オーベルシュタイン夢小説
30代女性士官の話
その4

「聞いたか。あのオーベルシュタインに女ができたらしい」
 蜂蜜色の髪をもつ小柄な帝国元帥──ウォルフガング・ミッターマイヤーがそう切り出すと、彼が酒を酌み交わす相手──黒髪と、金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の目とを持つ帝国元帥──オスカー・フォン・ロイエンタールが「ああ」と応えた。
「ここ数年の間に、銀河の様相が目まぐるしく変わる出来事はいくつもあったが、これほど驚く事件はなかったな」
「まったくだな。あの男に情というものが存在したことにも、あれを好きになる女性がいたことにも驚きだ。まさか、近日中に銀河が滅ぶのではないだろうな」
「もし本当にそうであれば、明日、とつぜん銀河が滅んだっておれは不思議におもわんよ。だが、おれの考えとしては、その女が奴の新たな策謀の道具に使えるということか、あるいは、その女が、軍務尚書を誑かしている、という線もあると思う。その両方かもしれん」
「噂で聞いた話だが、その女は軍務省に勤める士官で、職務上、軍務尚書とやり取りすることが元々多かったらしい。軍務省の者の話によると、2人は、あるときから毎週のように食事に出かけるようになり、1ヶ月ほどでもう婚約を交わしたそうだ」
「婚約? あのオーベルシュタインが、女に指輪を買って求婚したと?」
「そうらしい。大粒の宝石がついた上物の指輪を特急で作らせ、彼女に贈ったそうだ」
「あのオーベルシュタインが女に貢物か。なんとも滑稽な話だ」
「好いた女のために贈り物を用意する、そんな心が奴にもあったらしい」
「ほう。……して、その女、本当に、あのオーベルシュタインを好いているのか」
「さあな。噂じゃ、満更でもないそうだが」
 ロイエンタールが、色の違う両目をいたずらっぽく細める。
「……もし、その女がオーベルシュタインをあっさり見限り、他の男のところへ行ったら、奴でも嫉妬に狂うと思うか?」
「おい、何を考えているんだ。オーベルシュタイン1人をどうこうしようというなら構わないが、罪のない女性を巻き込むなよ、ロイエンタール」
 ミッターマイヤーは声を尖らせた。
「なに、『罪のない女性』は巻き込んだりしない。だが、婚約者を裏切る女だとしたらどうだ?」
「ロイエンタール!」
「……はっ、冗談だ。本気にするな、ミッターマイヤー。おまえは、この手の話題になるとすぐ熱くなる」
 そう言いつつも、ロイエンタールの胸中の悪意は、『オーベルシュタインの婚約者の女』へ向けて着実に形成されつつあった。

(そう、ミッターマイヤーの言う通り、罪のない女性は巻き込まない。だが、婚約者を裏切る女であれば、オーベルシュタインの奴にひと泡吹かせるのに使っても構わないだろう?)
(なにせ、女という生き物は、男をだますために生まれてきているのだからな)
 整った顔に浮かんだ黒い笑みをごまかすべく、ロイエンタールは杯をグッとあおり、陰謀の気配を、親友に悟られないようにした。

