あなたを見捨てない
その1

 理想の建国のために、必要とあらば主君もすげ替える。私はそうする。
 そういう緊張感を彼に持たせることが、私の役割。本当のところは、彼を見捨てることも、彼の代わりを見つくろうことも、私にはできないのに。

 そして、最期の時がやってきた。彼を連れ去るものは、戦争でも陰謀でもなく、病気だった。
 私は、先に行って、彼を待つことにした。天上でも彼と共に、というのは相手に迷惑かもしれない。だがせめて、かの赤毛の親友の元まで送り届ける、船こぎくらいは務めても構わないだろう。

 そのようなことを私は考え、薄れゆく意識を見送った。

      ***

 天上というものが絶対にあるとまでは信じていなかった。とはいえ、ここまで何もないまま現世に戻されてしまうのか、と、意外な思いは禁じ得ない。
 そこは、少なくとも、前世と同じ時代の世界ではなかった。未来の世界だろうか? それとも、過去の世界なのだろうか? はたまた、まったく異なる次元に存在する、前世とは関係のない世界であるのかもしれない。
 しかし、天国や地獄に類する世界でもなさそうであった。そこには生があり、死があり、人生があり、社会があった。天使は宗教的絵画の中にあり、悪魔は特定の人々のみが存在を主張する。それらについては、前世と同じといっても差し支えなかった。
 前世の記憶は、うっすらとした夢のように私の中に残っていた。それは、前世の記憶であるかもしれないし、単なる思い込みか、脳神経のいたずらであるかもしれなかった。そして、そのいずれにしても変わらず、私は今の私として生きていくのみである。
 前世の記憶(仮)に比べ、今の私の暮らしは、よくいえば平凡に幸福であり、悪く言えば退屈であった。ある夫婦のもとに生まれ、日常的な幸福と悩みに揺れながら過ごして成長し、そしてひとり立ちした。暮らしに不自由はなく、余裕を持てる程度の稼ぎはあるが、社会にとって特に重要という訳ではない。目立たぬ存在として生きていた。

 前世の記憶、あるいは只の夢であったものが『確かに前世の記憶である』と確信できたのは、ある日の帰宅途中、とある浮浪者の青年を目にしたときのことであった。
 彼は、駅構内の隅っこに座り込み、うすよごれた身なりをしていた。うつむいた顔は地面を向き、悲壮感を漂わせている。道行く人は、彼がいないかのように通り過ぎていく。自分も、あるいはそうしていたかもしれない。
 だが、それは、〝彼〟だった。
 まばゆい黄金の髪、研ぎ澄まされた蒼氷色の瞳、白磁の肌……何者よりも優れ、美しく、そして純粋で脆くもあった軍神――ラインハルトだと、私にはすぐに分かった。
 そして、気がつくと、私は彼のすぐそばに近づいていた。知らない振りをして通り過ぎるには、近すぎる距離である。うつむいていた青年は私に気づき、目をこちらに向けた。
 鋭い眼差しだった。だが、威厳ある獅子王の目ではなく、傷ついた獣の目を連想させるものであった。
「……なんだ」
 うなるように、彼が問いかける。
「……どうした? 具合が悪いのか?」
 私はまず、そう話しかけた。いかにも浮浪者ふうとはいえ、実際そうとは限らない。それに、まさか、『前世で皇帝陛下であらせられましたか』などと尋ねる訳にもいかない。
 青年は、緩慢に首を横に振った。
「帰るところがないだけだ……」
 それを聞き、自分の口を突いて出てきた言葉は、自分でも信じられないものであった。
「では、うちに来るかね?」
 金髪の青年が眉を寄せる。当然だ。見ず知らずのこぎれいなスーツ姿の中年男がそんな提案をしてきたら、裏がないと思うほうがどうかしている。
「あんたも、おれを買いたいってクチか?」
 青年は、自嘲まじりに言った。転生した彼もまた美しく、そういった提案をしてくる輩が多くいるのだろう。
 私は、首を横に振った。
「そういうつもりは、ない。ただ、困っているのなら、助けになれればと思ってね」
「それで? あんたに何の見返りが?」
「もし君が助かるのなら、『君を助けられる』という見返りがある」
 青年は、フン、と鼻息で応じた。そのような善意は信じない、といった様子である。
 その考え方については、自分も同意見だったので、特に訂正しようとは思わなかった。しかし、嘘をついた訳でもない。乗るかどうかは、彼次第だ。
 しばらくすると、青年は立ち上がった。
「いいぜ。あんたの家に行ってやる」
 浮浪者の青年は、尊大な態度でそう宣言した。

