あなたを見捨てない
その3

 オーベルシュタインの今世の両親は、そろって頭を抱えて悩んでいた。今しがた、これまで一度も彼らを煩わせることのなかった、たいそう優秀で大人しかった孝行息子が、生まれて初めて彼らを心底悩ませていたのである。
「どうしましょう、あなた……」
「どうって。お前はどう思うんだ?」
「わたしに決めろと言うの? そんなの、知らないわよ」
 彼らを悩ませていたのは、その息子のある懇願であった。
『私がラインハルトと呼んでいる、機能不全家庭出身の青年がいるのだが、彼を養子に迎えて欲しい。そうすれば、義理の弟ということで、正式に扶養家族として迎えられる。世話はすべて自分がするから』
「誰なのその子!? どういう関係なの!?」
「愛人か? 愛人なのか、パウル! どういうことなんだ!?」
「世話をするからって何!? ペットじゃないのよ!?」
 両親は、思いつく限りのありとあらゆるツッコミを入れた。だが、納得のいく説明を息子がしてくれることはなかった。
『一生のお願いだ。たのむ』
 一度も我が儘を言わなかった息子は、これ以上なく理解不能な我が儘を初めて言い続けた。

      ***

「両親が合意してくれた。あとは、君の父親に話をつけるだけだ」
「よく了承してくれたな」
 オーベルシュタインがラインハルトに報告すると、ラインハルトは意外そうに形の良い眉をあげて応じた。オーベルシュタインも、『その通りですな』と応じるように頷く。
「一応、『良い子』を随分やってきたから」
「ふうん。おれとは大違いだ」
「環境の違いだ。良い両親だったから、そうしたまで。君は悪くない」
 オーベルシュタインがそう応じると、ラインハルトは鼻息をふんとひとつつき、またテレビに視線を戻した。
「そこまでするなんて、どうかしてる。そんなにおれを大学に入れたいのか」
「君には、才能がある。この世界では、肩書きだけでも学歴がないことには、色々と不便だから。それに、君なら何かしら、将来に役立つ経験も得られるだろう」
 ラインハルトが、ふたたびオーベルシュタインに視線を向ける。
「お前にそこまで分かるのか? ほんの少ししか一緒にいないのに」
「ああ、わかる。信じなくてもいいが。どうしても大学がイヤだと言うのでなければ、行って損はないだろう? 学費は全額さしあげるのだから」
 オーベルシュタインにそう言われると、ラインハルトは躊躇いがちに頷いた。だがすぐ、蒼氷色の瞳を細くする。
「本当に、何も見返りはいらんと言うのならな。タダほど高いものはない、というじゃないか。お前の目的はなんだ?」
 そう問われると、オーベルシュタインは、考え込むように視線を天井に向けた。しばらくそうしたあと、ラインハルトに視線を戻す。
「いい質問だ。……しかし、私にもよくわからない」
「はあ? なんだそれは」
 ラインハルトは片眉をつりあげ、素っ頓狂な声をあげた。
 高校を中退したラインハルトのために、高卒認定の費用を負担するだけでなく、それまでの生活費の面倒をみて、大学にもやると言うのだ。かなりの金額になる。実の息子か何かでなければ、到底支払わないような金額だ。なのに、理由がないなどとは考えられない。
「おれを……その……愛人か何かにしたいんじゃないのか。お前が、おれを買うつもりで家に入れたんだったら、従うふりをして、あそこを食いちぎってやろうって最初は思っていた。けど、その……今は……相手してほしいってんなら、その、そうしてやろうと思ってる。……親父よりよっぽど、大事にしてくれたから……」
 最後は消え入りそうな声で、ラインハルトはそう反論した。オーベルシュタインが彼を拾う前には、そういった申し出が後を絶たなかったのである。
 しかし、オーベルシュタインは首を横に振った。
「そういうつもりはない。君のことは、もちろん、非常に好意的に思っているには違いないのだが……そういう、汚らわしい真似はさせたくない。むしろ、そうしないことと引き換えに金を出そうとすら思う」
「どうして、そう思うんだ?」