      ***

 私、ミーナ・トラウトナー。軍務省情報処理室所属・銀河帝国軍中尉の30歳女性。このたび、軍務省のトップである上官の軍務尚書オーベルシュタイン帝国元帥と結婚することになった。
 お付き合いを始めることを決め、初めてのキスを交わし、ファーストネームで互いを呼び合い、直後にその場でプロポーズを受けた私は、さすがに展開が早すぎるので婚約を待ってもらっていた。
 しかし、毎日通う職場では『ただのプレゼント』だった指輪が『婚約指輪』と誤認され、招かれて行った彼の屋敷では執事夫妻に猛烈な『嫁に来い』プッシュを浴び、いつの間にやら正式に婚約を受け入れざるを得なくなっていた。
『先日付き合い始めた恋人で、求婚の返事を待っている』という主人の紹介を聞いた瞬間、おだやかで優しげだった老執事とメイドのご夫婦のお顔が、獲物を見つけた肉食獣のものに豹変する。その様子が、今でも鮮やかに思い出せる。
 前王朝打倒の総参謀長を務めた男の策略は、さすがに伊達ではない。どうあっても逃さないおつもりだ。しかし、それでいて、決して卑怯であるとか、臆病とかいう印象を与えないのが彼という人間である。
 本音を隠し、耳触りの良い建前を並べ、我が身を守りながら体良く隣人を蹴落とそうとする輩は、男でも女でも苦手だ。一方、軍務尚書はというと、あんな弱々しい体つきをしているくせに、防御を捨て、本音と正論のストレートブローを連打で叩き込むタイプである。
 傍から見ていると、本当にヒヤヒヤしてしまう。相手からの反撃が飛び、打たれてもケロリとしているけれど、『そのアザは本当に痛くないのか』と手を伸ばしたくなる。
 そんな酔狂なことを考える私は、たぶん、すっかり彼に落ちているのだろう。

 そんな訳で、今、オーベルシュタイン邸へ住まいを移すべく、住み慣れたボロ下級士官官舎を立ち退く準備を進めている。リサイクルショップで集めた不揃いの食器も、型落ちで安かった家電も、もう使うことはないかもしれない。
 ああ、お腹すいたな。ちょっとスーパー行ってくるか。ダンボール箱の専有面積が大分大きくなってきた部屋を後にし、私は馴染みのスーパーに向かった。
 あそこのスーパーは、夕方になると出来合いのおかずが安くなる。その手前のダイナーは、残業続きで疲れ切ってよく行ったところで、『いつもの』と言うだけで注文できるくらい店主に顔を覚えられている。
 こういう店にも、『元帥夫人』になったら多分、まったく縁がなくなるのだろうな。重たい買い物袋を自分で運ぶことも、夜のダイナーでたっぷり盛られた定食を口にすることも、もう、なくなる。不思議なもので、こんな生活でも、いざ『なくなる』となると急に寂しい気がしてくる。

 スーパーへとボンヤリ向かう道すがら、左手の薬指にはめた指輪をいじくった。
 尚書閣下の義眼に似た褐色トルマリンをメインにあしらい、ダイヤと白金で輪を形作られた、彼からのプレゼントの指輪である。今の雑な服にはまるで不似合いな超高級品だが、『いつも着けていて欲しい』という尚書閣下の希望で、だいたいいつも身に着けるようにしていた。
 彼と、はじめて口付けを交わした日を思い起こす。持ち主の感情に呼応し、チカチカと赤く点滅する義眼が間近にあった。表情が乏しく、無感情に見える彼の、秘められた情熱が光る。少し強引に頭を掴まれ、深く口付けされる感覚を思い起こすと、身体の奥底がゾクゾクした。
 意外に、積極的なんだから……。
 顔が紅潮するのを感じ、ミーナはフルフルと頭を振った。なんだか最近、軍務尚書のことを考えるとドキドキしてしまう。若い娘じゃあるまいに…。

