氷の君と橙の中将
その1

 平安貴族の時代が終わりに近づき、武士の台頭が始まりつつある時代の出来事である。
 とある、帝に連なるやんごとなき血筋ではあるが、多くの公家と同様、財政難に陥り、断絶を目前にした家のひとつに、《氷の君》と呼ばれる世にも美しい姫君がいた。しかし、《氷の君》は人柄も氷のように冷たく、どのような身分の男からの文にも梨のつぶてであった。
 姫には兄弟姉妹がなく、その家の最後の人間であり、両親もとうに亡くしていた。どこぞに嫁ぐ、あるいは婿養子を迎えなかった場合、お家は断絶となってしまう。しかし、姫には嫁ぐ意志も、婿を迎える意志もないようだった。子供を作らず仏門にも入らず、乳母(めのと)と女房たちを相手に生涯を一人で過ごすつもりである、との噂もあった。
 我こそ姫を手に入れんと欲する男達の中に、今ひとり志願する者があった。彼は《橙の中将》という冠位を受けた武家の長男であり、栄達の真っ只中にある彼の家には、落ち目の公家からも下位の武家からも彼への縁談が殺到していた。それ故にか、大勢が憧れているものの、まみえることすら叶わぬ美貌の姫なるものを、自身の手に入れてみたくなったのである。
 うわさに名高い《氷の君》を手に入れたがっていると聞き、《橙の中将》の友人たちは彼をからかった。
「みにくい姫であったらどうする」
「やんごとなき血筋の姫が醜いものか。万一たえがたいほど醜ければ、手を付けずに帰ればよかろう。わびに、金子くらいは差し上げる」
「上流の公家の人間は、たおやかな美しいお手蹟(て)の手紙と、ゆたかな歌の教養がないと落とせないぞ。お前の字ときたら無骨で、それに詩歌は苦手じゃなかったか?」
「勉強して書く。それに、人と人が言葉を交わす以上、大切なのは心だろう? 歌の美しさで公家の男に遅れをとっても、込める情熱で引けを取らぬつもりだ」
      ***
「お姫様、本日のお文です」
「うん」
 女房が持ってきた手紙の山をちらと見やり、汚いもののように紙の端をつまんでぶら下げ、《氷の君》はすべてを一応は流し読みした。最後の手紙を読み終えると、その紙をぽいと山のてっぺんに戻し、
「もういい。下げてくれ。身分が高い方には、お前が返事をしておけ」
 と、女房に手振りした。そばに控えていた別の女房が眉間にしわをよせる。
「また、お返事のひとつもなさらぬのですか」
「ああ。時間の無駄だ」
「時間なら幾らでもございましょう」
「なら言い換える。労力の無駄だ」
 まるで気のない姫の応答に、女房はうめいた。
「身分の高い方も随分おいでですのに。何がそう気に入らないのです?」
「殿上人の時代は終わりだ。これからは、武士の時代がやってくる。どうせ終わるなら、当代を私で終えて何のさわりがあるのか」
「それでしたら、武家に嫁ぐのもよろしいではございませんか」
「私は生まれつき病弱だ。武家の欲しい強い子など産めんだろう」
 氷の君がそう応じると、乳母はよよよと袖を目にあてた。
「おいたわしや。生まれてよりお育てしてまいった大切な姫様が、ただお一人ではかなくなられてしまうだなんて」
 姫は乳母のそばにより、彼女の背をなでた。
「一人ではないよ。お前もいるし。なに、どうせ私も短命だ。なんなら、お前より早く亡くなるかも」
「まあ、そのようなことを」
 乳母はワッと声をあげた。姫は、眉を八の字にして困り顔をした。
「泣かないでおくれ。そうだ、今日はお琴を弾こうか」
 その時、手紙をひとつ持った女房が入ってきた。
「お姫様、武家ご長男の《橙の中将》様よりお手紙ですよ」
 それは、公家の手紙と異なり、季節の植物に結わえ付けられてもいないし、仰々しい塗り箱に入れられてもいなかった。紙も、手習いに使うような味気ない白紙である。
「ほう。果たし状か?」
「まさか、姫様に果たし状など渡しませんよ。恋文です。外用に出向いたとき、待ち構えていた家の者につかまりまして。『どうかよしなに姫様へお届けを』と、手土産の金子や、とびきり上等の新鮮な真鯛を何匹もと、栗や何やと一緒に渡されました。おかげで、夕餉はご馳走です」
「返事もしない内に鯛か、気の早いことだ。返事をやったら、次は赤飯をくれるかもしれん」
「わたくし、もち米も小豆も大好きですわ、姫様。どうか、返事を一筆さしあげてはくださいません?」
 無邪気に女房に頼まれ、《氷の君》は、噂よりも温かく微笑みかけた。
「よかろう。暇つぶしがてら、一筆かくとしよう」
「よろしくお願いしますわ」
