フロイライン・ビッテンフェルト
その1

「あー! 気に入らん、気に入らん! あたしは絶対、あんな奴は認めない!」
 海鷲で同僚ミュラーと並んで座り、アルコールに強くもないのに注文した酒をあおりながら、フリーダ・ヨゼフィーネ・ビッテンフェルト提督は大声をあげた。周囲の客たちが「何事か」とそちらを振り向く。ミュラーは慌てて「お声が大きすぎますよ」と彼女を窘めた。
 ふん、と、ビッテンフェルトが鼻を鳴らす。
「声がなんだ。わがビッテンフェルト家には『人を褒めるときは大きな声で、悪口を言うときにはより大きな声で』という家訓があるんだ。あたしは家訓を守っているだけだ」
「それは、また……。しかし、周りの迷惑になりますから。ね?」
 むすっ、と、彼女が不満そうな表情を浮かべる。幸い、その後の会話のボリュームは小さくなった。
「なんだ、なんだ。あのオーベルシュタインの奴。もとは大佐から始まり、前線に立って指揮をとっている訳でもないのに……あんな……一足飛びに出世しおって! 軍務尚書閣下、か。はっ。えらくなったものだ……あのような陰気で、陰険で、卑怯で陰険な奴が」
「提督、どうぞ慎んで下さい。『陰険』を二回言っておりますよ」
 ビッテンフェルトがムッと眉をよせ、不快感を洗い流すようにグラスを一気に口へ傾ける。「ああ……」と呻くミュラーをよそに、ビッテンフェルトは残りの酒をすべて飲み干してしまった。
「ひっく」
 ビッテンフェルトがしゃっくりをする。身体が揺れた拍子に、彼女の豊満な胸がブルンと揺れる。店中の男性たちの目が『破壊神ヴァルキリー』と名高い彼女――の、胸に集約された。さいわい、酔ったビッテンフェルトはそのことに気づかなかった。
「もうお帰りになられては?」
 ミュラーが勧めると、ビッテンフェルトは素直に頷いた。