 ミーナがそんなことを思っていたとき、彼女の脇で黒塗りの車が1台止まった。特に気に留めずに通り過ぎた彼女の後ろで車のドアが開き、降り立った人物は声をかけてきた。
「失礼、トラウトナー中尉だろうか」
 呼ばれて、ミーナは振り返った。アッと声をあげ、手を上げて敬礼の姿勢を示す。
 そこには、金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の帝国元帥──統帥本部総長オスカー・フォン・ロイエンタールの姿があった。ミーナが直に彼を目にするのは、これが初めてである。
 こんな夜中に突然、私にいったい何の用だろう。軍務尚書との婚約に関係することだろうか?
「ロイエンタール元帥閣下。お会いできて光栄です」
「こちらこそ光栄だ、中尉。貴官が、オーベルシュタイン元帥の婚約者で間違いないか?」
「はい。さようでございます」
「ふむ、そうか」
 そう言うと、元帥は私の傍に近づいてきた。何の用だろう、といぶかりつつ見ていると、不意に、元帥は私の左手首を掴み、持ち上げた。
「…!? 閣下!?」
 思わず叫ぶ。元帥は、薬指にある指輪を指ごと掴むと、じっくり傾きを変えながら検分し始めた。
 驚き困惑しつつ、とっさに手を振りほどく。やっと手が離れたので、指輪を胸元に引き寄せ、守った。
「何です!?」
 声を尖らせて抗議したが、元帥は、いやな笑みを浮かべているだけだった。
「それが、オーベルシュタインの奴が君に贈った指輪か」
「ええ。閣下に頂いたものですが…それが、なにか?」
「ふむ……」
 そう呟くと、元帥はジロジロと私を眺め回した。いかにも『品定めしている』といった様子の、いやな目線だった。
 しばらくソレは続き、ようやく元帥が口を開いた。
「……いい指輪だな。軍務尚書殿は、君を高く“買って”いるらしい」
「……はあ。……ええ、まあ…畏れ多いことに」
『能力を評価する』というより『女の身体を買う』といった意味合いに聞こえる文脈であって、かつ、後者の響きが強くにじんでいる。『見つめた女性を残らず引き込む、妖しく美しいオニキスとサファイア』と称される両眼に色濃く浮かぶ、悪意と軽蔑の色を見れば、その感想が間違っていないことは、火を見るより明らかだった。

 目の前にいる帝国三元帥の1人、統帥本部総長ロイエンタール元帥は、うわさに違わぬ美丈夫である。軍人男性をメインに扱う雑誌の表紙を飾ることもしょっちゅうのようで、彼の顔を初めて目にしたのも、そうした雑誌を通じてのことだった。
 しかし今、長身の彼がこちらを見下ろす目つきを見ていると、雑誌を見せてくれた後輩たちのようにハシャぐ気分には到底なれそうにない。整った顔の上に、『なんと小汚い女だ』と書いてあるのが見える。
 ほっとけ、プライベートだ。アポなしで来たお前が悪い。
「もう行っても? 恐れ入りますが、小官は、引越しの準備をせねばなりませんので」
 金銀妖瞳の元帥のあからさまな不快顔に負けじと、不快感をたっぷり滲ませた丁寧口調で応じると、彼は慌てて取り繕うように笑みを浮かべた。
「ああ。先ほどは、失礼な真似をしてすまなかった。…さすがは、あの軍務尚書が見初めた花。あまりに麗しいので、つい、手を触れたくなってしまった」
 いやー…嘘つけ~。生ゴミを見るような目だったぞ。
 それに、明らかに“軍務尚書の婚約者”情報ありきで声をかけてきていたし、だいたい、思わず手を触れたのは、どちらかといえば指輪のほうだったでしょう。『あまりにモテない女は賛辞を素直に受け入れられない』なんて言うけれど、こればっかりは、私が卑屈なせいでそう見えているわけではないはずだ。
「……それは、どうも」
『信じてませんよ』という声色を十分に効かせて皮肉っぽく御礼を言い、ミーナは進路へ向き直り、とっとと立ち去ろうとした。
 しかし、ロイエンタールは食い下がり、先ほどとは逆の手を掴んで引き止めてきた。バッと振り返り、遠慮なく失礼な元帥を睨む。
「まだ何か?」
 答えは、予想だにしないものだった。

「おれが、それより良い指輪をやる、と言ったらどうする?」
「………はい??」
 どゆこと?

