マフィアなオベ兄弟とディーラーなフェルナーの話
その4

「この国は狂っていると思いませんか、兄さん」

 ひと仕事を終えた後の常の習慣で、カジノ・ハウンドの建物内にある豪奢な一室──頭目シュテファン・ノイマンの居室で兄弟2人きりとなり、祝杯のウイスキー・グラスを片手に持つ義眼の副頭目は、そう唐突に述べた。窓際に立つ彼はピンと背筋を伸ばし、空いた方の手を背後で腰部に当てて握り、硝子の眼を電飾に輝く街の夜景へと向けている。
 ファミリーの大仕事を終えた喜びを分かち合うや否や、弟が不意に発した不穏な発言を聞き、兄の頭目は片方の眉を上げた。
「急にどうした、パウル。……何か、嫌なことでもあったのか?」
「……ええ。まあ……ありました」
「誰だ? 誰にやられた。言ってくれれば、おれがそいつを始末……いや、お前の好きにできるように捕まえてきてやる。名前は?」
 黒々とした髭のある顔と、猟犬のように鋭い目を持つ頭目が、険しい表情を浮かべながらそう尋ねた。彼は、彼の最愛の弟を傷つける輩を、何人たりとも許すつもりがなかった。
 兄が申し出るのを聞くと、夜景を眺めていた弟は振り返り、熱のない表情のまま義眼の視線を兄に向けた。か細いのに、春雷のように聞き手の頭に轟く声で弟が答えを返した。

「……ルドルフ大帝」

 予想に反して、500年以上前にとっくに死んだ歴史上の人物の名前が弟の口から出てくるのを聞き、シュテファンは一瞬、おどろいて目を見開いた。少々瞬きをした後、柔らかい笑みを浮かべて弟に応える。
「……そいつは、残念ながら、捕まえてきてやれないな。墓荒らしが精々だ。……ま、もし、それがお前の望みなら、そうしてやれるが……。しかしどうして、そんな大昔に死んだ奴が、お前の癇に障ったんだ?」
「今の狂ったこの国を創り上げた者が、そのルドルフだからです。兄さん」
「……ふむ?」
「……奴の生み出した『劣悪遺伝子排除法』に拠れば、私は、生まれながらにして死刑判決を受けています」
「ああ、まったくフザけた法だ。今じゃ、カタギの奴らだって守ったりしない、裏の人間でもツバを吐きたくなるような悪法だ」
「それに、貴族を──生まれを重視する、この国の在り方も。……兄さんは、私などより、よほど跡継ぎに相応しかった。だが、純粋な貴族の生まれではないというだけで、それが叶わなかった。……病弱だった私が成人するや否や、兄さんは屋敷を追い出された。面倒を見る気もない癖に愛人との間に子供を作り、一度追い出しておきながら“予備の”嫡男として連れ戻し、そして、必要がなくなったからと父上は兄さんをまた追い出した……。……この国では、そんな真似すら許される……」
 持ち主の激情に反応してか、ギラギラと赤いエラー光を瞬かせる義眼を、弟は睨むように細めた。兄弟2人きりの時でも負の感情を露わにすることは少ない彼が、その目と、か細いのに頭に響く声と、直立しているだけの全身とから、目に見えない激しい怒りを迸らせている。

 シュテファンは、自分のグラスをサイドテーブルに置いて立ち上がった。そして、憎悪の波動の中へ分け入り、弟の細い身体を両腕でそっと優しく包むと、慈しむように抱きしめた。すると、弟の身体の強張りが少し緩んだのを感じた。
「おれのことなら、気にしなくていい。お前という弟に出会えたし、その弟が今も元気で傍に居てくれている。それに、今のおれたちには、このファミリーとカジノがある。スリリングな仕事があり、何不自由なく暮らせて、それに愛しい家族もいる。……お前の義眼をどうこう言う輩が居れば、始末してやることだってできる」
 シュテファンは、弟の背中をポンポンと宥めるように優しく叩いた。
「今は幸せだ。悪い夢は、もう終わったんだ。これ以上、望むものなんて何もないだろう?」
 そう、優しい口調で言う兄の言葉を聞く弟の表情は、微かに苦々しげであった。だが、弟と顔の側面が触れる姿勢で彼を抱き締めていた兄には、それを見ることができなかった。

