マフィアなオベ兄弟とディーラーなフェルナーの話
その1

 一攫千金を狙う欲望が渦巻くその場所には、数多くの人々を惹きつける魔力があった。

 いくつも立ち並び、光を降り注がせる絢爛豪華なシャンデリア。すみずみまで緻密に組まれ、複雑な模様を描く寄木細工の床。大理石のパネルできらめく支柱。観葉植物を中心に収めた、屋内噴水。金の仕切りに、黒と赤のマスが交互に並ぶルーレット。昔ながらのカード・ゲームでしかないが、変わらず絶大な人気を誇るポーカー・テーブル。そして、連れてこられた愛人たちの暇つぶしのために当初は置かれていたという、電飾できらきら光るスロット・マシーン。

 その日のオープン前のカジノ・ハウンドの店内で、スタッフたちだけが忙しなく動き回る中、銀髪と翡翠の瞳、そして自信ありげな整った顔立ちを持つディーラーの男──アントン・フェルナーが、彼の持ち場であるポーカー・テーブルで、商売道具のトランプを1枚1枚入念にチェックしていた。
 丈夫なプラスチック製のそのトランプは、彼が長年親しんできたブランドの製品であり、1枚の厚みや重さに至るまで彼の手に馴染んでいる。この街一番のカジノに彼が雇われた理由は、カジノ・ディーラーの黒タイ・黒ベスト姿がよく似合う容姿だけではない。巧みな話術と表情の動き、そして、手品さながらのトランプさばきを評価されてのことであった。
 例えば、雇い主の意に応じ、気付かれることなく、特定の顧客のポーカーの勝敗を左右する、など。

 フェルナーはトランプを1枚取り上げると、図柄を自分の側へ向け、ニヤリとした。彼の手にあったカードは、ジョーカーである。人をくったような嘲笑を浮かべ、ときには実際に人の人生をひっくり返す道化師のカードは、彼の一番のお気に入りであった。
 この賭博場は、いわゆるカタギの賭博場ではない。もとは貴族の出だという異母兄弟が率いる、冷酷無比にして強大なマフィア・ファミリーが経営するカジノである。ファミリーへの上納金に手をつけたがために、彼らに蜂の巣にされ、海の底へ沈められたディーラーも過去に居たらしい。
 その話を思い出すと、フェルナーはフンと鼻でせせら笑った。そんなあからさまな真似をする愚か者など、魚の餌になって当然だ。
 何処へいっても実力を頼りに生きていける、その絶対の自信を持つ彼は、ずば抜けて支払いのいい、そのカジノのディーラーを自ら志願して来たのであった。

「おうい、オーナーのお帰りだぞ」

 そう、近くで働くバーテンが呼びかけるのを聞き、フェルナーはトランプを置くと、彼らの雇い主が通るであろう通路の傍に立ち、お出迎えをするべく待ち構えた。

 ほどなくして、カジノへと繋がる大扉が開かれ、カジノ・ハウンドのオーナー──ファミリーのボス、シュテファン・ノイマンが毛皮の外套を翻らせながら入ってきた。長く伸ばして束ねたパーマの黒髪、黒々と口元を囲う髭、そして、ギラギラとした目と咥えた太い葉巻とが、いかにもマフィアの頭目といった印象を与える。
 そのすぐ後ろに、ボスの弟であり、ファミリーの参謀役を務めるパウルがついてきていた。彼の家名はフォン・オーベルシュタインである──彼の方が本妻の息子だった──のだが、彼は家名を嫌っているため、ボスには「パウル」と、部下たちには「副頭目」「参謀長」などと呼ばれている。
 彼は、海賊めいた粗暴な印象の兄と異なり、体毛が薄いようで髭は剃り跡すら見えず、かるくウェーブのかかった肩までの髪には白髪が混じり、知的で清潔感のある、どこか儚げな、どちらかといえば貴族らしい印象を見る者に抱かせる。
 だが、彼の目だけは、それだけでは済まない印象を与えた。彼の目は生まれつき見えなかったため、視力をもたらす機械の義眼が代わりに埋め込まれている。この、無機物の硝子の瞳に見据えられると、絶対零度の氷に触れるがごとく、背筋が凍るという。
 頭目が獰猛にして残酷であるのはさることながら、この、貴族の紳士めいた印象を纏う副頭目もまた、その正確無比で緻密な頭脳の中に、地獄の最下層・氷の牢獄コキュートスに住まう魔王の心を宿しているに違いないと噂されていた。彼に目をつけられ、その策謀の餌食となった組織は、完膚なきまでに叩き潰され、骨も残らないという。

