マフィアなオベ兄弟とディーラーなフェルナーの話
その2

 屋敷が燃えている。

 真夜中の闇が、炎で赤々と照らされている。階下から、ガラスの割れる音や、使用人たちの悲鳴が聞こえてくる。外を見ると、いくつもの黒々とした人影が、庭を荒らしながら闊歩している様子が見受けられた。いずれも、見覚えのないゴロツキどもだ。
 何のことはない。近頃、急激に力を伸ばしているという、ギャングだかマフィアだかいう賊の連中が、遊ぶ金欲しさに今晩この家に目をつけたのであろう。奇妙に落ち着いた様子で、オーベルシュタイン家の義眼の次期当主は分析していた。
 危機的状況ではあるが、彼は焦る気にすらなれなかった。命や財産の危機に恐れおののくには、彼の人生は少々、苦難が多すぎたのである。

 やがて、階段をドカドカと駆け上がる音が鳴り響き、彼の部屋の扉の前まで辿り着いた。バタン!と扉が乱暴に開かれる。パウル・フォン・オーベルシュタインは、ゆっくりとした動作で振り返り、無礼な侵入者たちと無表情のまま対峙した。
 少し遅れて、扉を破った先遣隊とは別の男性が入ってきて、部屋の主と向かい合った。

「パウル」

 懐かしい響きを持つ、親しげな、自分の名前を呼ぶ声を耳にし、オーベルシュタインは初めて驚愕を覚えた。火事の逆光で見えなかった侵入者の顔に、今度はよくよく目を凝らす。
 その男は、幼い頃に離別した、優しかった彼の兄──父親が愛人との間に作った異母兄弟の、シュテファン・ノイマンだった。

「…兄さん…!?」
「覚えていてくれたか」
「…どうして、ここに?」
「見ての通り、おれァ今、ゴロツキやっててな。この家に、とびきりのお宝を頂きにきたってわけさ」
「……そう、ですか…」

 身勝手な父親の手によって引き離され、久方ぶりに会う兄の現状に、失望しなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に、あの優しかった兄が、このような稼業に手を出さねばならない今の世の中への失望が勝った。
 弟は、自嘲気味に薄く笑みを浮かべ、兄に答えた。

「どうぞ、お好きになさるがよろしい。もとより私に抵抗のすべはございませんが、惜しむ財産も…人生も、持ち合わせてはおりませんので」
「…そうか? では、お言葉に甘えるとしよう」

 そう言うと、シュテファンは弟のそばに歩み寄り、彼に両腕を回して抱き締めた。オーベルシュタインは驚いて義眼の目を見開き、よろめいた拍子に、力強く自分を抱き締める兄に身体を預ける形になった。
 力強く、優しく、暖かいその感触は、最後に味わったのが何年前かも分からない、懐かしい感触だった。

「お前をさらいに来たんだ、パウル。一緒に来てくれるか?」

──────────

 ハウンド・ファミリーの頭目たちは異母兄弟で、兄は平民の愛人の子、弟のほうが貴族の本妻の子である。彼らが元いた屋敷は焼け落ち、当時の当主も亡くし、後継者である弟は自ら家名を捨てたらしい。
 家を焼いたのは、当時下っ端だった現頭目の一派だという話である。だが、この兄弟の仲は至って良好で、強い絆で結ばれているという。この2人の間に何があったのか。その詳細は、頭目一派の昔からのメンバーでさえ把握していない。
 ただ、確実に言えるのは、いまの頭目一派とファミリーとの栄達には、この弟を仲間に迎えたことが大きく貢献したらしい、ということだけだ。

 広々とした上客専用の豪華なラウンジでの勤務を任され、頭目と、他の一大勢力ファミリーの若旦那とのポーカー勝負を、フェルナーはディーラーとして見守っていた。その傍らで続けていた、頭目兄弟に関する彼の考察は、若旦那が、苛立たしげにトランプをテーブルへピシャリと投げ出す音で中断された。
 きらきらと流れる金色の髪を振り乱し、薄氷色の瞳を怒らせる、世にも麗しい若旦那は、陶磁器めいた白皙の肌を紅潮させて怒りをあらわにする。

「…ちくしょう!」

 ミューゼル・ファミリーの頭目の弟──ラインハルト・フォン・ミューゼルが、大事な商売道具のトランプを粗末に扱うのを見て、フェルナーは微かに眉をピクリと動かした。おなじ頭目の弟でも、うちとはえらい違いだ。
 その様子を見て、若旦那の側近の赤毛のノッポは、幼馴染の主君を嗜めるように名前を呼び、その肩に手を置いた。

