銀吸血鬼の失敗
その1

 なめらかで柔らかな首筋に鋭い牙が埋まると、歯を立てられた女から甘い溜息が漏れた。

 牙の持ち主が喉を鳴らすたび、赤色をした命の源が女から吸い上げられる。ただし、歯を立てている化け物には、それを命もろとも飲み干してしまうつもりは毛頭なかった。
 血を吸われるたび、女の体が小さく痙攣する。おそろしい目に遭っているにも関わらず、騒ぐこともなく、恍惚とした目で彼女は虚ろに天井を見つめるだけである。きちんと処置をすれば、この女は今宵の出来事すら忘れ、何事もなかったかのように日常へと戻っていくことを、銀の髪をした美形の吸血鬼は理解していた。

 空腹を満たして牙を離すと、首筋に残った四つの穴から血が流れ出ていた。それを、名残惜しそうにペロリと舐めとる。それから、ウットリとしたままの女の目に自分の目を見つめさせ、吸血鬼が口を開いた。

『おれたちは、普通に夜を楽しんで、そして別れた。ただ、少し酒を飲みすぎたから、翌朝は多少具合が悪くなるだろう』

 翡翠色をしていた両目が琥珀に変わり、女に暗示をかける。女がコクリと頷いた。吸血鬼はニヤリと笑い、女をブランケットで包んでベッドに寝かせてやると、彼女の家を出て行った。あまり遅くなると、おれの主人、兼配偶者が心配する。
 かつて、アントン・フェルナーという人間だった吸血鬼は、人間としての生を終え、吸血鬼として別の名を持ち、主人と共に同盟首都ハイネセンへと移って隠れ暮らしていた。

***

「おかえり、『ジャクソン』」

 格安で貸し出されていた地下の住居に戻ると、かつてパウル・フォン・オーベルシュタインと名乗っていた吸血鬼が待っていた。いまは『ローマン・ディキンソン』とかいう名前だったか。白髪は無くして焦げ茶色一色の髪に変わり、両目は生目に変わっている。しかし陰気な顔は前と同じなので「バレませんか」と尋ねたところ、「あんがい気付かれないのだ」と応じられた。
 昔から念には念を入れるタイプであるようで、前の名前も今の名前も、きちんと『本当に存在したが何らかの理由で人知れず亡くなった人間』の名前である。おれと違って昼夜問わず活動できる真吸血鬼の彼が、おれに用意してくれた名『ジャクソン・ペトロスキ』も、そうした同盟出身者のものらしい。
 しかし、どうも初めの印象が残ってしまうようで、今でもおれは『閣下』と呼んでしまいがちだし、彼もよくおれを『フェルナー』と呼ぶ。おれの場合は、そいつが真名であることもあって、うっかり人に聞かれるとまずいのだ。

「ただいま、『ローマンさん』。仕事は順調で?」
「まあな。お前は?」
「上々ですよ。近いうちに、おれも収入をつくってみせます」
「ほう。それは、本当に金銭か? それとも、人間の血液という意味か?」

 むぐ、とフェルナーが詰まった。ばれてる。真吸血鬼が彼に詰め寄り、胸倉をつかんだ。

「あれほど、人を噛んではならないと言っているのに」
「だ、だ、大丈夫ですよ閣下。ちゃんと『言い聞かせ』てますし、そもそも行きずりなんですから」
「お前は、自分がどうして『こう』なったか忘れた訳ではあるまい」
「二度と会わなきゃそれまでではございませんか! 人間のときはよくありましたよ、そういう関係も──ひぎゃ!」

 言い訳を続けるフェルナーの首筋を、真吸血鬼が噛む。突き立てられた四本の牙が皮膚を突き破り、相手の血を吸い上げると同時に『毒』を送り込む。

「あ、あ……やめてくださ、閣下……う、ぁあ、ア……!」

 顎の力が強められ、フェルナーが痛みに顔を歪めた。相手を引き剥がそうと手をかけるも、どんどんと力が抜けていく。そして、例の感覚が身体を支配し、フェルナーの身体がビクン、ビクンと痙攣しはじめた。足の力が抜けてよろめくと、主人のほうが彼を支える。だが、吸血をやめることはなかった。
 しばらく罰が続いたあと、牙が離れた。ガクリ、とフェルナーが崩れ落ちかけるのを、真吸血鬼が支え持つ。快楽に蕩け、今なお痙攣するフェルナーが口を開いた。

「ひどい……ひどいですよ。せっかく飲んだのに横取りするなんて」
「お前への罰だ。どうしても必要に迫られたのなら仕方がないが、平時は、輸血パックを飲め」
「生き血のほうが美味いじゃないですか」
「できないなら、飲んだ分すべて私が奪うぞ」
「うええ……死んじゃいますよ閣下」
「死なない程度に輸血パックを口に詰めてやる」
「ひーん、閣下のオニぃ〜ドライアイス〜」
「『吸血鬼』だ」

 フフン、と鼻で軽く笑い、力が抜けたままのフェルナーを真吸血鬼はソファに寝かせてやった。

「いずれ、取り返しのつかん事態を招くぞ」

 真吸血鬼が目を紅く光らせながら警告する。だが、惚れた弱みのせいで彼があまりに優しかったせいか、それともおれがあまりに楽観的だったせいか、彼の渾身の脅しはまるで響かなかった。

 そのことを、おれは、この日から幾らも経たないうちに、死ぬほど後悔することになる。