 中央に敷かれた、真紅の長いカーペットの上を歩く彼らと、彼らの護衛たちに向かい、カジノの従業員一同が一斉に頭を垂れる。フェルナーも、銀髪の頭を深々と伏せ、支払いの良い雇い主へ必要な敬意を払った。彼らが通り過ぎたタイミングで、頭を上げず、チラリと視線だけを上げ、彼らの姿を後ろから捉える。
 …あれが、ハウンド・ファミリーの頭目兄弟か。兄はともかく、弟のほうは、本当に、マフィアという印象がない。
 三十代後半といったところなのに、頭髪の半分を占める白髪。シャンと伸ばした背筋。どこか儚げな、細身の身体。マフィアらしい頭目と、それらしい護衛とに囲まれていると、彼は浮いて見える。副頭目らしい堂々とした歩みを除けば、まるで、どこぞの名家から連れ出されてきた人質のようだ。
 いつだったか、ディーラーの一時雇いで入ったことのある、ここには寄り付かないような上級貴族が集まるサロンに立っているほうが、あの副頭目はむしろ違和感がないだろう。

 ふいに、彼の視線の先に居るその人物が、チラリとこちらを振り返り見た。フェルナーの翡翠色の目と、彼の硝子の義眼の目が交差する。

 ぞわっ、と、フェルナーの背筋に悪寒が走った。
 生身の目にそっくりなのに、何かが違う。だが、無機物の目にしては、瞳の奥底に、生きた、恐ろしい何かが蠢いている…。

 副頭目とフェルナーの視線が交差したのはほんの数瞬のことで、すぐに義眼の視線は進行方向へと戻った。雇い主たちが通り過ぎたあと、フェルナーはぶはあ、と息を吐き出した。知らないうちに息を止めてしまっていたらしい。

「…おっかねぇ」

 あれは、本当に単なるマフィアか? 後ろ姿は『人質に囚われた貴族』といったところであったが、彼の目を見たら…なにか、…彼が、人質どころか、マフィアをゆうに超える恐ろしい存在であるように思われた。
 すっかり狼狽してしまった己を恥じつつ、フェルナーは頭を振り、気を取り直して仕事に集中しようとした。
あの副頭目の本性がどうあれ、本業に精勤しているかぎり、自分が彼に目をつけられることはないだろう。


 カジノのメイン・ホールを通り過ぎ、廊下に出ると、副頭目は彼の兄に声をかけた。

「兄さん」
「ん? どうした、パウル」
「見慣れないディーラーがおりました」
「ああ、銀髪の奴だな。最近雇った新入りだ。客受けの良さそうなツラだったろう? 顔がいいだけじゃなく、手先も器用な男でな。雇い主の意向によっちゃ、気付かれずにポーカーの勝敗を動かせるそうだ」
「…ほう。それは、それは…。カジノに居れば、色々と出来そうですな。場合によっては、雇い主の意向に沿わないことでも…」
「なに、奴にはウチじゃ、賭けポーカーはさせないとも。当然だろう? もし、言いつけに背いて賭けポーカーをしたり…あるいは、チップ欲しさに、おれたちに内緒で勝敗をいじったり…そういうオイタをしでかすようなら、報告するよう周りの奴らに言いつけてある。それで、問題はないだろう?」
「……ええ。当面は、それでよろしいでしょう。ですが、警戒を怠りませぬよう」
「分かっている。…ところで、パウル。お前にプレゼントがあるんだが」
「プレゼント?」
「ああ。地下にある。来てくれ。気に入るといいんだが…」

 そう言う兄に続き、義眼の副頭目は、彼らのプライベート・ルームへ入り、地下へ続く扉の中へと歩いていった。任務を終えた護衛たちは、部屋へは立ち入らず、頭目たちを見送ったあと、それぞれの詰め所へ戻った。

 カツン、カツンと靴音を立てて階段を降りていくと、見張り役が通路の隅で椅子に座っているのが見えた。見張りは、彼のボスたちが来るのを見ると、立って敬礼し、挨拶と「異常なし」との報告とを済ませた。
 それに「ご苦労」と応じた後、シュテファンは見張りの目の前にある扉を開け、中を見るよう弟に身振りで示してみせた。弟は、彼の近くへ歩み寄り、中を覗いてみた。

