オーベルシュタイン夢小説
30代女性士官の話
その1

 仕事は楽しい。やりがいもある。そう悪くない人生を送っていると思う。しかし、この先を考えると、途端にゆううつだ。

 軍務省情報処理室のデスクにつき、とめどなく流れ込んでくる報告とデータの山を次々流し読みし、内容を噛み砕き消化し理解し、短い報告へと再構築する作業に追われる私は、先日、まさにこの場所で三十歳の誕生日を迎えた。
 誕生日の前日、やってもやっても終わらない仕事に追われ、いつものように残業していた。ふとディスプレイから目を上げ、時計を見ると、ちょうど2本の針がまっすぐ上を向くところだった。カチ・カチ・カチと無機質な音を立てて動く針が、日付の変更を知らせる。

 お誕生日おめでとう(アレス・グーテ・ツム・ゲブァツターク)、ミーナ。今日から三十代。恋人いない歴、祝三十年。

 ただでさえ辛い疲労がいや増すように感じられて、ブハァーッと盛大に溜め息を吐き出し、私はデスクに突っ伏した。ああ、嬉しくない。つらい。
 かつて、前王朝の平民男性がそうだったように、戦場の最前線へ強制的に送られ、若くして死ぬようなことはない。だが、いっそ若くして死ねればこんな思いはしないのに、などと不謹慎な考えが浮かんでしまう。最愛の夫や恋人を失くす女性の絶望を私は知らないが、失くす以前に最愛の相手ができない絶望を彼女たちは知らないだろう。
 まあ、これでも前よりはマシなのだ。王朝が変わって、上層を中心に軍務省の構成員もすっかり変わり、ローエングラム王朝きっての非凡にして冷徹と名高いオーベルシュタイン元帥閣下が軍務尚書となられてからというもの、容姿と愛嬌よりも実力が評価されるようになった。かつて横行した女性を侮辱する発言も、厳しく取り締まられるようになった。独り身女性であることを嘲られる頻度は、おかげで格段に減ったのだ。
『結婚しないの?』とは、今でもたまに聞かれる。私はあいまいに笑って答える。『できたらしたいね』。でも、結婚は1人じゃできない…。
 評価を喜び、いさんで働き、また多くを任され、結果を出せば評価される。職場での自分の現状には、喜んでいる。しかし…このまま、誰に愛されることもなく、1人、老婆になっていくのか…と思うと、どうしたってゆううつになる。
 一方、男性たちが私を選びたくないだろうということは、あまりにもよく分かってしまうので、いさんで恋人を探そうという気にもなれない。若くて小さくてかわいくて愛想がよくて、仕事ができるよりも男を立てる程度にできない位の女性のほうが、男性からすれば魅力的だ。老けていて、しばしば男性をしのぐ長身で、不美人で愛想もなく、体格がやたらいい上にそこそこ仕事もできる女など、異性として近づきたい理由は何もないだろう。
 私も尚書閣下にならって、犬でも飼おうかな。…うん、悪くない。まあ、尚書閣下は私と違って、いくら人柄の世評が悪いとはいえ帝国元帥──求めれば美人の花嫁だって選り取りみどりのところを、あえてそうしていないだけなのだろうけれど。