「ラインハルトさま。トランプに当たってはいけませんよ」
「おかしい。絶対おかしい。なぜ勝てんのだ?」
「お相手はカジノのオーナーです。技量がおありなのでしょう。そろそろ、おいとましましょう」
「負けっぱなしのままでか? おれは嫌だぞ」
「ラインハルトさま。あまり、賭け事にのめり込まれますと、アンネローゼさまが悲しまれますよ」
「ぐっ………。…わかった。姉上のために、ここは引く。…お付き合い感謝する、ノイマン殿」
「いや、なに。マダム・アンネローゼには、昔お世話になりましたから。姉上様に、ノイマンがよろしくと言っていたと伝えてください」

 姉に対するハウンド頭目の真摯な敬意を見られたお陰か、その言葉に、ラインハルトの怒気は引き潮のようにスウッと立ち消えた。
 舞台役者のごとく洗練された動作でグラスを取り上げ、残っていたワインを飲み下すと、ラインハルトは頭目への挨拶を済ませ、出口へ向かった。ホッとした様子の赤毛の側近がその後に続いていく。

 2人の客人を見送ると、ひと仕事を終えた頭目は、フーッと息を吐いて、肘掛け椅子に背を預けた。
 今晩、頭目はマダム・アンネローゼから内密の依頼を受けており、その内容は『ラインハルトのポーカーの相手をして、かつ完膚なきまでに負かすこと』であった。近頃、賭け勝負への関心を強めてきたらしい弟を心配してのことである。
 ゲームの間中、無言で後ろに控えていた彼の弟が、やっと口を開いた。

「頭目になっても、子守りをせねばならないとは。大変ですな」
「そう言うな、パウル。この世界は持ちつ持たれつだ。…それにしても、フェルナー、お前の“手品”は噂に違わぬ腕前だな。金髪の坊やは、少しも気付かなかったようだぞ」
「おや、ご謙遜を。頭目があまりにお強いので、私の手品の出番はございませんでしたよ」
「口の上手いやつだ。長生きするぞ」
「恐縮です」
「で、パウル。実際のところ、フェルナーは何回カードをいじってくれたんだ?」
「私の見落としがなければ、計4度です」

 …おい、嘘だろう? 営業スマイルを浮かべたまま、フェルナーは内心冷や汗をかいた。副頭目の言うとおり、彼はちょうど4回、トランプをこっそり入れ替えていた。
 この副頭目が相手のときは、絶対にイカサマを仕掛けないようにしよう。そう、フェルナーは心に誓った。もっとも、敵対する事態に陥った時点で、自分の命運は尽きている気がするが。

「しかし、よろしいのですか。マダムからの直々の依頼とはいえ、彼が賭けた金をイカサマで巻き上げてしまって」
「ちゃんと、坊やの誕生日の御祝いにでも還元しておくさ」
「成る程」
「……さて、ひと仕事終えて、疲れた…今日はもう予定はないな? パウル」
「はい」
「よし。なら、おれは部屋で休むとしよう」
「承知しました」

 髭面の頭目は、肘掛け椅子から立ち上がると、近くのバー・カウンターに向かって手招きした。合図を受け、そのカウンターに居た、胸の大きく開いた真っ赤なドレス姿の魅力的な女性が頭目の元に歩いてくる。その女性の腰に手を回すと、頭目は彼女と連れ立ち、彼のプライベート・ルームへ歩みを進めかけた。
 ふと、立ち止まって弟をみやる。

「パウル、お前も一緒にどうだ?」
「いえ、私は結構」
「まあ、そう言うな。この後、予定はないんだろう?」
「…ええ、まあ」

 その答えを聞き、頭目は空いた手を弟に向かって伸ばし、熱心に手招きしてみせた。それを見た副頭目は、しばし沈黙したのち、溜め息をひとつつくと、頷いて同意を示した。

 去っていく3人を見送りながらトランプを片付けつつ、フェルナーは、『頭目はともかく、副頭目が女と楽しんでいる様子は想像がつかないな』と考えていた。
 彼らのプライベート・ルームで、これから一体どんな展開が始まるのか。フェルナーは、強い興味を抱かずにいられなかった。もちろん、その好奇心は、命をかけられるほど強いものではなかったが。

