フロイライン・ビッテンフェルト
その2

 カリカリ、カリカリ、と、二本の万年筆が走る音だけが響く。軍務省の最上階にある軍務尚書執務室は、他のどの上層幹部の執務室と比べても静謐であった。
 ふと、一方の筆が動きをとめる。書類の決裁が一段落ついたらしく、フェルナーは机から目を上げた。いたずらっぽい笑みを翡翠の目にひらめかせ、その先を軍務尚書へと向ける。
「ときに、閣下」
「なにか」
 手を止めることなく、視線も下げたまま、呼ばれた軍務省の主はそう応じた。こうした呼びかけ方をされるときは、緊急性のない雑談であるからだ。
「取るに足らぬ噂にすぎませんが、聞くところによると、あのビッテンフェルト提督に閣下が求婚をなされたとか」
「卿も、噂話を好む類いであったか」
 やや呆れたような口調でそう応じられると、フェルナーは非礼を詫びるように軽く会釈した。
「これは失礼を。根も葉もない噂でしたか」
「そうは言っておらぬ」
 オーベルシュタインがそう応じるのを聞くと、フェルナーは驚きに軽く両目を見開いた。そしてすぐ、好奇心にかられた猫のような目つきに変わる。
「では、求婚なさったので?」
「ああ」
 どうでもよさそうに軍務尚書が応じる。だが、副官の方はヒュー、と、囃したてるように軽く口笛を鳴らした。
「彼女に弱みでも握られたのですか」
「いいや。握られて困る弱みもない」
「では……本心から?」
「そんなに意外か?」
「ええ、恐れながら。……ちなみに、彼女のどういった所に魅力をお感じになられたので?」
 フェルナーが尋ねると、オーベルシュタインはようやく筆を止めた。視線もあげたが、その先は副官ではなく、どこか中空を見つめている。回答を考え、オーベルシュタインはしばし時間をあけた。フェルナーは、それを辛抱強く待った。
 やがて、オーベルシュタインが再び口を開いた。
「……元気のいいところ」
「はい」
「……己の考えを口に出し、それを突き通そうとする強さがあること」
「ふむ」
「身体が丈夫そうなところ」
「そうですね」
「存外に聡明な面を持ち合わせること」
「ほう? ……ふむ」
「……死ななさそうなところ」
「ええ」
「正直で、武人気質だが思いやりもある……」
「なるほど、閣下が確かに提督に惚れ込んでおられると理解しました」
 フェルナーはそこで話を切った。このままいくと、ノロケが永遠に続きそうである。
「閣下と、ビッテンフェルト提督……存外によい組み合わせかもしれませんな。あちらも、異性に大人気とはいきませんでしょうし。小官も、閣下の恋路を応援しております」
 フェルナーがそう言うと、部屋の温度が三度ほど下がったように思われた。オーベルシュタインのやや沈んだ声が続く。
「すでに失敗した。応援の必要はない」
「なんと」
「『言いたいことがあるなら言え』と彼女に言われ……他に言いたいこともなし、これも好機かと言ってみたのだが……一目散に逃げられてしまった。返事は『Nein』であろう」
 そう言うと、オーベルシュタインは小さく肩を落とし、『話はここまでだ』とばかりに書類に向かい直した。フェルナーも、あまり追求しては業務に支障がでると配慮し、その後は自身の書類に向かう。
 カリカリ、カリカリ、と、静かな執務室に万年筆の音だけが響いた。

「一体どうしたんだ、ビッテンフェルト。卿らしくもない」
 ある日の海鷲にて、ビッテンフェルトは提督達に取り囲まれ、代表してミッターマイヤーからそのように詰問を受けていた。ビッテンフェルトは驚いたように目をむき、おどおどと動揺を見せる。
「あたしらしくない? どういうことだ。あたしは普通だぞ」
「いいや、卿らしくない。様子がおかしい。オーベルシュタインと何かあっただろう」
「なっ!!? どうしてオーベルシュタインなのだ!?」
 ガタッと立ち上がろうとし、ビッテンフェルトは膝をしたたかにカウンター下にぶつけた。痛みに呻き、彼女はバーに頭を伏せた。
「最近、軍務尚書の悪口を一言も言わなくなりましたな」
「会議でも一切反論しない。卿ならば何か言うような時でも、少しもだ」
「それどころか、軍務尚書と目を合わせようともしていないだろう」
「放っておいてくれ!! なんだ、卿ら揃ってあたしをジロジロ観察しおって!」
「むろん、卿にそこまで興味があるわけではないが、いつもある騒音がないと、気になって仕方がないのだ」
「『騒音』!? 言うに事欠いて!」
「ともかく、軍務尚書と何かあったのだろう? 陛下も酷く気に掛けておいでだったぞ」
「陛下まであたしを!?」
「何があった?」
「場合によっては、陛下にもお伝えして対応する」
「うるさいな! 放っておいてくれ! 余計なことで陛下の御心をお騒がせ奉るな!」
 多数の提督対ビッテンフェルトの舌戦は、多勢に無勢でありながらもビッテンフェルトが一歩も引かず、進展を見せなかった。
 だがそこで、少し遠巻きにカウンターに座り、ゆっくりとウイスキーのロックを飲んでいたロイエンタールが声をあげた。
「おれにはわかったぞ」
 その言葉に、提督達の声が止む。ビッテンフェルトはゴクリと唾をのんだ。
 静まりかえった提督達に、気取ったウインクをひとつ送り、ロイエンタールはグラスの氷をゆったり揺らしてみせる。
「色恋沙汰だな?」
 すると、ビッテンフェルトの顔が、髪ほど明るいオレンジ色に染まった。
「なっ!! な、ななな、なにを根拠に!! あたしがオーベルシュタインなどとっ!」
「ほほう、当たりか。その反応が何よりの証拠だろうよ」
 ロイエンタールが余裕ある態度でそう告げると、ビッテンフェルトは「ぐぅぅっ……」と呻いた。周りにいた提督達は「おお……!」と感嘆の声をあげる。
 さすがは、漁色家。罪作りな女遊びの絶えない男。
「わかるさ。『嫌よ嫌よも好きのうち』……卿ときたら、四六時中オーベルシュタインの悪口ばかり言っているではないか。関心がなければ、そうも話題に上るまい。本当のところは、好きで好きで気になって仕方がないのではないか……?」
 ロイエンタールがいたずらっぽく笑みを浮かべ、ひとくちウイスキーを含む。
「ちがああぁう!!」
 ビッテンフェルトが叫ぶ。今度はどこにもぶつけず立ち上がり、脱兎の如く、いや猪の如く疾走し、店をあとにした。