 見るからに無骨な手紙は、中の字もまた無骨で、力を入れすぎた様が現れていた。それがまた可笑しく感じ、くすりと姫は笑ったが、なまじ見栄をはった文よりもかえって好印象を抱いた。
 内容もまた、歌の体裁はなしているものの、公家の男ならまず書かないであろう、直球であからさまなものであった。
『氷のように冷たいと噂のあなたの目と白い御手を、この目で見て触れて確かめたいものです』そのように読み解ける和歌であった。
《氷の君》は、高貴な血筋らしく合った色紙を選び、筆をとった。流水のような手蹟で文字が描かれていく。
『栄達はなばなしい武家のあなた様の御手は熱く、触れられたら氷の私は溶けて形をなくしてしまうでしょう』
 要するに、「いきなり会うのは、あるいは、お付き合いもお断りだ」という文である。それを季節の花にくくりつけ、化粧箱におさめ、取り次いだ女房へ持たせた。
「またお断りに」
 女房が嘆くと、姫はニッと笑って応じた。
「今夜の夕餉は鯛だぞ。それに、返事は赤飯を連れて戻るかもしれん」
 現金なもので、女房はそれを聞いて少し元気が出たようだった。
      ***
「おお、なんと美しい……!」
 戻ってきた文が、まず、立派な模様いりの手箱に入ってきたため、《橙の中将》はおどろいた。中を開くと、紫の花に淡い青の紙が括られている。
「公家とは、なんとも風流だな」
 その花は『実らぬ恋』を示すものであったが、彼にそこまでの知識はなかった。
 紙を開くと、これまた、清流のように美しい手蹟で文字が描かれていた。
「墨絵のようだ。かの《氷の君》の字は……」
 内容は、予想はしていたものの、彼にも理解できる「お断り文」であった。
「やはりか……」
 がっくりと肩をおとす。しかし、彼はめげなかった。
(いやいや。返事がまったくないことの方が多くあるというし、いざ返事がきても、女房からの文であるという。本人から文が来ただけでも、おれは一歩抜きん出ているはず。それに、こういうものは、長くやり取りして親睦を深めるものだ。一度や二度で諦めては、ある脈すら役立てられぬ)
「おれは諦めんぞ!」
 そう宣言すると、中将は、さっそく姫の真似事をするべく、まずは良い紙を取り寄せた。彼は、暖かな橙色の紙を使うことにした。括り付ける植物は、熱烈な愛に縁のある見頃の花を使う。箱は、向こうが使ったものを返した方がよいと考え、そのまま再利用することにした。
 内容はこうした。
『それではせめて、あなたに囚われ凍り付いてしまうと評判の美しさをまみえさせてほしい。それも叶わぬならば、寒さも忘れて聴き入るというあなたの声を聞かせて欲しい。それが叶うなら、竜宮の姫すら驚き声をなくさせる宝を揃えて差し出しましょう』
      ***
「まあ。お姫様、竜宮の姫すら驚かせる宝もくださるのですって。何をねだりましょう?」
「あまり多くねだっては、ことわりつづけた後にうらまれてしまう。かといって、ここまで申し出ているのに『赤飯でも』というのも言いづらい」
「良いではありませんか。この方に嫁いでおしまいになれば」
 気楽に女房が言うと、《氷の君》は、呼び名に違わぬ冷ややかな眼差しで彼女をにらんだ。女房が肩をすくめる。
「言っただろう。武家の望む子は、私には産めないと」
「お世継ぎなら、武家の正室に産んで頂けばよろしい。姫様が武士の下のお側室とは心苦しいですが、そうなされば、お望みのお家断絶も叶いましょう」
 乳母が言うのを聞き、《氷の君》はフウムと一考した。
「それに、私たちも一緒に雇って頂いて、毎日おいしいものが食べられたら幸せですわ」
 そう言われると、ではそうしようかと姫は思い始めた。自分亡き後、財産を分け与えるつもりではあるが、自分の都合で奉公人たちを路頭に迷わせてしまうことが心苦しかった。
「だが、どうする。『正室になれ』と言われたら」
「なればよろしいでしょう」
『当然』とばかりに乳母は応じ、『さもありなん』と姫は思い、笑った。
      ***
 戻ってきた文を読み、《橙の中将》は意味を考えた。それをにわかに信じられず、いまいちど読み直した。だが、他に解釈のしようがなかった。
『庭の藤が見頃です。馳走を頂いた御礼に、我が家の宴にお越し下さい』
 姫の家には、姫自身しか貴人がおられない。と、いうことはこれは、「自分に目通りしてもよい」という文に違いなかった。
「うおおぉぉおおお!!! やったあああぁあぁ!!!」
 中将が雄叫びをあげる。
 夜分の叫びに驚いた世話役が飛んできて、彼を叱りつけた。