 あまりに予想外の展開に固まっていると、掴まれた右手が元帥に引っ張られ、至近距離まで引き寄せられた。
 元帥は、私の右手を両手で持ち、口元まで引き寄せると、騎士が姫君に口付けるような仕草で手の甲に口付けてきた。私は驚き、ビクリと全身が飛び上がるのを感じた。
 なんだこれ。なんだこれ。…なんだこれ!?
「トラウトナー中尉。婚約したばかりの貴女に、このような申し出をするのは失礼だろうが……おれは、君に恋をしてしまった。どうしても、そう伝えずにいられなかった。なあ、今からでは遅すぎるか? …もし君がおれを選んでくれるなら…その指輪の代わりに、おれが贈る指輪を着けてくれるのなら…もっといい指輪を贈るよ。約束する。…どうかな?」
 そう囁く低音の声は、楽器の音色のごとく心地よく、それ1つだけでも多くの女性を射止められそうであった。文言の甘さと、女子心をくすぐる演出も相まって、先ほどまでのロイエンタールから感じた悪意は『単なる気のせいだったのではないか』という気がしてくる。
 しかし、私はそこまでお花畑じゃない。
「いりません。お断りします」
 ピシャリと言い放つと、ロイエンタールは金銀妖瞳の両眼を見開き絶句した。手を離させ、家に戻るべく踵を返し、逆の進行方向へと急ぐ。
 間違いない。この男、軍務尚書に嫌がらせをしたくて私に絡みに来ている。どこまでやるつもりかは分からないけれど、ともあれ、早く離れるに限る。官舎まで追って来るようなら、パウルさんに連絡をとらないと…。
 だが、官舎まで着く間もなく、背後から走る足音が聞こえた。振り返ると、それは、ロイエンタール元帥の立てているものだった。ザッと血の気が引く。
「待て!」
「いやあっ!!」
 なんなの!? ウソでしょう!? 色仕掛け作戦は失敗したって、分からないの!?
 必死で逃げたものの、ロイエンタール元帥に追いつかれてしまった。またもや、腕をつかまれ、がくんと引き寄せられる。
「いやーー!! 離して!! 何なんですか一体!?」
 必死に叫ぶ。なに!? 何が起こってるの!?
「おい、逃げることはないだろう。なんだ? 指輪だけじゃ不満か? 何が足りない、言ってみろ」
 元帥の応答はトンチンカンだ。どう考えてもそういう問題じゃないでしょう。
「離してください!!」
「クッ…!」
 元帥は手を離さない。なにこれ!? 訳が分からない!

 ロイエンタールは、その女性経験の多さから、自分は女をよく理解している、と自負していた。それは、一部では正しいが、一部は誤りである。
 母親に殺されかけ、父親に「不義の子」であることを詰られて育った彼は、女性不信を幼心に刷り込まれて育ち、自分から女性に近づくことを無意識に避けて生きてきた。したがって、彼がよく知っている女性とは「向こうから彼に寄ってくる女性」に限った話であって、そうでない女性の知識は、むしろ、普通の男性よりも乏しいのである。
 その結果、彼は、今目の前にいる女性が『初見から自分を毛嫌いしている』という事実に気付けずにいた。

