氷の君と橙の中将
その2

「そろそろ文が届いたろうか」
「かの方にしては、お返事が遅うございますね」
「ふむ。すでに、他所の美姫に御心をうつされたか……」
「たのもぉーーーー!!!!」
 ふいに大声が轟き、驚いた姫と女房たちはビクリと身を震わせた。
「何事だ?」
《氷の君》が自問するように尋ねる。ほどなくして、表の護衛官や女房たちが騒ぐ声が聞こえてきた。
「中将どの、こまります」
「この先には姫様が」
「その姫様に宴のご招待を受けた! このお手蹟(て)を見よ!」
「確かに姫様のお手蹟ですが、こまります。約束なさって頂けませんと、こちらにも準備というものが」
 パァン! と、姫達のいる部屋の襖が開かれ、そこにいた女房二名と姫の三人が《橙の中将》の目に入った。
 姫は、高貴な女人らしく、サッと扇と袖で顔を隠した。みだりに姿や顔を見られてはならないのである。
 中将は、どれが姫であるか、もちろん見たこともなく教わってもいなかったが、召し物の豪華さで見当てていた。
「おお、《氷の君》どの。お初にお目にかかり、祝着至極」
「…………」
 姫は返事をしなかった。みだりに直接声を聞かせてもならぬしきたりである。だが、下級から成り上がったばかりの武家として育てられた中将は、そこまでの下調べが済んでいなかった。
「姫君、某は、《橙の中…」
「うぉのれ無礼者!! 姫様から離れろおおおお!!!!」
 血気盛んな男の武官が彼に踊りかかり、姫との間に立って槍を振り回した。中将もとっさに腰の刀を抜いたものの、武士に比べれば拙い公家武官に対し攻撃する気はなく、盾のように使って受け流すためだけに振るった。
「まてまてまて。某、確かに姫様よりお文を賜った者で、怪しいものでは」
「部屋を出なさい! 約束もなく押し入ってきて、姫様のお姿を見るなど、無礼千万である!」
「……《氷の君》?」
 困った様子で《橙の中将》は、武官の向こうにいる姫君に呼びかけた。へっぴり腰の武官など恐るるに足らぬが、勘違いで殺生をしたくはないし、何より、姫の奉公人を殺めるのも、姫の家を血で穢すのも御免である。
《氷の君》は、仕方なく、声をかけてはならぬという禁だけ、緊急の折ゆえ破ることにした。
『鶏の鳴かぬ内に朝日が昇っては、光に驚いて目覚めが悪うございます』
 姫が顔を隠したまま、そのような意の歌をその場で詠んだ。「まずは約束をしてからのお越しでなければ、快くお迎えできません」という意味である。
 歌に慣れぬ《橙の中将》は、意図を理解するため少々硬直した。間もなく理解し、剣を収めると、その場に両手両膝をついて深々と頭を下げた。
「申し訳ない!! まったくその通りだ。そんなことは、武家も公家も同じ話であるのに、いやはや、先走ってしまってまこと、申し訳ございません。あまりに嬉しくて。この場はおいとまし、今日のお詫びを必ずいたします。どうぞ、ご容赦を。失礼つかまつる!」
 そう宣言すると、すっかり肝を冷やして狼狽する女房、聞きつけて来た乳母にもそれぞれ会釈し、押し入ってしまった姫の家から《橙の中将》は出ていった。彼が他に何かせぬよう、見送りも兼ね、男である武官も共に出てゆく。
 しばらくして、ようやく女房たちや乳母が言葉を発した。
「……はぁ、まるで野分が吹き抜けたようですわ」
「まことに」
「なんとも粗暴で型破りな……」
 一転して、彼への印象を悪くした様子の奉公人たちとは別に、扇をおろした《氷の君》は、楽しげな笑顔を浮かべていた。
「しかし、気立ては良い。型破りな所も気に入った。あれぞ、今の世を栄達する者の振る舞いと見れば、真逆たる我らの没落も頷ける」
『自分たちこそ正統である』と信じる代々の奉公人たちは顔をしかめ、素直に姫に賛同できなかった。しかし一方、姫の意見に反論もできなかった。
「よろこべ乳母。私は少し、嫁入りをがんばる気持ちがわいてきた」
 乳母も素直には喜び切れなかったが、それでも出てきたのは「ようございました」という言葉であった。