 そんなことを考えていると、いましがた思い描いていた人物が情報処理室に訪れた。中の人間すべてが同時にサッと立ち上がり、背筋を伸ばして敬礼の姿勢をとる。
「尚書閣下」
「ご苦労。楽にしてよろしい」
 許可を受けて手を下ろす。半白の頭髪に青白い肌をもち、感情らしきものの見えない痩けた顔に無機物の義眼を光らせる軍務尚書が、情報処理室の面々を見渡した。
 彼の声はささやきのようにか細い。しかし、軍務省員たちから彼の発言への敬意が、突然怒号を発するかつての上官たちの発言へのものを、ゆうに超えるようになるのにそれほどの時間は要さなかった。
 ミーナ以外のメンバーが業務に戻るのを確認したあと、軍務尚書は、立ったままの彼女の元へやってきた。
「閣下。先刻送った資料ですが、あちらで問題ございませんでしょうか」
「結構だ。急な仕事だっただろうが、よくまとめてくれた」
「ご満足いただけて何よりです。何か、他の内容もご入用でしょうか」
「うむ──資産状況と、直近の物流の情報も、できるだけまとめて追加資料に欲しい。明日の午後までに必要だ。こんな時間に悪いが、やってくれるかね」
「はっ。承知しました」
「それと──これを」
 そう言うと、軍務尚書は背で組んでいた手をほどき、灰色の元帥外套の下に隠して後ろ手に持っていたものを差し出してきた。それは、冷静厳格な軍務尚書と恐ろしくミスマッチな、可愛らしくラッピングされたプレゼントの箱であった。
「これは?」
「先日、誕生日だったそうだな。仕事を任せて居残らせてしまったので、代わりにといっては何だが…不快でなければ、受け取ってくれ」
「わあ、ありがとうございます。お気遣い頂いてしまって。別に、祝うような歳でもありませんから、構いませんよ。これも帝国の為と思いますれば」
「では、貴官の貢献に敬意を評そう」
 深々と頭を下げつつ、差し出されたプレゼントをうやうやしく受け取る。何かのデータでたまたま誕生日を見かけられたのだろうか。
 単純に嬉しい、と感じた。誰かに誕生日を祝ってもらえるなんて、いつぶりだろう。しかも、こんな私相手でも一応女性だからということか、包装がやたらファンシーで可愛らしい。
 これを買い求めるために、この包装のようにファンシーな店で、周囲を凍てつかせるオーラを放つ軍務尚書が買い物をする様子を想像しただけで、なんともシュールで可笑しく感じた。まあ、『取り寄せた』のだろうけれど。
 彼は、他の帝国元帥や諸提督方にはひどく嫌われているという話だが、部下から見れば、公明正大であって信頼もできるし、時々、ちょっとした思いやりも垣間見える。
「ではな」
 用事が済むと、灰色の外套をひるがえしながら振り返って部屋を出ていき、軍務尚書は随行員と共に去っていった。
 実務的な用事は電子メッセージ1本で済みそうであったが、まさか、これを下さるためにわざわざ立ち寄ってくださったのだろうか。

 ちょうど良いから休憩もしておこう、と、さっそく貰った包みを開けてみる。中には、色とりどりのマカロンやメレンゲと、クッキーやキャンディなどが詰まっていた。綺麗に詰め込まれ、ひとつひとつが輝いていて、まるで宝石箱のようだ。
「うわあ…かわいい…」
 桃色のマカロンをひとつ手に取り、ツヤツヤの表面の美しさを眺めたあと、ひと口かじった。フルーティーな酸味と香りと、上品な甘さが口に広がる。
「おいしい……」
 職人技が光る至高のスイーツの美味しさと、『女としては価値がなくとも、士官としては不意にこんなものを貰えるほど評価されている』という嬉しさとで心が満たされ、ゆううつはすっかり吹き飛んでしまった。美味しいものを食べるのは、幸せだ。あまり食べると、太ってしまうのが困りものだけれど…。
 ひと口ひと口、目をつぶって味わいながら咀嚼し、紅茶も淹れて飲み干すと、よどんでいたミーナの目はキラキラと輝きを取り戻した。すると、彼女はふたたびディスプレイに向かい、いましがた追加された『明日午後まで』の仕事に取りかかり始める。
 そんな彼女の様子を、情報処理室のメンバーたちは微笑ましげに眺めていた。

      ***

「よければ今晩、夕食を一緒にどうかね」
 翌週の週末、軍務尚書の決済が必要な書類を執務室まで持っていったとき、去り際に尚書閣下がそのように声をかけてきた。ミーナは足を止めて振り返り、しばし思案し、あと残っている仕事は何だったかを思い返した。
 早急に終わらせる必要のある仕事は、今のところない。
「はい。構いません、閣下」
「では、三十分後にロータリーで待っていてくれ」
「はっ。承知しました」
 軽く敬礼を返し、執務室を出ていった。
 近頃、軍務尚書から直接依頼された調査・分析や資料取りまとめをすることが多くなり、それに伴って彼と関わる機会も増えてきていた。階級はずっと低いとはいえ、副官のフェルナー准将や軍官僚グスマン少将のような直属に準ずる部下に私もなりつつあって、これを機に為人を把握しておこうということかもしれない。
 自分たちのトップがどういう為人か、私の方も興味がある。確かに、一見すれば世評通りの冷たい人間なのだが、彼にはもっと、隠された性質があるように思えるのだ。
 情報処理室に戻り際、通路の壁に配置された鏡の前を通り、ふと、それに写った自身の姿を見る。
 ……うう。顔、テカッている気がする。夕食をご一緒するなら長時間顔を合わせることになるのだろうし、化粧くらい直していくべきか…あいにく、職場に化粧品を持ち込まなくなって久しい。そもそも、残業が続いたときなどは休んで着替えるだけで精一杯で、化粧せず出勤することだってよくある。
 来週からは、せめて、化粧品ポーチをちゃんと持ってくるようにしよう……。