「……これは重症だな」
 後に残されたミッターマイヤーが呟く。彼女のぶんの支払いは、その場に居合わせた提督たちで詫びに賄うことにした。

 ある日の休日の夜、ビッテンフェルトは夢をみた。それは、あのオーベルシュタインと仲睦まじくデートをし、カップル用のドリンクを二人で飲んだり、クレープを食べたり、ジェットコースターに乗ったりする夢だった。
 翌朝目覚めたビッテンフェルトは愕然とした。
「あ~~~~!!!!」
 自分のオレンジ髪をかきむしり、今しがた見た物を忘れようとする。
(ちがうちがうちがう!! あたしはあんな奴、好きじゃない~~!!)
 ぽこぽこぽこ、と、自分の頭を殴る。だが、夢の残像は消えそうにない。
「うう……」
 痛む頭を抱え、ビッテンフェルトはベッドで呻いた。
「……走ろう!!」
 そう宣言する。思い立ってすぐ、彼女はびょんとベッドから飛び起き、クローゼットの中からポイポイと服を投げ捨て、目当てのジャージを取り出して身につけた。そして、財布と携帯端末など、必要最小限の荷物だけを持ち、家を飛び出した。

 早朝の心地よい空気の中、ペットの散歩や、同じようにランニングする人々が目に付く。ビッテンフェルトは、やや遠くの広い公園までひとっ走りすることにした。
 軽く息を切らし、広い公園に辿り着く頃には、不愉快な夢のことなど忘れていた。普段からトレーニングはしているが、たまには屋外で軽く走るのも良いものだ、と、彼女は考えていた。
 だが、今一番会いたくない相手とバッタリ出くわしてしまった。
(神よ、あたしがそんなに嫌いか!?)
 目の前にはその相手、オーベルシュタインがいた。私服姿でリードを片手に、ダルマチアンを従えている。ミュラーの言っていた例の犬の散歩中だったらしい。
「……オーベルシュタイン」
「ごきげんよう、ビッテンフェルト提督」
 先日の求婚と同じような調子で、オーベルシュタインは淡々と挨拶した。その後は一言も付け加える様子なく、ビッテンフェルトとすれ違い通り過ぎようとする。
「ちょ、ちょっと待て」
「なにか?」
 呼び止められ、オーベルシュタインがくるりと振り向く。行儀の良い彼の犬も、主人を待って大人しく止まった。
「あたしに何か……あるだろ? なあ?」
「……いや。もう、何も」
「『もう何も』って……おい、待てって!」
 ふたたび立ち去りかけたオーベルシュタインを慌てて呼び止める。
(なんだ!? なんだコイツ!? この前は突然、け、け結婚を申し込んでおいて、なんだこの態度は?)
「こ、この間の。返事、を、聞きたいのでは、ないのか……?」
 仕方なく、ビッテンフェルトは自分から申し出た。自分の口から出てきた言葉が信じられず、彼女はまた赤面する。
(これでは、求婚に応じるようではないか!?)
 だが、オーベルシュタインは首を左右に振った。
「返事はもう理解した」
「理解した?」
「ああ、『Nein』と理解した。予想はしていたし、これ以上同じ事を言うつもりはない。以上だ」
 そして、再び立ち去ろうとする。頑なに去ろうとするオーベルシュタインを、ビッテンフェルトは相手の腕を掴んで留めた。
「返事は、……まだ、していないだろう! 勝手に決めるな!」
「ほう。では『Ja』だと?」
「そうは言っていない!」
「なら『Nein』で良いはずだ。何がそうも気になるのか」
「いや、だめだ! なぜだ? どういうつもりで、あたしにけっ…結婚なんて! 理由を説明しろ! 話はそれからだろうが!」
「理由?」
 オーベルシュタインがゆっくり振り返り、きちんとビッテンフェルトに向き直る。
「卿が好きだからだ」
「はっ……!!?」
 ビッテンフェルトの顔がカアッとますます真っ赤に染まる。口をぱくぱくさせるものの、彼女はしばらく声を出せなかった。
「……だが、卿は私が嫌いだろう。把握している。求婚などされて、目を合わせることすらしなくなるほどに。……だから、もうよい。これでよいな? この話は終わりだ」
 オーベルシュタインが腕を振り、噛みつくようなビッテンフェルトの手から離させる。そして、踵を返し、進行方向へと散歩の続きにかかった。その後に、黒ブチ模様のダルマチアンが続く。
「……おっ、」
 ビッテンフェルトがやっと声をあげる。オーベルシュタインは一瞬歩みを止めたが、振り返ることなく歩き続けようとした。
「お付き合いからお願いします!!」
 ビッテンフェルトがそう続けた。オーベルシュタインは驚きに義眼の両目を小さく見開き、振り返った。
「……なんと?」

 こうして、奇妙なカップルはお付き合いを始めることとなった。