      ***

 ある日の会議の後、少し時間をつぶすために休憩所に一人むかったビッテンフェルトは、彼女が忌み嫌ってやまない人物と鉢合わせた。陰気を絵に描いたような男、軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタインである。
 彼はまだ彼女に気づかぬ様子であったが、ビッテンフェルトがわざわざ「チッ!」と大きく舌打ち音を響かせたため、確実に彼の知るところとなった。しかし彼は、そういった様子を全く見せず、手元のタブレットで何やら作業を続行していた。
「……休憩するのか、仕事するのか、どちらかにしたらどうだ!」
 ビッテンフェルトが声をかける。オーベルシュタインは、チラと目線を数秒だけビッテンフェルトに向け、それからまたタブレットに目線を戻した。
「ごきげんよう、ビッテンフェルト提督」
 気のない挨拶だけを一言、かえす。ビッテンフェルトは、彼女自身の失礼な挨拶にもよらず、オーベルシュタインのそうした反応に苛立ちを募らせた。
「ほほう。あたし如き格下では、軍務尚書殿はお手を煩わせるに値しないとお考えか」
「……何か、用があるのかね?」
 オーベルシュタインがようやく手を止め、ビッテンフェルトに顔を向ける。
「用はないが……」
「なら、仕事を続けていてもよろしいな」
 そう結論づけると、オーベルシュタインはまた仕事に戻ってしまった。ビッテンフェルトのこめかみに青筋が立つ。
「……卿の、そういうところが気に食わぬのだ! いや、そういうところだけではない。その不健康さ! なんだその肌色は、ちゃんとメシ食ってるのか!? 貴族だろう! 陛下より十全の給与を賜っているだろう!? それに、お前だけはちっともあたし達と打ち解けようとしない! 何も全員と仲良くなれとは言わん、あたしにだって苦手な提督は……。ええい! とにかくだなぁ!」
 そうした調子で、ビッテンフェルトのオーベルシュタインに対する苦情ライムは小一時間ほど続けられた。その間、オーベルシュタインは、まるで木々のせせらぎや川の音しか聞こえていないような様子で淡々と仕事を続け、ビッテンフェルトに対して一切の反応を返さなかった。
 はーー、はーー、と、ビッテンフェルトが息を切らす。一方、ひたすらに仕事をこなしていたオーベルシュタインは、相変わらず涼しい顔だ。
「……まぁだ迎えは来ないのかぁ!」
 ビッテンフェルトが叫ぶ。これはオーベルシュタインに対する苦情ではない。そろそろ自分を迎えに来ているはずの部下たちに対してである。
「待ち合わせの時刻や場所を、間違えて伝えたのではあるまいか? 一度、連絡したことを確認なされよ」
 てっきり話をすっかり遮断していたと思われたオーベルシュタインが、その時、小一時間ぶりに口を開いた。はた、と、ビッテンフェルトが何やら思い至った様子をみせる。彼女は自分の小型端末を取り出し、先に部下へ送ったメッセージ内容を確認した。……時刻と場所、その両方を間違えて伝えていた。
「ああーーーー!!」
 ビッテンフェルトが大声をあげる。彼女は急いで訂正のメッセージを書き、今頃まったく違う場所で二時間ほど待ちぼうけを食らっているだろう部下に送信した。
「くううっ……!!」
 おもわぬ失態に、ビッテンフェルトが呻き、自分の頭を両側からポコポコと殴る。
(あたしとしたことがぁ! こういう注意力が足りないのだと、陛下からもご注意たまわったばかりだというのに~~!)
 キッ、と、彼女はオーベルシュタインを睨んだ。彼は全く悪くない、どころか親切な意見をくれたに過ぎないのだが、腹の虫が治まらなかった。
「……きさま! あたしの話を聞いていたのだろう!? 何か言いたいことはないのか!?」
 悔し紛れの八つ当たりであった。ビッテンフェルトもそれを自覚していた。自覚していたからこそ、いっそう腹が立つのであった。
 オーベルシュタインが数度、まばたきし、ビッテンフェルトを見つめ返す。その義眼に浮かぶ感情は、もしあったとしても、ビッテンフェルトには汲み取れなかった。
「言いたいこと?」
 淡々と、オーベルシュタインが聞き返す。その声には、猛将と名高い彼女への畏怖など欠片も見当たらない。
「そうだ! あたしに言いたいことだ。何かあるだろう!?」
『なにもない』と言われる。そう予想していた。そう予想し、怒りをぶつける心づもりを彼女はしていた。
 オーベルシュタインは、しばし時間をおき、何やら考えていた。思いのほか応答に時間がかかり、しかし視線は自分に向けられたままでもあり、ビッテンフェルトは困惑した。
 やがて、ようやく彼の薄い唇が開かれた。

「結婚してくれ」

 沈黙が訪れた。永遠にも思われる時間がすぎたように、ビッテンフェルトには思われた。彼ら二人が突然、無音の宇宙に投げ出されてしまったようであった。休憩室にある時計の秒針の音だけが、奇妙に大きく響き、時間の経過を知らせる。
「…………はああ!!?」
 ややあって、ようやくビッテンフェルトが素っ頓狂な声をあげて返した。自分の耳をにわかに信じがたい。きっと聞き間違いに違いない、と、彼女は思っていた。
「結婚してほしい」
 だが、オーベルシュタインは無情にも明確に言い直した。その言葉に一切のよどみがない。間違いなく、絶対に、オーベルシュタインはビッテンフェルトに求婚を告げていた。
「ま、ま、な、ま、なん、……はあ!? どういうことだ!? どうしてそうなる! わ、わ、悪い冗談も大概にしろ!」
 そう叫びながらも、ビッテンフェルトは気づいていた。目の前の男は、冗談を言っていないということに。そして、『冗談』というものと無縁の存在であることに。
「冗談ではない」
 オーベルシュタインは粛々と否定した。
 ビッテンフェルトの顔が真っ赤に染まる。それは羞恥ゆえなのか、怒りゆえなのか、動揺ゆえなのか、彼女自身にも分からなかった。
「~~~~!!」
 ビッテンフェルトは言葉にならない声をあげ、その場から全速力で撤退した。