      ***

 軍務尚書に連れて行かれた先は、本来ならば自分など無縁そうな、シャンデリアが下がり、静かなピアノの生演奏が流れ、エントランスに噴水があるような高級レストランだった。他の女性客を見ると、老いも若きも、完璧なメイクに輝くアクセサリー、そして見事なドレスで完全武装している。ただ、軍属の人々(男性ばかりだが)は軍服のまま入店しているようだ。
 よれた化粧と着の身着のままの軍服姿ではあるが、他の軍人たちのおかげでギリギリ、存在を許されそうだ。今日ほど自分が軍人であることを有難く思ったことはない。『軍人として帝国に尽くしている』というだけで、化粧やドレスがなくとも、女性も堂々としていられる日が早く来るといいのだけれど。
 灰の元帥外套をまとった軍務尚書が入店してくるのを見ると、燕尾を着た店のスタッフたちが何人か押し寄せ、他の客たちへのものよりも数段うやうやしい姿勢で入店への感謝を述べると、帝国元帥とその連れを丁重にテーブルへと案内した。
「遠慮なく好きなものを頼むといい。一応明言しておくが、代金は私が支払う」
「はっ。では、お言葉に甘えまして」
 律儀に宣言する軍務尚書に好感をおぼえつつ、メニューに目を走らせる。
『当然だろう』と思われるかもしれないが、人それぞれ違う常識を持っているもの。もっと若くて可愛らしい女性ならばそんな心配はないのだろうが、いざ支払いとなったら『会計は別で』、ひどいときは『ここおごって』となることも、私のようなのにはザラにある。
 とはいっても、『ここはおごってくれるのか』といちいち聞いたり、『男がおごるのが常識だろう』などとゴネるような真似はできない。言うのも嫌だし、聞かれた相手は嫌な顔をするので、自分の心が死にそうになる。そんなことをする位なら支払ってしまうか、そもそも食事になど行かないほうがいい。
 でも、宣言してくれるのなら安心だ。さすがは尚書閣下。
 ただてっきり、フェルナー閣下か誰か、他の方も一緒だろうと思っていて、まさか1対1だとは思わなかったけれど……。
 メニューに並んだ文字列に意識を向ける。……ううん。見慣れない単語がいっぱいだ。どれを頼むと何が出てくるのやら、さっぱり想像がつかない。
「尚書閣下は、こちらの店をよく利用されているのですか」
「いいや。普段であれば、夕食は家でとる。…1人で来るような店でもないからな」
「そうでしたか。実は、お恥ずかしながら、メニューの単語に馴染みがなさすぎて、何が出てくるのやらさっぱりでして。閣下がよく頼まれる品があるなら、それを注文しようかと」
「そうか。…では、肉料理か、魚介料理かなら、どちらがいい」
「…うーん。肉ですかね」
「焼いたものと煮込んだもの、どちらがいい」
「んー…では煮込みを」
「苦手な食べ物はあるか」
「大丈夫です」
「アルコールは平気か」
「グラスに5杯程度であれば」
「わかった」
 そう言うと、オーベルシュタインは静かに手を上げ、それを見た給仕が素早く駆けつけた。ミーナには呪文のように聞こえる注文の数々を申し付けると、給仕から食前酒の品目やポタージュやサラダの品目を問われ、軍務尚書は次々答えていく。
 最後に、デザートの種類を聞かれたときだけ尚書閣下がこちらを向いたので、給仕にどんなものか質問しつつ、これは自分で決めて答えた。
 高級レストランって面倒だな……『いつもの』で注文が終わる馴染みのダイナーが急に恋しくなる。
 そんな気持ちも、料理が運ばれ、ひと口食べた瞬間に吹き飛んだ。
「おいしい……」
 我ながら現金だとは思うが、これは、シャンデリアと生演奏と噴水と、ドレスにアクセサリーで飾った美しい女性たちとで場を盛り立てて出すのにふさわしい料理だ。まだ前菜のレタスとタマネギをひと口含んだだけだというのに、貧乏舌には真打ち並みのインパクトがある。
 感激しながら目を閉じ、ひとかみひとかみ、味わって食べる。おいしい。幸せ。ここへ来られて嬉しい。こんなものを食べられたのも、尚書閣下のおかげ……。
 ハッとして目を開く。いけない。つい食べる方に夢中になってしまった。尚書閣下は私の為人を探るために連れてきたのだから、ちゃんと会話をしなくちゃ。
 軍務尚書の方を見てみると、無表情な細面の顔と、無機物の義眼とがこちらを向いていて、ジッ…とその目に見つめられていた。
「申し訳ありません、閣下」
「なぜ謝る」
「その……食べるのに夢中に」
「そうだな。実に、おいしそうに食べる」
「すみません…。閣下とお話するのが筋でしょうに」
「別に、無理して話さなくともよい。今の様子を見る方が、連れてきた甲斐がある、と思える」
 うう、良い方だ…。どうして嫌われているんだろう。彼を目の敵にする諸提督方とやらは、揃いも揃って嫌な奴らに違いない。
 お許しも出たことだし、と、なんとも卑しい平民的だが、料理をおいしく楽しむことにした。ああ、さっぱり味付けされた野菜がどれもすごくおいしい。彩りもなんて美しいのだろう。新鮮ないい食材を腕のいい料理人が仕上げただろうことが、平民の舌でも感じ取れる。大好きな油物はまだ登場していないのに、体にエネルギーが湧く感じがする……。
 ひたすら食べる私を、オーベルシュタイン閣下は、美味くもなさそうに時折料理を口に運びつつ、本当にひたすら黙って見ていた。なんて忍耐強い方なんだ。いや、口数が少ない方なのだったか?
 さすがにいたたまれなくなり、食い気を抑えて話しかけることにした。
 休日に何をしているのか、噂のペットの犬の様子、子どものころ何をして遊んでいたか、最近ハマッていることは何か……。
 他愛のないことばかりだが、どれも謎に包まれていることではあるので、軍務尚書の答えはいずれも新鮮だった。『子どものころは本ばかり読んでいた』というのは、いかにも尚書閣下らしいと感じた。
 そんな調子で、関心の6割7割くらいは食事に集中し、尚書閣下との会話も忘れないようにしながら過ごした。よく分からないながら頼んだデザートも絶品で、甘いものが大好きな私は夢中で食べた。
 食べ終えて尚書閣下を見ると、ジトッ…とこちらを見つめて押し黙っている。結局、私が一方的に話をふっただけだったが、彼が聞き出したかったことは一体何だったのだろう。彼にとって今日の会食は、こんなに良い店に連れてくるだけの価値があっただろうか。
『やっぱり支払いは自分で』と言われたらどうしよう、と少し頭に過ぎったが、軍務尚書は宣言どおり全額を支払ってくれた。深々と頭を下げるスタッフたちに見送られ、高級レストランを後にする。
『家まで送ろう』と言われ、さすがに申し訳ない気がしたが、固辞するのも失礼だと思い、お言葉に甘えて車に同乗した。
『今度こそ、外では言えないことを聞かれるかもしれない』、そう思って待ち構えていたが、軍務尚書は中々話を切り出さず、お腹もいっぱいだったので、いつの間にか眠ってしまった。