「──なあ、取って食おうというんじゃあない。そうだ、立ち話もなんだから、どこか店にでも」
「行きません!! 離してください!!」
「…ッ!! おい、暴れるな…!」
 そのとき、人気のない暗い夜道の空気を凍てつかせ、小さく、しかし春雷のように轟く別の男の声が響いた。
「ロイエンタール元帥」
 ロイエンタールは、見えない手に喉を締め上げられたように感じ、声を出せなくなった。
 彼が手を緩めた隙をつき、ミーナは彼の拘束から逃れた。声の出処を見ると、そこには、見慣れた長身痩躯の男の姿があった。
「尚書閣下!」
 少し裏返った声でミーナが叫び、半白の頭髪の元帥の元へと駆け寄っていく。
 オーベルシュタインは、駆け寄ってきたミーナを受け止めるように軽く掴み、前へ出て、ロイエンタールから守るように自分の背後へ回らせた。
「……勘違いであれば良いが…このような夜更けに、統帥本部総長ともあろう人間が、嫌がる女性を無理に連れていこうとしているとは……穏やかではないな」
 この世の何よりも『穏やかではない』オーラを撒き散らしながらオーベルシュタインが言うのを聞くと、ロイエンタールは肝が凍りつく感覚を覚えた。
 いけ好かない義眼の男は、いつも通り感情らしいもののない無表情の仮面を被り、静かな声で淡々と話している。だが、彼が、今まで見たことのないほど本気で腹を立てていることが、目に映らないあらゆるモノを通して伝わってきていた。凡庸の者ならば、その波動だけで心臓を凍らせ、息を引き取りそうである。
 しかし、ロイエンタールは凡庸ではない。恐怖感を払いのけ、できるだけ常の調子を保ちつつ、ロイエンタールは答えた。
「……人聞きの悪いことを言う。おれは紳士だ。無理に連れていこうなど、夢にも思わんよ」
「そうか。……何よりだ」
「……まあ、軍務尚書殿には、おれの言い分など信じられんだろうがね。今夜のことも、さぞ、悪意に満ちた表現でカイザーのお耳に入れるつもりであろう?」
「カイザーにはお伝えしない」
「ほぉう?」
「……だが、そうだな。判断に迷うので、もう一人の元帥……ミッターマイヤー提督には、相談するかもしれん」
「…ッ!! ミッターマイヤーが、お前の言を信じるかな」
「私の言を信じなくとも、卿が車を降りてから今に至るまでの監視映像、それに、どのような会話があったかの録音さえ、疑わないでくれれば良い」
「……ッグ…!!」
 ロイエンタールは返答に窮し、俯いた。彼は、今晩のことを、カイザー以上に、ミッターマイヤーにだけは知られたくなかった。
「…しかし、」
 押し黙ってしまったロイエンタールに対し、オーベルシュタインが続ける。ロイエンタールが目を上げた。
「ときに、魅力的な女性は、優れた男をも狂わせる、と聞く。…ただの一度の、未遂に済んだ過ちだけをもって、建国の功臣たる卿の功績を無視するわけにもいかんだろう。卿が、今後の身の振り方をわきまえるのであれば、何もなかったことにしても構わない……君が、許せるなら、だが…」
 そう続けると、オーベルシュタインは背後を振り返り、後ろのミーナに問いかけるような視線を向けた。
 ミーナは頷いて応えた。
「尚書閣下のよろしいように」
 ミーナの答えに頷くと、オーベルシュタインは再びロイエンタールの方へと向き直り、返答を待った。ロイエンタールは、参った、と、少々おどけて見せながら応じた。
「…無論、そうさせてもらおう。引き換えに何を要求する気か知らんが、軍務尚書殿と、未来のご夫人のご寛恕に感謝する。…失礼しても構わないかな」
「ああ」
 軍務尚書の答えを聞くと、ロイエンタールは青の元帥外套を翻し、車を停めた場所へ向かって立ち去っていった。

