殺人鬼のフェルナーとオーベルシュタインの話
その1

 誰もいない、まともな明かりすらない夜の廃工場の通路を、1人の男が急いで進んでいた。

 禿げた頭から止めどなく汗を流し、不摂生な生活で重く弛んだ身体を引きずるように前へ前へと進めるその男は、眼球を飛び出させんばかりに見張り、両手をあちこちに伸ばして障害の有無を素早く探っていく。
 彼の身体に刻み込まれた無数の切り傷からは、いくつもの血流が流れ出ており、彼の高価な衣服を赤黒く染め上げていた。命がけの逃亡を続けながら、男は追跡者がいる背後を振り返った。
 追跡者は、1分1秒でも速く逃げようと急ぐ彼を嘲るかのように、ゆっくりとした緩慢な歩みでついてきていた。窓の前を通り過ぎざまに月明かりに照らされ、追跡者の姿があらわになる。

 すらりとしていて見栄え良く、元陸戦部隊の軍人に相応しい力強い筋肉のついた長身の身体。月光を反射し、きらきらと光る白銀のくせ毛。整った目鼻立ちの顔には、食えぬ人柄を表したような、それでいて女性受けの良さそうでもある笑みを浮かべている。だが、彼の翠玉の瞳に宿る光は、正気の人間のそれとはかけ離れたものであった。

 追われている男が正面に向き直ると、彼の命運は既に尽きていたことがわかった。進んだ先には、逃げ道のない袋小路が無情にも待ち構えている。絶望に打ちひしがれながら、彼は行き止まりの壁に背を向け、振り返って追跡者と正面から対峙した。
 カツン、カツンとゆっくりとした歩みを進める追跡者は、先刻と変わらぬ笑みを浮かべている。彼がゆったりと下ろした片腕の先には、研ぎ澄まされたナイフが握られており、いましがた吸ったばかりの鮮血を滴らせていた。

「…頼む、やめてくれ…何が望みだ?言うことをきくから、どうか命だけは…!」

 追跡者は、カツン、カツンと変わらず歩みを進める。

「なぜだ、何故こんなことを」

 追跡者は、応える様子もみせない。

「……この…イカれた人殺しめ…!」

 不意に、追跡者が素早い突進にうつった。男は、ヒッと息を飲んで背を壁に打ちつけた。その直後、追跡者が男にしたたかに真正面からぶつかり、男はガッ、と苦しげな呻き声をあげた。やがて、男の口からゴボゴボと泡を立てて血流が溢れ出す。何度となく男を切りつけていたナイフが、今度は彼の胸に深々と刺さり、気道も肺も一緒くたに貫いていた。
 ナイフがゆっくりと引き抜かれると、支える力を失った男の身体が崩れ落ちた。いまだ死に至らぬ彼は、しばらく苦しげな音を立てながら蠢き、やがて、ぴくりとも動かなくなった。その様子を見届けた追跡者は、すうっと笑顔を消し、面白くなさそうな顔でつぶやいた。

「…つまらない遺言だな」

 ここ最近聞いたもののうち、一番独創性にかける。そんなことを思いながら、フェルナーは汚れ拭き用の布切れを取り出し、彼の愛刀や、自分の顔から血を拭い取った。拭った後、愛刀を鞘に収めて服の中にしまいこむと、代わりに手帳を取り出した。パラパラ、とページをめくり、目的のページに書かれた名前ひとつの上にペンを走らせて横線を引く。
 ページには、同様に横線を引かれた名前がいくつも並び、その後にまだ横線を引かれていない名前がいくつか並んでいた。

「次はどうしようか」

 派手な演出はおれの好みだが、あまり目立たせるとアシがつく。この男の死体も、見つけられぬよう片付けたほうがよいだろう。しばらくは、『実行』そのものにも期間をあけねばなるまい。
 彼は、ことに今の上官には、決して気取られぬよう、目をつけられぬよう、最大限の注意を払わねばならなかった。

 全てを見通すかのような義眼を持つ、『ドライアイスの剣』と名高い、あの冷徹で聡い上官には。

──────────

 ゴールデンバウム王朝の時代に建てられ、現在も軍務省として引き続き利用されているその建物の通路は、権威主義を全面に押し出した豪華秀麗さを未だ保ち続けていた。昼間の明るい日光が、足元から十数メートル上の天井まで続く窓を通って差し込み、ベルベットの絨毯の上に、光と影の縞模様を作っている。

 500年続いた王朝を滅ぼした後、黄金色の髪を持つ常勝の天才ラインハルトを皇帝に掲げ、新たに生まれたローエングラム王朝。新体制への移行、改革と、変革いちじるしい銀河帝国の軍務省では、今日も終わりの見えない業務が山積みになっている。
 その通路を、灰色の元帥外套をなびかせ、長身痩躯の身体と半白の頭髪を持つ、銀河帝国軍務尚書オーベルシュタイン元帥が決然と歩んでゆく。その彼の後ろを、軍務省官房長官フェルナー准将がついていっていた。