      ***

「ここだ」
 私は、転生したラインハルトを連れ、現世の自宅へ帰った。今の家は、勤め先から近い賃貸集合住宅の一室で、さほど広い訳ではないが、客を泊められる部屋はある。
 玄関の鍵をあけ、先に入るようラインハルトに促す。ラインハルトは、きょろきょろと玄関周りを品定めしたあと、ぞんざいに汚れたスニーカーを脱ぎ捨て、中へと入っていった。私も、玄関の内鍵をまわし、彼の靴を整えて置き直したあと、つづいて自宅に入った。
「先にシャワーを浴びるといい。服は、……サイズが合わないかもしれんが、とりあえず私のを貸そう。夕食は何が食べたい?」
「……ピザ」
「ピザか」
 ぶっきらぼうな応答を聞き、私は、チラシをしまってある抽斗から、近所のデリバリー・ピザのチラシを探して取り出した。それを、ラインハルトに差し出す。
「何が食べたい? 選んでくれ」
 ラインハルトは、青い瞳でじいっとチラシを見回したあと、「これ」と言って、一面に載っている最も高価なメニューを指さした。
「あと、ポテトと、コーラ」
「わかった。注文しておこう。風呂場はこっちだ」
「ん」
 風呂場の場所を教えると、ラインハルトはのそのそとそちらへ向かった。少し経つと、シャワーの水音が響き、湯気が漂ってくる。
 私は、電話をとり、今しがたラインハルトに言われたメニューを注文した。それから、ラインハルトが眠れる場所を用意するべく、倉庫代わりにしている部屋を片付け、客人用のエアベッドを膨らませ、シーツと枕、毛布を載せた。洗ってある下着とシャツ・スウェットなども取り出し、ラインハルトのために風呂場へ置いておく。
 そうして一通り準備したあと、ネクタイすら外していなかったことにようやく気づき、鞄の片付けや携帯の充電などを済ませた。自分のことすらすっかり忘れ、ラインハルトにかかりきりになっていたことに、今更ながら自嘲する。
(私は、何をやっているのだろうな。そもそも、これが前世の記憶である保証もなく、仮に前世で縁があったとして、現世でこうも世話をする義理もないだろうに……)
 そう、頭では思うのだが、だからといってラインハルトを追い出そうだとか、明日にでも出て行って貰おうだとかは、まったく考えられないのであった。

 ラインハルトがシャワーを浴び、借りた服を着て頭を乾かしながらテレビを見ていると、家のチャイムが鳴った。頼んだピザが届いたのだ。
 私は、外門の鍵を開け、玄関でピザを受け取った。それを持って居間に戻り、テーブルに箱を開けて並べる。それと、コップと皿、フォークを持ってきて、ラインハルトのいる側に並べた。ラインハルトは、こちらに見向きもせず、夜のバラエティー・ショーをボンヤリと眺めていた。
「準備できたぞ。テレビも、冷蔵庫の飲み物も、好きにしてもらって構わない」
「…………」
「私の分は、残さなくてもいい。夕食の作り置きもあるから」
「…………」
「そっちの部屋に、寝床を用意した。眠くなったら、好きに寝てくれ」
「…………」
「私も風呂に入る」
「…………」
 ラインハルトは返事をしなかった。私は気にせず、自分のシャワーを済ませるべく、着替え室に入って扉を閉めた。
(母親か?)
 湯を浴びながら、自分で自分に思わず問いかける。
(私は一体どうした。いくら前世で縁があった気がするとはいえ、見ず知らずの浮浪者の青年を、こうもかいがいしく……)
 考えつつ、頭を振る。
(今更そんなことを考えても仕方がない。なにも、彼に乞われた訳ではない。私が申し出て、彼はそれを受けただけ。なんら責めを負う義理もない……)

 シャワーを浴びて戻ると、テレビは消され、ラインハルトの姿はなくなっていた。テーブルの上には、食べられたピザとポテトが少し残り、使った食器がそのままになっている。
 私は、ラインハルトの姿を探した。トイレは使われていない。だが、割り当てた寝室にも姿はない。もしやと自分の寝室を覗き、私は肩を落とした。
 ラインハルトは、私のベッドで寝息を立てていた。
 私は仕方なく、明日の支度を済ませた後、エアベッドに横たわった。そう悪くない寝心地であった。