      ***

 帰宅した《橙の中将》は、彼の世話役たちに
「贈り物だ。姫君が喜ばれる贈り物をありったけ用意し、かの家に運んでくれ! 無礼を働いてしまった! お詫びをしなくては。姫に嫌われるのはいやだ!」
 と、大声で頼んで回った。
「あれまあ。若様はすっかり《氷の君》にご執心らしい」
「向こうの方も満更でもないようで、なんでも、若君さまには初めて直々のお文を書いたとか」
「しかし、どうも向こうで騒ぎを起こしたそうな」
「おや。若君さまったら、お公家様の姫君を手篭めになすったのではあるまいね」
「何を言う、うちの若様がそのような無体をなさるか。……宴に招待するお文を頂いたと喜び回っておられたと思ったら、その日のうちに、伴を振り切らんばかりの早駆けにてお出かけになられて……もしやと思ったら、約束も取り付けずに家に押しかけたとか」
「おやおや若様ったら。そんな訪ね方をされては、貴賎を問わず皆こまるに決まっておりましょうに」
 若君こと《橙の中将》の奔放さには家の奉公人や領民たちすら呆れ、時には振り回され苦労させられることもあった。
 それでも、相手の貴賎を問わず思いやり深く、武人としても強い彼のことを、多くの者が好いていた。
 しかし残念ながら、公家の姫君に喜ばれる品など、家族も奉公人も領民も知らなかった。そのため、とりあえず奉公人たちが品物を考え、結果として、ご馳走の食材がその主体を占めることとなった。
 これが、意外にも《橙の中将》を、姫君むけの簪や召し物しか贈らぬ他の男たちから一線画させ、自らよりも奉公人を気にかける《氷の君》の目にとまらせたのである。
《橙の中将》は生まれて間もなく、領内の寺の坊主からある予言を受けていた。それは、『猛烈な強運』である。
 ご長男さまは、病気もせず力強く駆け回って、大きく育つ。一見向こう見ずである彼の駆ける先では、道なき荒野に石畳があらわれ、沼や川には橋のかかるがごとく、次々に幸運が訪れ行く道を開く。したがって、彼がどれだけ奔放に振舞っても、善悪の行いの躾をきちんとした後には止めなくともよい。
 かくして、《橙の中将》は今に至る。
      ***
「お姫様、中将どのを許しておあげになって」
「そうですわね。許しておあげになって」
 つい先日とは打って変わって意見を翻した女房たちを見て、《氷の君》は品なく声を立てて笑いそうになった。
 あれからまた、《橙の中将》から贈り物がわんさと車で運ばれてきた。それらは、見栄っ張りの武家やすました公家男の贈る、姫だけに向けられた唐物の道具や西陣の染物などではなく、奉公人ともども皆で食べることを想定した、大量のご馳走であった。
 ためしに「女房がお赤飯を食べたいと申しています」と書いてみたところ、もち米と小豆がわんさと贈られた。ついでに、真鯛もまたもや車に載せられていたし、上等な清酒まで大瓶で幾つか載せられていた。
《氷の君》自身は酒を嗜まなかったが、奉公人のうち酒好きの者たちは大いに喜び、お裾分け賜った酒を飲んだ。
「御所の華やかなる時でも、まるで正月の祝いだ。こんなによこして、《橙の中将》どののお家は平気なのかと心配になってくる」
 ちょっとした宴が自然に発生した家で、酒と鯛と赤飯を口にして上機嫌の女房たち・乳母に向かって姫が言う。仮にも一家の主人である身としては、気になるところだった。
「大丈夫でございましょ。中将どののぉご領地ったらぁ、毎年のように豊作でぇ、金脈までお当てになられてぇ、おまけに異人との交易をいち早くなすったぁおかげでぇ、いち領民でも貧しい公家を超える景気の良さってぇ聞きますぅ。あははは!」
 すっかり出来上がり、舌っ足らずの女房が楽しげに言う。《氷の君》は眉をひそめつつ、『なるほどそうか』と合点した。
「わたくしも、わたくしも。姫様が輿入れなされたら、ご主人様になられる殿方ですからね。色々うかがってまいりました」
「ぜひ聞きたい」
《氷の君》は女房に促した。すると、家中から集まった女房たちと乳母は、口々に聞いた噂を披露し始めた。
「《橙の中将》どのは、生まれついて仏様に豪運を予言さずかった男子(おのこ)だそうで。その証拠に、世人にも父君にも荒唐無稽としか思えぬ中将どのの思いつきを試すと、あっという間に領地に富がうねるようになったとか」
「金脈の堀場所も交易も、中将どののご発案とか」
「もとは無位無官の武家のご長男が橙中将の位を授けられたのも、権威おとろえ手元不自由となる一方の殿上へ、その運気を僅かでも分け与えてもらおうとした、帝のご意志であるとか」
「しかし、殿上で帝を拝謁したのは1回きり、橙の御所衣を纏ったのも1回きりですって」
「それというのも、お声がうるさくて、宮中みな耳鳴りに悩まされたからだそうで。……実物を知らねば『呼びつけておいてなんと身勝手な』と思うところですが、確かにねぇ」
「なに、御所は声がこもるのですわ。中将がご生家はあまりに広く、小さいお声では聞こえぬに違いありますまい」
 広間に笑い声が響く。《氷の君》は微笑んだ。このように皆たのしげな宴は、お家がまだ栄華を極めていたとき以来である。
(皆、これからの未来に希望をいだき、浮き足立っているのだろう)
 そう、姫は推察した。