 軍人にしては肉っ気に乏しい、細く折れそうな身体を持っているにもかかわらず、冷徹厳格と名高い彼の威圧感は背後からでも見て取れた。さながら、名匠の手によって何度も打ち据えられ鍛え上げられ、氷のように無機質な光を放つ、細く真っ直ぐで、鋭く研ぎ澄まされた、すべてを切り裂く一振りの剣そのものであるかのようである。ドライアイスの剣とは、誰が言い出したものか知らないが、実に言い得て妙な渾名だ。
 この上官の後ろ姿を見ることが、フェルナー准将のささやかな楽しみの1つであった。特に、歩いているときの後ろ姿がいい。帝国の多くの人間が、軍務尚書の存在を視認するだけで緊張を募らせ、蛇に睨まれた蛙のように震え上がるのに対し、フェルナーはむしろ、彼を見る自分の顔がほころびそうになるのを堪えねばならなかった。
 オーベルシュタイン元帥という剣が振り下ろされ、新王朝に仇なすもの、不要なものがバッサバッサと容赦なく斬り伏せられていく。その様子は、さながら古典劇のチャンバラのような、爽快な斬り合いのようにフェルナーには思われた。次は何が、誰が斬られるのか。次は、軍務尚書がどんな風に斬ってくれるのだろうかと考えると、楽しくて、時には顔のにやけを抑えきれなくなることもあった。

 あのオーベルシュタイン元帥の傍にあって、いささかも物怖じする様子を見せず、不敵な笑みを崩すこともない副官フェルナー准将は、以前からオーベルシュタインの部下として働いていた元参謀チーム・メンバーを中心に、実は只ならぬ尊敬を集めている。だが実際には、不敵な笑みを崩さないのではなく、彼は楽しくて仕方がないのだった。
 うっかり冗談も言わせぬ空気をまとい、正論を絶やさず、自身にも他人にも冷徹な軍務尚書、の部下として、フェルナーに与えられた役割は解毒剤である。軍務尚書とともに動き、他の部下の言葉で場の温度が下がるようなら、軽口を投げかけて場の空気を温め、軍務尚書の絶対零度の目線を大胆不敵な笑みで受けて立つ。他の部下が軍務尚書へ相談したい事案を抱えつつも、話しかけづらい様子であるようなら、聞き出して申し伝える。そうして何者とも替えがたい役割を果たすフェルナーは、オーベルシュタインの元で働く部下たちにとって、大変ありがたい存在として重宝されていた。
 一方、フェルナーの方は軍務尚書とのやり取りを一切独占できることを心底楽しんでいた。まさに適材適所である。

 軍務尚書執務室に辿り着くと、オーベルシュタインは自身の執務机についた。今日の業務について打ち合わせようと彼の副官に目を向けた頃には、フェルナー准将の顔からだらしのないニヤケ顔が消え、代わってキリリとした表情が彼を見つめ返していた。軍務尚書は、いつものように淡々と抑揚に乏しい声で必要なことを彼の副官に尋ね、確認をすすめていった。
 いくつかの法制変更手続きについて確認した後、とある要人との会談についてフェルナーに尋ねた。

「それが、某氏は数日前より行方不明になっているとのことでして…」
「行方不明だと?」
「はい。ある日の退勤以後、自宅に戻らず、連絡もないまま行方が分からなくなったとのことです。閣下との会談については、日程を遅らせてほしいとの依頼がきております。彼が所在をくらませた理由については不明ですが、他の人間と会談することになるやもしれませんね」
「そうか」
「気がかりではございますが、他の者と話せるのであれば、我々としては好都合ですね。彼は、あの官庁の中でも特に頑固者であったようですから」
「……妙、だな。前にも、我々に対立していた旧体制派の者が、未だつかまらぬ通り魔に殺害されたり、交通事故にあって亡くなったりした。偶然とは思えぬ」
「……確かに、そうですね。まさか、閣下が消しているわけではございませんよね?」
「私ではない。……これでは私が真っ先に疑われる。あまりにリスクが大きい」
「左様でございますね。ご心配なく、小官は閣下を疑ってなどおりませんよ」
「なぜだ?」
「物理的に無理がございましょう。閣下がどれほど忙しく働いておいでか、小官はよく存じ上げております。それに、いかに閣下が冷酷非情と悪名高いといっても、そのように直接手を下すような無粋な真似をされる人物ではないことは、小官のよく知るところです」
「……そうか」

 感情をほとんど面に出さない陰気な顔に、納得した、とは言い難い表情を浮かべ、オーベルシュタインが思案にふけるのをフェルナーは見つめた。その後、彼が本日会談する予定だった、行方不明の要人の資料が表示されたデバイスに目を向ける。

 そこには、先日彼が人知れず刺し殺した、あの禿頭の太った中年の男性の写真が添付されていた。

 流石にやり過ぎたか、と、常の不敵な笑みを崩さぬままフェルナーは考えた。彼の秘密の趣味の手帳に並んだ名前は、いずれも、オーベルシュタイン閣下の計画に邪魔になる人間を書き留めたものである。それらの名前は、目にしたあとに人知れず書き足していき、怪しまれぬよう、順番を巧妙に入れ替えながら「横線を引いて」いっている。
 だが、近頃はどうにも、楽しいあまりにペースを早めすぎてしまったようで、とうとう軍務尚書の目につくようになってしまったようだ。いよいよもって、自粛せねばならない。いや、むしろ、もう手遅れかもしれないな。

「フェルナー」
「はっ」
「どうも怪しい。他にも似たような事件がないか、それらに何らかのつながりがないか、調査を始めろ」
「はっ。承知いたしました」

 やれやれ、怪しまれない程度に...それでいて、厳格な軍務尚書を失望させぬように、嘘と真実を織り交ぜ、適度に調査結果をでっち上げねばならないな。
 だが、嘘を飲み込ませるには、真実で包むのが一番効果的だ。その点、すべての真実を知っている自分は、誰よりも上手に嘘を糖衣で包んでやれる、と考えられなくもないだろう。

 フェルナーは顔がにやけそうになるのを、軍務尚書に向かって深々と頭を垂れることで誤魔化した。