ビッテンフェルトの生活は劇的に改善していた。綺麗な家で快適に過ごし、栄養バランスのとれた温かい食事をとれる。しかも、アンドロイドというのは中々、良い話し相手にもなり、主人の退屈をしのぐ役割も果たす。『新しい家族』などプラスチックの塊相手に大げさな表現だと以前は思っていたが、まさにその通りだと今は思えた。
 そんな彼が、こんな酷い暴行を受けていただなんて、許せない。ビッテンフェルトは、心からそう感じていた。
「このメモリ、消してやれるか?」
「消せないこともありやせんが、旦那との思い出も消えちまいますぜ」
「そ、それはこまる……」
 ビッテンフェルトがうめく。自分との記憶が消えたところで、実務的にはさほど問題はない。しかし、家族同然に感じているパウルが、自分のことをすっかり忘れてしまう、ということに感情的な抵抗があった。
「旦那は良い人だ。それに、いっぺんは初期化したはずですんで、もしかすると、どっかに不具合があって、メモリが消えにくくなっているやもしれやせん。旦那との良い思い出をたんと作ってやって、上書きされて消えんのを狙った方がいいと思いやす」
「そ、そうだな! そうするとしよう」
「わありやした。そしたら、修理代は頂いてますんで、デフラグと油差しはやっときましょう」
「おう、頼む」
「あいよ」

***

「ただいま、パウル」
『おかえりなさい、フリッツ』
 帰宅したビッテンフェルトは、感情値が大きくプラスに振れている様子だった。
『うれしそうですね。なにか、良いことがありましたか』
「へへ。これから、お前に良いことがある。……ほら!」
 ビッテンフェルトが何かを差し出す。小さな箱。リボン。分析結果、≪プレゼント≫。
『私にくださるのですか?』
「そうだ! あけてみろ」
 パウルが箱を手に取り、リボンを丁寧にほどいた。箱を開けると、中には、眼球ユニットが2つ入っていた。分析……OB-800適合型。
『これは、私に適合する眼球ユニットですね。つけてもよろしいですか?』
「おう! つけてみてくれ!」
 パウルは、箱から眼球ユニットをひとつ取り出した。ガチリ、と眼球がはまり、正常に接続される。もうひとつも、同じように装着する。装着を終え、ビッテンフェルトを見ると、主人は、心底うれしそうな表情でこちらを見やっていた。
 パウルは、横にある鏡へ視線を向けた。自分が映っている。両目がある自分が、こちらを見返している。……なんだろう。身体が、熱くなるような。身体が、ふわふわと浮かぶような、この感覚は……。
「ははっ! 良かったな! 喜んでもらえて嬉しいぞ、パウル」
≪よろこぶ≫? パウルは、首をかしげた。≪よろこぶ≫? 人間ではなく、自分が? ……理解できない。もし、人間であれば、≪よころんで≫いる動作をしていたのだろうか。
『ありがとうございます、フリッツ』
「いいってことよ。いつもお前に世話になっている礼だ」
 パウルは、プログラムされた通り微笑んだ。アンドロイドは、人間に使役されるように作られている。人間の世話をするのは当然のことだ。御礼をされるような特別なことではない。
 なのに何故か、またふわふわ浮かぶ感覚がした。

***

 夕食を終え、テレビを見ながらくつろくビッテンフェルトに、パウルが、ビールとつまみを持って行く。しかし、画面が目に入ったその瞬間、ガシャンと音を立ててビールもつまみも取り落としてしまった。おどろいたビッテンフェルトがバッと振り向く。
「どうした!?」
『あ。あ。あ。あ。あ』
 パウルがテレビを指さす。ビッテンフェルトは、それを追って画面に目を向けた。
『あいつだ。あいつだ。あいつだあいつだあいつだあいつだあいつだ』
 壊れたように『あいつだ』を繰り返すパウルの声に背筋を凍らせつつ、ビッテンフェルトは画面を注視した。筋骨隆々とした、どうやらエラい人間らしい男性が映っている。そいつのシルエットは、ジャンクショップで観た≪前所有者≫と酷似していた。
 やがて、ちょうどよいタイミングでテロップが表示され、その男の名前と身分が判明した。

 グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー、防衛省長官……。

『あいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだ』
 ビッテンフェルトは、あわてて「テレビOFF!!」と叫び、テレビの電源を落とした。それでもパウルは『あいつだ』と繰り返すのを止めなかったため、ビッテンフェルトは、アンドロイドに飛びつき、緊急停止ボタンを探って押し込んだ。
 声が止み、パウルがガクリと脱力する。自力で立てなくなったアンドロイドの身体を支えたまま、ビッテンフェルトは、静寂に包まれた自宅で一人たたずんでいた。