 ラインハルトが追求する。オーベルシュタインは、首を捻った。
「わからない……」
「はあ?」
「誤魔化してはいない。だが……そうなのだ。わからないのだ」
 前世の彼は、命の恩人だった。叶わないと諦めた夢を復活させた象徴だった。理想の国の中心にいる存在であった。
 だが、今世の彼は何でもない。ただ、ひたすらに美しくはあるが、あわれな機能不全家庭の高校中退青年で、自分とは本来なんの関係もない。世話をする必然性は、何もない。
 何も無い、はずなのに、放っておけない。
 オーベルシュタインは微笑んだ。
「君を助けなきゃいけない理由は何もないはずなのに、きみが愛おしくて、放っておけない。でも、汚したいとは微塵も思わない。清くあってほしい。幸せになってほしい。……そうとしか言いようがない」
 彼の告白を聞いたラインハルトは、白磁の肌を仄かに染め、照れくさそうに顔を伏せた。こんな赤裸々な愛情を向けられたことは、彼の人生で初めてのことだった。
 視線をそらしたまま、ラインハルトは小さな声で言った。
「……なんかさ。おれにしてほしいこととか、ないのか?」
 その申し出を受けたオーベルシュタインは、しばし視線を巡らせ考え込んだ。やがて、彼は何か思いついたように瞬きした。
「では、君のきれいな髪を触らせてくれないか?」
「髪?」
 ラインハルトが、両目をぱちくりとさせる。
「そんなものでいいのか?」
「ああ、いい。ずっと、触ってみたかった」
 前世から、とは、オーベルシュタインは口にしなかった。
「いいぞ」
 ラインハルトが頷く。それを受け、オーベルシュタインは相手に近づいた。
 ソファに腰掛けたラインハルトの頭の高さに合わせて屈み、理容院で整えた美しい金髪に、おずおずと震える手を伸ばす。指先がその髪に触れると、どんな高級毛皮も叶わないだろう、やわらかく心地よい感触が伝わってきた。
 オーベルシュタインの目元が緩む。さも、極上の愉悦が得られたかのように。
「……嬉しそうで何よりだ」
 ラインハルトがコメントする。まさかこれほど喜ばれるとは予想できなかった。
「うん」
 惚けた声で、オーベルシュタインはそれだけ応えた。頭脳明晰な彼には珍しく、それ以上の説明をする余裕すら無い様子であった。
 髪を何度も梳かれながら、ラインハルトはふと思い立ち、自分の手をオーベルシュタインの頭に伸ばした。歳の割に白髪の多い頭髪が、ラインハルトの細く白い指で梳かれる。オーベルシュタインは、びくりと痙攣した。
「お前、意外と若いくせに、白髪が多いな。……でも、いい手触りだ」
 ラインハルトがそうコメントする。彼の口調はどうでもよさそうであったが、オーベルシュタインの反応は、どうでもいい状態に程遠かった。
 彼は両目をいっぱいに見開き、硬直した。ラインハルトの金髪を梳いていた手まで、硬直して動かなくなっていた。
「どうした?」
 尋常ではない反応を見て、ラインハルトは心配そうに尋ねた。自分の髪を触れさせているのだから、相手の髪も触るくらい、どうってことないと思っていた。
「…………」
 オーベルシュタインは無言だった。
「おい。そんなに嫌だったのか?」
 ラインハルトが更に尋ねる。すると、オーベルシュタインの口がようやく開いた。
「もう死んでもいい」
「おれは死なれたら困るぞ!!?」
 ラインハルトは、心底焦った様子でツッコミを入れた。

      ***

 オーベルシュタインが、今世のラインハルトを引き取ってから、幾ばくかの年月が過ぎた。
 今世では一人っ子だったラインハルトの元姉も、キルヒアイスも、探し続けてはいるのだがまだ見つかっていない。ラインハルトにも、それらしい人物の心当たりはないようだった。
 だが、彼はオーベルシュタインと暮らし、そこそこに人生の平穏を得られているようであった。
「いってくる」
 今日も大学に行くラインハルトがそう声を掛ける。オーベルシュタインは、いつものように覇気のない声で応じた。
「いってらっしゃい。気をつけて」

 彼らの平凡な暮らしは、これからもつづく。

Ende