氷の君と橙の中将
その3

「あ、こりゃあ不味い」
「えっ!? 姉ちゃん、この簪いやなのか?」
《橙の中将》こと、弟は両目を見開いた。簪のことは分からないが、目の前の盆にずらり5本ならんだ金の簪は、男子の自分の目にも素晴らしい品に見えた。
 姉は首を横に激しく振って否定した。
「ちがう! あたしの選んだ櫛がだよ。これじゃ『わらしべ長者』で『わら』を直接『千両』と換えたようなもんだ。まいったね、こんな簪持ってる《氷の君》相手じゃ、かえって迷惑だったかも」
「はあぁあ!!? なんだそれは! どうしてくれる!?」
「あぁ!? なんだその態度! そんなら手前が選んだらよかったろ!」
 姉弟の声が大きくなる。彼の姉は、女子(おなご)らしい模様入りの着物とはいえ、名ばかり武家姫だった頃同様の木綿を着ており、薙刀を自在に振るう腕には、立派な筋肉がついていた。
「あんたら、何を騒いでる!? うるっさいわ! 通路まで聞こえて、奉公人たちに笑われてるでしょう!」
 姉弟に負けない声量で怒鳴りつつ入ってきたのは、この領地の大奥様こと、二人の母であった。彼女は、栄達と共に身なりこそ武家の奥方らしく変化したが、中身は肝っ玉母さんのままであった。
「母さん、見てよこれ」
「……あらまぁ! 素敵な簪じゃない。都のお公家様みたい。これどうしたの?」
 母は、盆から簪をひとつ取り上げ、惚れ惚れと眺めながら言った。
「そう。これ、《氷の君》様が送ってくれたんだよ。あたしが選んで、うり坊から贈った櫛の御礼にってさ。あたし、柘植の櫛なんて選んだから、どうしようって。迷惑だったかもって。そしたらコイツ、『どうしてくれる』なんて言うからさ」
「だってよぉ!」
「大丈夫じゃないの? お姫様はなんて? お文は?」
 そう言いつつ、母親は、うれしそうに自分の髪に簪を差した。
「『昔いただいた物ですが、贈り主を好かないので使わず仕舞っていた物です。品物は良い物だと思います。お気に召しますれば幸い』――読みやすくなったな――こんなもん手放せる姫様が、柘植櫛で喜んでくれるかね?」
「怒らせてたらどうしよう? 母ちゃん」
 2人の話を聞き、2本目の簪も差した母親はニッと笑った。
「大丈夫じゃないの? あんたら、お姫様のこと悪く見過ぎ。そりゃ、お公家様は分かりにくい皮肉を言うこともあるけど、別に怒ってないと思うよ」
「そうか? ……怒ってない?」
「ないない。心配しないで、いっといで」
 母親は、りっぱな打掛の袖を大きく振るい、息子の背中をバンと叩いた。
「……おう」
《橙の中将》は、照れくさそうに鼻を掻いた。

      ***

「いいか。うりb……中将が《氷の君》を口説き落とせたら、この家に公家の血が入ることになる。それはきっと、この先のお家のためにもなる。だからな、私たちは協力して、《氷の君》姫様の居心地いい環境をつくらねばならん。言葉の訛りも、いままで何も言わなかったが、これから直していくぞ。いいか?」
「おう」
「うーい」
「はいよぉ」
「我が子たちよ、『はい、父上』だ。おまえは『はい』」
「『父上』……なんか変な感じ」
「お前も姫様らしくするんだぞ」
「ええー。あたし、元から姫様だけど」
「実態も姫様にしていくんだ。お、おいおいおまえ。そんな立派な打掛着て、ご飯よそうな!!」
「ええー? だってホラ、うり坊がお代わり欲しがってるから」
「『中将』! 奥方様は、お代わりを奉公人によそってもらうもんだ!」
「そんなことでいちいち人呼んでたらキリないじゃないの」
「うり坊、御所衣もたまには着たら?」
「あれ動きにくいから嫌いなんだ」
「高かったのに。勿体ない」
「じゃあ姉ちゃんも十二単着ろよ。そしたらおれも御所衣着る」
「ええー? 嫌だ。うごきにくそう。あんなの着たら薙刀振れない」
「『姉上』! 『私』! あと、口調を丁寧に!!」
 広い畳の間で豪勢な夕餉を食む武家一族は、かつて、町民なみの貧しい武家であった頃の名残を引きずっており、生まれついての貴族である《氷の君》を嫁に迎えるにあたって、それなりに気を揉んでいた。
 だが、食欲が衰えることはなく、姉弟はそれぞれご飯を3杯食べた。

      ***

「もうよい」
「あらぁ。姫様、こんなに残して」
「中将を招く宴のことを考えると、どうも緊張してな」
《氷の君》は、ただでさえ少なめの夕餉を半分残すようになっていた。