──────────

 …ここはどこだ。

 VIPルーム担当の美人の給仕に片付けの手伝いを買って出て、調理室に食器を届けたのまではよかったが、その後の戻り道でフェルナーは道に迷ってしまった。
 近道をしようと違う道を進んだのが良くなかった。客が出入りする店の表とは異なり、関係者専用の店の裏側の構造は、新参者にはひどく分かりにくい。
 うっかりハウンド・ファミリーのプライベート・エリアに踏み込んでしまったら…と、フェルナーの心に一抹の不安がよぎったが、その不安はすぐに掻き消された。どんな所にでも取り入り、潜り込むことを得意とする彼は、もちろん、マフィアのメンバーの歓心を買うことにも余念がなかった。よく話す巡回役にでも会えれば、道を教えてもらえるだろう。

 フェルナーはしばらく彷徨い続けたが、一向に出口に辿り着けず、人にもまるで会わなかった。困り果てたフェルナーは、通路の探索を諦め、近くの部屋の扉を開け、中に人が居れば道を尋ねようと試みた。
 そこは、マフィアの幹部以上のクラスの居室であるらしく、ソファや毛皮のカーペット・高そうな美術品・酒の並んだキャビネットなどが並んでいた。

「どなたか、居られませんか?」

 そう声をかけつつ、フェルナーは室内に入った。目の前の部屋には誰もいない。奥にまだ扉があるので、そちらを覗きに行ってみる。奥の扉にノックし、中を開けて覗いた。書斎だ。だが、こちらにも誰もいない。
 ふと、マフィアはどんな本を読むのだろうと興味を抱き、フェルナーは書斎に足を踏み入れ、本のタイトルに目を凝らしてみた。
 ……みょうに難しそうな、哲学やら経済学やら、帝王学やら等が並んでいる。マフィアにも教養が要るのだな…。

 その時、通路の側から話し声が聞こえた。その声を聞き、フェルナーはなぜか、ゾッと寒気を感じて凍りつき、声をかけることを躊躇った。彼自身にも、それが何故であるのかはすぐには分からなかった。
 しばらくして、声の主が、頭目と副頭目の兄弟であることが分かった。薄く開いたままの書斎の扉から、息を潜め、彼らの姿をスリットごしに確認する。
 副頭目の声がした。

「よろしかったのですか、帰してしまわれて。察するに、彼女は高かったのでは?」
「ああ、いい女だったからな。構わないさ。彼女も、約束通りの金は貰えたし、早く帰れてラッキーだろう」
「どうでしょう…今頃、失望しているかもしれません。兄さんは、いい男ですから」
「そう言ってもらえるとは、嬉しいねぇ」

 あの赤いドレスの女が居ない。帰した、ということは、先程そばに置いていたあの愛人を、夜の伴にはしなかったということか? …金持ちのすることは良く分からない。
 ドサリ、とソファに座り込む音がした。隙間から、副頭目の細い姿が立っている様子が見える。ソファの背もたれ越しに、頭目の後頭部だけが見えた。

「…おいで、パウル」

 何かの合図のように、みょうに甘ったるく頭目が声をかけると、副頭目の顔が、フェルナーが一度も見たことのない柔らかい笑みを浮かべた。

「…兄さんっ、」

 そう応じた声は、本当にあの冷徹の参謀役から出た声なのかと疑うほど、甘えるような響きを帯びていた。驚きで息を呑みそうになるのを、あわてて口元を押さえて防ぐ。
 副頭目は、ソファに掛けた兄の顔に、覆いかぶさるように自身の顔を近づけた。口付けている以外に解釈のしようのない音が響き渡る。

 え。え。え。
 えええ~~~???

 そっ…ええ~? そういう…えっ、そこまでの仲だったのか? まさか…女を帰したのも、これが理由…!?

 口元を押さえたまま、フェルナーは目を剥き、隙間に顔を近づけて中の様子をよく確認しようとした。副頭目は、兄の首に両腕を回し、夢中で彼に口付けているようだった。……普段の彼の姿からは、到底想像がつかない姿である。
 しばらくして、ひとしきり口付け終えると、副頭目はキッチリ着込んでいた三つ揃えのスーツのジャケットを脱いだ。すると、頭目が手を伸ばし、自身の太ももを跨いで膝立ちになっている弟のベストを脱がせて取り去った。シャツ1枚になった弟は、愛おしげに兄を見つめながら、誘うようにボタンをひとつ、ひとつと外していく。

 ……まて。まさか…。

 これから起こることを…正確には、それを見たということを、万が一この2人に知られてしまった場合、どうなるかを予感し、身体中からザアッと血の気が引く音をフェルナーは聞いた。

 絶対に、見つかっては、ならない。

 フェルナーは、出口との間に彼らの居室を挟んだ書斎で為す術なく留まり、幸運の女神を命がけで口説き始めた。