 肩をつつかれて目を覚ますと、見慣れたボロい下級士官官舎の前にいた。
「…あ、寝て…も、申し訳ありません、尚書閣下」
「いや。疲れているのに、付き合ってくれて感謝する」
「いえいえ。とんでもございません。私の方こそ、あんなに良いところでご馳走してくださって、ありがとうございます」
「いい。私が呼んだのだ」
「それで…あの…よろしいのですか?」
「なにがだ」
「なにか、話があってお呼びになったのでは…」
「……いや。何もない」
「何もない…?」
「ああ。…眠いのだろう。早く、帰って休みなさい」
「……?? あ、はい。おやすみなさい、閣下」
「おやすみ。またな」
「はい、また来週」
 疑問を感じつつも車を降り、振り返って様子を伺う。こちらをジッと見ている軍務尚書は、呼び止める様子をみせない。ただ、無表情のままジッ…と見つめるだけである。

 今日は…一体、何だったのだろう?

 最後に軽く敬礼すると、軍務尚書は頷き、こちらから目をそらし、運転手に指示を出すべく口を動かした。車が動き出し、オーベルシュタインが去っていく。
 それを見送りながら、今日の出来事の意味を考えてみる。…やはり、わからない。まさか、食べているのを見るだけで満足だったはずもあるまいし。
 わからないことを考えても仕方ない。考えるのをやめたミーナは、官舎の自室に入り、化粧を落として歯を磨き、シャワーを浴びて髪を乾かし、ベッドに倒れ込んでそのまま眠った。
 住所を教えた覚えがなかったことに気付いたのは、それからしばらく後のことである。