「……そう、ですね」

 それでも、私はこの国を滅ぼしたい。その考えを口に出しても無意味だと、義眼の弟は悟っていた。

──────────

 先日の痴態が嘘のように、あの義眼の副頭目は常の冷徹なオーラを纏い、兄についてカジノを堂々と闊歩している。

 その彼の姿を、フェルナーは無意識に目で追うようになっていた。
 昨晩、ハウンド・ファミリーは何らかの裏の仕事で成功を収めたらしく、部下たちは祝勝ムードに沸き、直接関わりのないカジノ・スタッフたちにも祝い酒が振る舞われた。頭目に一言、お祝いを告げようと所在を探したフェルナーは、古株のスタッフに『こういう祝いの時は、頭目は副頭目と兄弟水入らずで晩酌を楽しむらしい』と教わった。
 兄弟水入らずで楽しむのは、晩酌だけではないのだろうな。そう、フェルナーは彼個人の経験から推測した。昨晩も、あの副頭目は、硝子の眼に隠れた温もりを表出させ、頭目の力強い腕に抱かれて嬌声を上げていたのだろうか。
 その様子を想像すると、フェルナーの背筋にゾクゾクと欲情が走り、身体の中心が熱を帯びた。フェルナーはふるふると頭を振り、いかがわしい妄想を振り払おうとする。客を待つ間、トランプの手入れをして気を紛らわせようとするが、物憂げな翡翠色の瞳の先は半白の頭髪の男へと再び戻っていた。

 ……彼は、あのように愛情を秘めているのに、なぜ、普段は無感情で冷徹に振る舞っているのだろうか。それとも、頭目に対して愛情のあるフリをしているに過ぎず、あの彼が基本の彼なのであろうか。あるいは、いずれも彼の本性などではないのか……?
 気を逸らそうとすればするほど、フェルナーの思考は義眼の副頭目を中心に堂々巡りする。部下と話す頭目の後ろに控え、兄のほうを見ていた副頭目は、ふいに、振り返って此方を見た。彼の義眼の瞳が、フェルナーの翡翠色の瞳と交差する。

 フェルナーは、その眼に見据えられても狼狽する様子を見せず、そのまま、その眼の奥にあるものを見ようとするかのように真っ直ぐ見つめた。数瞬後、自分が失礼にも不躾な視線を送りすぎていることに気づき、慌てて目を逸らす。
 自分の視線を臆することなく真っ向から受け止め、その後、気もそぞろといった様子で無人のポーカー・テーブルにトランプを並べ始めた銀髪のディーラーを、義眼の副頭目はその後しばらく見据えていた。

──────────

 キンコーン。

 休日のある朝、自宅のチャイムが鳴り響くのが聞こえ、フェルナーは目覚めた。
 人が寝ているのに、こんな朝から一体何の用だ。そんな苛立ちを感じつつ時計をみると、来客があってもそれほど不自然ではない時刻であることが分かる。仕方がないので、しぶしぶ身を起こして玄関へ向かう。
「……はあい」
 眠そうな声でインターホンに返事を告げ、来客の応答を待つ。だが、返事はない。

 ぞわり、と背筋に悪寒が走り、フェルナーは、眠気が吹き飛ぶのを感じた。嫌な予感に、心臓がバクバクと波打つ。……隣の部屋だった? それとも、ただの悪戯? ……おれは、何かを見落としているのだろうか。なぜ、こんなにも嫌な予感がするのだ……?
 念のため、フェルナーは玄関脇に用意していた銃を取り上げ、背に隠し、ゆっくりとノブを回して慎重に扉を開いた。扉の隙間から、背が高く細いシルエットが1人見えた。荷物の配達員や、自分の友人とは思えない、みょうに高級そうなスーツの男。
 フェルナーは反射的に銃を構え、招かれざる来客に向かって銃口を向けた。

 扉が、完全に開く。客人は、あの義眼の副頭目だった。

 予想外の客人を目にして、フェルナーは翡翠の両目を見開いた。副頭目は、何も持っていない両手を広げ、驚愕する銀髪の従業員に向かって軽く両腕を開いてみせた。
「……撃ってみるかね?」
 銃を向けられても臆した素振りすら見せず淡々と言う声を聞くと、フェルナーは、自分の行動の無意味さに気づき、銃を下ろして床に置いた。
 何らかの理由で彼が自分を粛清しに来たのなら、こんなチャチな火器ひとつで身を守ることなどできない。それに、危険を冒してまで彼自身が自分を訪ねる必要もない。そして何より、もし彼に危害を加えれば、彼の恐ろしい兄から逃れる術はない。
 苦笑いじみた営業スマイルを浮かべながら、寝癖のついた銀髪の頭を手で掻き、寝間着姿のままのフェルナーは口を開いた。
「これは、副頭目。おはようございます。ご訪問を賜るとは、光栄です。……しかし、いったい何のご用件でしょうか?」
「中で話を」
「はあ……」

