あなたを見捨てない
その2

 翌朝、携帯のアラームで目を覚ました。視界に入ってきた光景は、見慣れない。いつもの寝室ではなく、倉庫部屋で昨晩眠ったのだ、と、少しして思い出した。
 居間に出て、洗面所で顔を洗い、髪を梳かす。シャツとジャケットを取るため、静かに寝室へ入ってみると、ラインハルトはまだ眠っていた。
 支度を調えながら、『ラインハルトをどうしようか』と考える。『家を出るな』というのは非人道的であるし、外食する金もそう持っていないだろう。
 私は、スペアの鍵と、現金紙幣を数枚、それとメモ書きをテーブルに残した。
『仕事に出る。金は、食事等に好きに使って構わない。家に居るときも空けるときも、かならず鍵をかけておくように』
 そう書き残し、出勤した。

      ***

 仕事を早めに切り上げ、帰宅の途につく。
(ラインハルトは、まだ家にいるのだろうか)
 集合住宅を外から見上げると、自分の家に明かりが灯っていることがわかった。
 外門と玄関に鍵を通し、帰宅する。居間からテレビの音声が聞こえた。中に入ると、金髪の後頭部が視界に入った。
 くしゃっとした頭が振り向き、蒼氷色の瞳が私をとらえる。
「……おかえり」
「ただいま」
 一宿数飯の恩への返礼はその一言だけで、彼の視線はすぐテレビに戻されてしまった。だが私は、不思議なことに、ただ彼がまだそこに居たというだけで、異常なまでの安堵をおぼえていた。
「夕食は?」
「まだ」
 テレビを見つめたまま、彼が応じる。
「では、今日は作り置きを出す。それでいいか?」
「ん」
 ラインハルトが頷いたのを見て、私は、鞄やジャケット、ネクタイ等を片付けたあと、夕食の支度にとりかかった。週末に作り置きしておいたおかずを2食分あたため、2人分の皿に盛り付ける。ごはんは、いつもの2倍炊いた。
「できたぞ」
 配膳し、呼びかけると、ラインハルトはテレビの電源を消し、のそりと立ち上がって、食卓へやってきた。
 蒼氷色の瞳が、食卓に並んだ皿たちを走査する。特にコメントしないまま彼は席についたが、なんとなく、夕食を気に入ってくれたような様子がうかがえた。
 私も席につき、彼と向かい合って箸をとる。食卓の椅子は2つあったが、この家で誰かと食事するのは初めてのことだった。そして勿論、このような距離感でラインハルトと食事したことは、前世では一度もなかった。
(さて。今世の彼は、前世とは違う意味で込み入っているようだが、どれくらいの質問ならしても構わないだろうか……)
「今日は、昼間なにか食べたか? 適当に置いていったが、金は足りたか?」
 ラインハルトは、首を横に振った。
「使ってない」
 ラインハルトが、目線でテレビの方を示す。そちらを見ると、彼に貸したスペアの鍵と、食費にと与えた紙幣がそのまま残っていた。
「なにも食べなかったのか?」
「ん」
「なぜ?」
 少しためらったあと、ラインハルトは小さな声で答えた。
「……外に出るのがいやだった。誰かと話すのも」
 それから、彼は猛然と夕食を口に運んだ。さぞ空腹だったのだろう。
「そうか」
(私が想像していた以上に、今世の彼は、こまった状況にあるらしいな……)
 これまでに観察したかぎり、あの赤毛の親友には再び巡り会えていない、あるいは、出会ったが上手くいっていないだろうとは予想していた。その辺りを確認したいところだった。
 しかし、この状態を見るに、親友に巡り会う・会わない以前に、今世への適応に相当難儀しているようだ。
「君は、明日もうちに居るかな?」
 そう尋ねると、ラインハルトはこっくりと頷いた。
「あんたが『出て行け』と言わないなら」
「そうか。では、明日は君の服を買いに行こうか。それと、髪が随分のびているな。私もそろそろ切ろうと思っているので、よければ一緒に理容院へ行こう。それなら、どうだ? 外に出られるか?」
 ラインハルトは、しばし思案したのち、またこっくりと頷いた。
「よし。その後、外で何か食べようか。何が食べたい?」
 蒼氷色の瞳が、ぱちぱちと瞬きする。そしてまた、しばしの思案のあと、彼は「……ステーキ」と控えめに答えた。
「ステーキか。久しぶりだ」
 肉や脂は胃にもたれるので、焼き肉屋やステーキハウスといった類いの店には、ざっと十年は行っていない。一人前を食べきろうとすればもたれるであろうが、食べ盛りのこの若者に半分渡せば喜ぶだろう。
 それに、良質な肉類は、精神の回復にいいと聞く。彼の身体が回復を求めているなら、良いことだ。

 夕食を済ませた後、食器を流しに置くようラインハルトに言うと、彼は素直に従った。その後、ラインハルトに先に入浴するよう言い、自分はその後に続いて済ませる。
 風呂を出る頃、案の定、ラインハルトは私の寝室のベッドで横になっていた。私はまた、倉庫部屋のエアベッドで眠りにつくことにした。