 自分がしくじれば、この賑わいも水泡に帰する。

 その事に気づき、姫は凍りついた。急に手が震えはじめ、箸でつまんでいた赤飯を零してしまった。
「あら、お姫様、もったいない」
「……ああ、すまん」
 召し物についてしまった米粒を、女房がひょいと拭いとる。
「お姫様が粗相なさるなんて珍しいですわね」
「……うん」
 返事はしたが顔を青ざめ、うわの空の様子であった。
「お姫様? どうされました? お加減が悪そうですわ」
「ああ。その……食べ過ぎたかもしれん。そろそろ休む。閨の用意を頼む」
「承知しましたわ。まあ、月がもうあんなに高い」
「あら。楽しくてあっという間にでしたね」
「皆、おひらきー、おひらきよう」
 女房の掛け声に応じ、《氷の君》の内輪の宴は終わった。

      ***

 床についた後も、《氷の君》は寝付けなかった。
(ああ、おそろしい。皆の先行きが私の肩にかかっている。破談になったとて、元の生活に戻るだけだが……)
 姫は、極めた栄華を転落するの痛みを知っていた。今の暮らしは十分なものでも、一度贅沢を知ってしまうと、もはや生活の質を下げることはできぬもの。亡き父も、過去の栄華の夢より最期まで醒めること叶わなかった。まして、奉公人たちの失望はいかばかりだろう。
(まるで、帝の寵愛を争う女御の気分だ。入内の折には典侍(ないしのすけ)として、お手つきなど期待せず仕事に勤しみ、身分の低い者どうし組香や和琴などして遊び、なんとも気楽なものであったのに)
《氷の君》は、ほんの2年だけ内裏に入り、もっぱら事務の担い専門として典侍を勤めていた。とはいえ、《橙の中将》と異なり、帝のご尊顔を拝したこともない。当世の帝は既に病で伏せっており、入内の2年後に逝去、《氷の君》も宿下がりとして実家に戻ることとなった。
 当時は、帝の寵愛も御子も賜ること叶わず、途方にくれた身分やんごとなき女御たちを憐れに思ったものである。
(それが、今度は他人事でなくなるわけだ。《橙の中将》に、なんとしても娶って頂かねばならぬ)
 床でそのように緊張を高める姫を盗み見て、乳母もまた、顔を青くして緊張を高めていた。

      ***

「お姫様、お姫様。こちらを。食べ物の奥に隠れておりました」
「うん?」
 翌朝、女房が持ってきた箱を開けると、そこには文が一通と、櫛がひとつ収められていた。
『男子である私には櫛の良し悪しを測りかねますゆえ、あなたにと姉に選んで貰いました。気に入って頂ければ幸いです』
 それは、公家の姫が使うには質素な、しかし武家の女性が使うには確かに合いそうな、柘植に燈花模様を散らした櫛であった。
「おや……」
「良い櫛とは思いますが、お姫様には少々安っぽいですね。金物ではなく、塗りもなく、木目が剥き出しの櫛だなんて」
「いや。私はとても気に入ったよ」
 微笑みながらそう言うと、《氷の君》はいとおしげに櫛をなで、表裏を返してじっくり観察し、それから、今日つけていた櫛と取り替えて身につけた。
「鏡」
「はい」
 女房が鏡を掲げ、《氷の君》が覗き込んだ。自らの頭髪に差し込まれた、見慣れぬ簡素さの櫛を嬉しそうに見つめる。
「似合うか」
「お姫様が身につけると、どんなものでも尊く見えますわ」
「そうか」
 つけるだけでは飽き足らず、そのまま頭に手を伸ばし、また櫛をなでる。
 この一見野暮ったく、しかし木目の温かな櫛は、まるで《橙の中将》そのものに見えた。
「中将どのの姉上は、きっと弟御とよく似ておられるのだろうな……」
「父母と姉と弟の4人ご家族だそうです。中将どのが4人おいでと思うと……まあきっと、賑やかさに困る日はないでしょうね」
 やや皮肉まじりに言う女房の声を聞き流しつつ、《氷の君》はフウムと思案しはじめた。
「中将どのは宴にお招きするからよいとして、姉上様に御礼をお贈りするとしよう。これほどの馳走に報いねば失礼であろうし、櫛や簪ならば沢山ある。磨いて包んでお送りしよう。準備してくれ」
「はい」
 倉庫へ向かった女房を見送り、姫は一人つぶやいた。
「まずは、外堀を埋めるとしよう」
 朝の庭に目をやる。宴にふさわしく、庭木は整えられ、藤の花も雅に咲き誇っていた。
 ここに、運命をかけた勝負の刻がやってくる……。