 困惑した様子のフェルナーを、有無を言わさぬ威圧感を放ちつつ副頭目が見据えた。その覇気に気圧され、フェルナーは、慌てて身を引き、副頭目が室内へ入れるよう退く。家主と枠の間をするりと通り抜け、副頭目は居間まで入っていった。
 玄関の扉を閉め、振り返ったフェルナーは、三つ揃えのスーツをキッチリ着込み、自分の家の居間に立つ義眼の副頭目と正面から向き合った。副頭目が口を開く。

「何を知っている」
 轟くようなその言葉に、フェルナーはゾッと血の気が引くのを感じた。

「何……とは……?」
 おそるおそる尋ねてみると、「下手な芝居はするな」と応じられ、フェルナーは恐慌にかられた。自分を睨み据える義眼の瞳が『次に無駄口を叩いたら殺す』と伝えてくる。
「……わ、わざと見たわけではっ……ございませんっ……! あの日は、道に迷ってしまって。部屋に、だれか居られないかと……おふたりの部屋だとは存じ上げず……! 誰にも言っておりません。言うつもりもございません。どうかお許しを」
「……何を、見たと?」
「……お、おふたりが……頭目と、副頭目が、その……夜を、共にされているところを……」
 震える声で白状するフェルナーの言葉を聞き、フッ、と、副頭目の周囲から殺気が消えた。義眼の男は、意外そうな様子で目を瞬かせた。

「……なんだ。そんなことか……」
 拍子抜けした様子で言う副頭目を見て、今度はフェルナーが目を瞬かせた。
「そのことでお越しになったのでは?」
「近頃、お前から妙に視線を感じる上、目まで合わせてくるものだから、何事かと思っただけだ」
 そんなことで? そう、フェルナーは咄嗟に考えたが、たかがそれだけのことも、この副頭目にとっては珍しい出来事なのかもしれない。初めて目にしたときに感じた彼への恐怖を思い出し、フェルナーは思い直した。
「一体、どんな秘密を知ったのかと思えば……。くだらん」
「……知られてもよろしいので?」
「知っている者は知っている。面白可笑しく話題にされれば無論不愉快だが、敬意が足りない部下には、それ相応の結果が待っている。ゆえに、そうはならない。我々は、もはや貴族でもなければ、表の人間ですらない。近親相姦だろうが男色だろうが、仮に、死体を作ってソレと寝る趣味があるとしても問題ない」
「は……左様でございますか」
「……で、お前は、そのこと、酒の席などで話の種にしてはおらんだろうな?」
「滅相もございません!」
「ならばよい。邪魔をしたな」
 そう言い残すと、踵を返し、副頭目は玄関に向かった。彼が出て行きかけたその瞬間、フェルナーは、弾かれたように駆け寄り、副頭目の腕をつかんだ。振り向いた副頭目がギロリと睨め据える。
 ああ、何をやっているのだ俺は。自分で自分を責めつつも、ええいままよと衝動に従う。
「副頭目、あなたのお相手は兄君だけですか。他の相手はお探しではない?」
 本当に何を言っているのだ俺は! 言葉が口から滑り出た瞬間、フェルナーは発言を後悔し始めた。
「……どういう意味だ?」
 予想に反して、さほどトゲのない口調で問い返される。どういう意味かは、すでに理解している様子だった。それを聞いた瞬間、フェルナーは賭けに勝ったことがわかった。近頃は、客に賭けをさせる仕事ばかりをしていて目立たないが、もともと彼は、賭けをするとき、幸運の女神の寵愛を欲しいままにしている方だった。
 フェルナーは、副頭目の両の二の腕を鷲掴み、彼の薄い唇に自身のものを押し当てた。さほど抵抗のないことが分かるや否や、性急に唇を割り、中へ侵入して彼を味わう。それでも抵抗がないので、遠慮なく相手を貪り味わうことにした。

 時間にして1、2分ばかりディープキスをした後、フェルナーはようやく口を離した。2人の間に、透明な唾液の橋がツウと伸びる。
「…………いかがです?」
 ディーラーをするときのように自信に満ちた、不敵な微笑みを浮かべてフェルナーが問いかけた。
「悪くない」
 副頭目が評価を返す。フェルナーはニヤリと笑みを浮かべた。
「副頭目。今朝のご予定は?」
「お前の用件だけだ」
「よろしければ、少々ご一緒しませんか?」
「……よかろう」

 思いのほかノリノリの副頭目の様子に内心狂喜しつつ、フェルナーは、彼の高級スーツのボタンを外し、シワにならないよう丁寧に剥いだ。