      ***

 翌日は休みだった。エアベッドから身を起こし、朝の支度を済ませている途中、ラインハルトもぼんやりと起き出してきた。
「起きられたか」
 彼は軽く頷き、洗面所へ向かった。水音が響き、彼も顔を洗っているとわかる。
 ラインハルトの元の服の洗濯が済んでいたので、それを着させた。来る前に比べれば清潔にはなったが、着古されているせいで、どことなく汚らしい印象をうける。
「新しい服が手に入ったら、その服はもう捨てた方がいいな。靴も」
 そう言うと、ラインハルトは頷いた。特に思い入れのある品ではなく、たんに経済的理由などで着古していたのだろう。
 ラインハルトの支度が済むと、私たちは家を出た。

 まずは、ラインハルトを連れ、近所の大型服飾品店に向かう。安価だが丈夫で無難なデザインの服が多くある店だ。
 彼の服のタグでサイズを推定し、いくつか服を見つくろう。無意識に相手の着る服を勝手に選んでいたため、「君の欲しい服を選んでくれていいぞ」と申し出たが、彼は首を振った。
「興味がない。どれでもいい。あんたが選んでくれ」
 それなら、と、色々と服を彼に当てて選ぶ。顔もスタイルも、その辺の大判ポスター・モデルより余程美しいので、どれも悪くない。だが、彼に似合いそうなもの、使いやすそうなものを選び、彼と一緒に試着室へ押し込んだ。
 試着室の前に立ち、中からガサゴソと着替える音がするのを聞く。
「どうだ?」
 そろそろ着ただろうタイミングで声をかけてみると、カーテンが開いた。
 自分の見立ては悪くなかったようだ。よく似合っている。
「いいな」
「そう」
「ああ。それを買おう。他は?」
 それから、ラインハルトは、私の選んだ服を従順にすべて試着した。どれもよく似合っていたので、次々カゴに放り込む。
 ひととおり外出着を選んだ後、スウェットを数着、それと彼にぴったりの下着をひとそろい買うと、カゴは2つに増殖していた。車で来たので、運ぶには苦労しないだろう。

 次に、馴染みの理容院に向かった。予約時間にちょうど間に合い、馴染みの主人は我々二人を笑顔で迎えてくれた。
 だが、ラインハルトは怯えたように顔を伏せ、相手に目を合わせようとしなかった。
「彼は少々、対人に悩みを抱えていてね。最低限の受け答えはできると思うので、雑談などは特にせず、きれいにしてやってくれないか」
「あいよ! わかりやした」
 店長が胸を叩いて快諾する。
 ラインハルトは怯えている様子ではあったが、理容椅子には問題なく座り、おとなしく髪を切られるには問題なさそうであった。
 自分も髪を切ってもらい、仕上げを済ませて会計するころには、ラインハルトの金髪は短く整えられ、つやを帯びて輝いていた。その輝きに、店の女性従業員たちも何度となく目を奪われている様子であった。

 その後、助手席にラインハルトを座らせ、車を発進する。次は、ご要望のステーキハウスだ。今日、外に出て初めて、彼の蒼氷色に輝きが宿ったように見えた。
 席につき、注文したステーキが目の前に並べられると、ラインハルトが嬉しそうな顔を浮かべた。今世で出会ってから一番いい表情だった。
 熱々の鉄板の上で、巨大な肉塊がジュージューと音を立てる。そろそろ食べ頃、となったところで、ラインハルトがナイフとフォークを取り上げ、それを切り崩しにかかった。
 肉の欠片を大きく切り取り、彼が口に運ぶ。美しい唇の中に肉が収まり、閉じられると、白皙の肌がほのかに色づき、花開くような笑顔が彼の顔に広がった。
「おいしい!」
 おもわず、こちらも笑っていた。自分はまだ食べていないのに、彼の顔を見ているだけでお腹いっぱいになりそうだった。
「半分、よかったら食べてくれ。年のせいか、こういうものを全部たべきれなくてね」
 そう申し出ると、ラインハルトの顔はますます輝いた。
「いいのか?」
「ああ。そら、どうぞ」
 半分にきった肉塊をナイフとフォークで支え、ラインハルトの皿にのせる。ラインハルトは顔をまた輝かせ、よろこんでそれを切り崩し、口に運んでいった。

「ありがとう」
 食事を済ませた後、ラインハルトは、出会って初めて、礼の言葉を口にした。
「どういたしまして。喜んで貰えて、私も嬉しい」
 私がそう応じると、ラインハルトは何やら眉を寄せた。
「うん?」
「……その。お前の名前は?」
 それを聞き、私は数秒かたまり、そして軽く吹き出した。
 そうであった。この3日弱の間、住まいを共にした仲だというのに、自分たちはお互い名乗ってすらいなかった。
「私は、オーベルシュタイン。パウル・フォン・オーベルシュタインだ。フォンと付いてはいるが、今は名ばかりの貴族で、実質庶民だ。よろしく」
 手を差し出す。ラインハルトは、その手を握り返し、握手に応じてくれた。
「君の名前は?」
 尋ねると、ラインハルトは首を振った。
「おれには名前なんてない。好きに呼んでくれ」
 溜め息ひとつつき、ラインハルトが応じる。
 そう言われるのであれば、私からはこう呼ぶ他なかった。
「それじゃあ、君を『ラインハルト』と呼ぶ」
「ラインハルト、か。……ああ、わかった」

 こうして、ラインハルトと改めて呼ぶようになった彼との同居は、もうしばらく続けられることとなった。