 彼が立ち去り、二人きりになると、オーベルシュタインはミーナの方へ目を向けた。
「勝手な真似をしてすまない。…無理はしていないか」
「いいえ。大丈夫です、閣下」
「そうか。…彼は、士官としては優秀なのだが、少々、人格に懸念がある。…私が言えることではないが。しかし、この国はまだ出来たばかり。人格に問題があるからといって、そうそう、これほどの地位の人間を替えられるほど、安定してはおらんのだ」
「存じ上げております」
 そうした調査の取りまとめをしたのも、他ならぬミーナである。
「ただ……」
 そう呟くと、ミーナは、オーベルシュタインの軍服の端をつまみ、ほんの少しだけ、すがるような様子で引っ張った。
「こわかった…です。…その。来てくださって、ありがとうございます……パウルさん」
 消え入るような声でミーナは言った。まだ、手の震えが止まらなかった。
 見上げてみると、オーベルシュタインの義眼が、自分をジトッ…と見つめていた。そのまま、無言の時がしばらく流れる。
「今晩、我が家にこないか」
 ふいに、オーベルシュタインがそう切り出してきた。
「……え。その…でも、引越しの用意がまだ」
「残りは、人を雇って、すべて持ってきてもらってはどうだ。費用なら私が出す」
「え。え。でも、その…要らないモノ捨てたりしたいですし、もう業者さん呼んでますし…」
「捨てるのは、こちらに来てからでも構わんだろう。業者にも、約束通りの報酬を渡せばよい」
「困ります。今、こんな格好ですし……作業してたせいで、ドロドロで汚いですし」
「我が家のバスルームを使うといい。官舎のものより広いぞ」
「…ううう…困ります。今日は、ホント、その…困ります、閣下」
 ミーナが後ずさる。だが、オーベルシュタインが屈み、一方の手をミーナの背中に、そして、もう一方の手を彼女のヒザの後ろ辺りに回してきた。
「え? ──わ! わっ」
 グラリ、とミーナの身体が傾き、仰向けに倒され、倒れた身体がオーベルシュタインの両腕に預けられる。
(こ、こ、これは、もしや、『お姫様抱っ──)
 ガクン、とオーベルシュタインの身体が前のめりに倒れ、彼の腕もろとも落下したミーナは、石畳の上にしたたかに尻もちをついた。
「うわっ!!」
「ウッ!!」
 オーベルシュタインは危うくミーナの上に倒れ込みかけたが、どうにか踏みとどまり、引き倒してしまった婚約者へ更に追い打ちをかけることは回避した。
「……す…すまない。怪我をしなかったか」
「……大丈夫です」
 いつも感情のさざなみすら立たぬはずのオーベルシュタインの顔に、微かな狼狽の色が差す。ミーナは真顔だった。
 オーベルシュタインはもう一度、彼女を持ち上げようとした。ミーナは、バッと彼の腕をつかみ、頭を激しく左右に振って制止した。
「閣下、危険です。お止めください」
「……なんの。この程度、」
「閣下! ……その……危険です。腰を痛めでもしたら、業務に支障がございます。どうか、国家の重鎮たる御身を御自愛くださいますよう」
「………ミーナ、」
「大丈夫です。私は大丈夫です。ちゃんと後日、予定通りそちらに移りますから」
 そう言って立ち上がろうとするミーナを、今度は、オーベルシュタインは制止しなかった。彼女に続いて立ち上がったオーベルシュタインに、ミーナは真顔のまま向き直る。
「助けて頂き、本当にありがとうございました。また来週、軍務省で」
「………ああ」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 ミーナが立ち去った。彼女の姿が見えなくなるまで見守った後、オーベルシュタインは、自らの車を停めた場所へ戻っていった。

      ***
 車の中では、フェルナーがヒクヒクと身体を震わせ、笑いを堪えながら上官の帰りを待っていた。車には、首都に存在する数多くの監視カメラ・盗聴器へ自在にアクセスできる設備が備えられており、今しがた起きた出来事についても、あまさず観測することができた。
 上官が戻る頃には、フェルナーは笑いの発作を完璧なまでに押し隠し、変わって、愛想のよい笑みを浮かべて上官を迎えて見せた。
「いやあ、素晴らしい救出劇でございました。ソリヴィジョンのドラマのようでしたよ。こんなことが現実にも起きるのですな。小官も、毎晩のように閣下のストーキンg……いえ、愛の見守り活動にお付き合いした甲斐がございました。閣下、たいへんに格好良かったですよ。まさに、救いのヒーローでございました。トラウトナー中尉はきっと、閣下に惚れ直したに違いありません」
「……………」
「愛らしかったですな、『こわかったです』──小官も、ちょっとトキめいてしまいました」
「……………」
「……その…閣下、ご存知ですか? 同じ背格好の男女では、実は、女性のほうが重いそうです。子供を産むために、色々と必要なものがありますからね。…いやあ、トラウトナー中尉は背も高いですし、骨もしっかりしてそうですし、きっと、丈夫な子供を産──」
「だまれ」
「はい」
 それ以降は一切、口をきくことなく、軍務尚書の自宅へ向けて自動運転のセットをしつつ、フェルナーは、密かに、笑いを堪えきった自分自身を賞賛した。