 そこには、ひどく拷問を受けた後らしく、血糊と痣にまみれ、鉄の鎖で拘束された何者かが囚われていた。

 副頭目には、目の前の囚人の素性に心当たりがなかった。首を傾げながら、説明を求めて兄を見る。弟の様子を見て、頭目は困惑したかのように眉を上げた。

「なんだ、こいつを忘れたのか? それとも、気に入らなかったか?」
「記憶にありませんな。これは誰です、兄さん」
「…なんだ。そうか…ま、確かに、覚える価値もないクソ野郎だ。わざわざ思い出させるのも悪いが、こいつは以前、お前の義眼をバカにしやがったチンピラだよ」

 その説明を聞き、副頭目は、囚人の顔を識別できるかどうか、伏せられた顔に目を凝らしてみた。そのとき、気を失っていた囚人が目を覚まし、顔を上げた。彼の顔は、先に受けた拷問で青黒く腫れ上がり、元の顔を知っていても区別がつくか怪しい状態であった。
 囚人は、目の前に、冷酷非情と名高い副頭目の顔を見つけ、ヒッと恐怖で息を呑んだ。身体の内に氷を差し込むような義眼の視線は、これからより恐ろしい目に遭うであろうことを否が応にも予感させる。
 副頭目は、そういえば見たことがあるかもしれない、程度の認識を覚えた。哀れな囚人から目をそらし、兄を見る。

「…あまり、思い出せませんが…見覚えがある気はしますな。それで、これが『プレゼント』ですか」
「ああ。…どうも、お前の好みじゃなかったらしいな。悪い。次はもっと良い物をやるよ」
「別に、気を遣わないでいいのですよ。私は、兄さんが元気で、私たちのファミリーが強大で在り続けてくれれば、それで良いのですから」

 弟の言葉を聞き、強面の頭目は満足げに微笑んだ。

「…では、こいつはもう要らんな。おい。処分しろ」
「了解」
「…ヒッ!?」

 頭目と見張りとのやり取りを聞き、囚人は喉を締め付けられたような悲鳴をあげた。

「お待ち下さい、兄さん」
「んん?」
「なにも、命を取る必要はありません。放してやりましょう」

 副頭目の驚くべき台詞を耳にし、囚人は口をあんぐり開いた。同時に、彼の胸に一筋の希望が宿る。自分は、助かるのか?

「……ええ? そう、か? …まあ、元はお前に、と思ったものだから、お前がそう言うのであれば、構わんが…いいのか?」
「はい。"一寸の虫にも五分の魂"と申しますし、少々侮辱したからといって、命まで取らずともよろしいでしょう」

 囚人は耳を疑ったが、どうも幻聴ではないらしい。目の前に降って湧いた、助かるかもしれないという可能性に、囚人の胸が喜びに踊った。この副頭目は、巷の噂や見た目ほど冷酷ではなかったらしい。もう二度と、彼の義眼を悪く言ったりすまい。そう、頼まれもしないのに心に誓った。
 その直後。

「目をくり抜いた後、止血治療をしてやったのち、裏通りにお放し下さい。さすれば、彼も、義眼とてそう悪くないと思えるようになりますよ」

 一瞬舞い降りた囚人の喜びは、氷水を浴びせられたように一瞬で冷めた。一方、弟の言葉を聞き、シュテファンは腹を抱えて大笑いした。

「はははっ! そりゃお前、すんなり殺してやるより、余程エグいじゃないか。こんなゴロツキが、義眼なんて高級品を工面できると思うか?」
「無理でしょうな。ですから一層、手に入らぬ義眼が、彼には素晴らしい代物に思えるようになるのです」
「はっは! いい考えだ。さすがは、我が弟。そうしよう。おい、医者たちを呼んできてくれ。こいつの目をくり抜く」
「はっ」

 一連のやり取りをボンヤリ聞いていた囚人が、ハッと我に帰った。あわてて、悲鳴じみた声で抵抗を試みる。

「……い、いやだ! 止めてくれ。許してくれ。もう二度と義眼を悪く言ったりしねえ。何にも悪か言わねえよう。頼むよう」

 だが、目の前の副頭目は、何も聞こえなかったかのように兄との会話を続けた。

「通常の外科手術と同じように、麻酔をくれてやって、余分な傷はつけないようになさって下さい。…痛みのショックや、くり抜く時の出血で死んでしまっては、面白くありませんからな」
「ああ、分かっているとも。医者にようく、言っておくさ」
「プレゼントをありがとう、兄さん」
「なに、少しは気に入ってくれたなら、おれも嬉しいよ」

 副頭目は、僅かな、そして残忍な笑みを浮かべ、兄に向かって微笑んでみせた。

 この街で最も恐ろしい兄弟は、悲鳴をあげて助けを乞う囚人のいる地下房を後にし、談笑しながら彼らのプライベート・ルームへと戻って行った。