オーベルシュタイン夢小説
30代女性士官の話
その3

 待ち合わせ場所の、軍関係者しか入ることのできない港(フェルナー准将の手配で人払いされた)にあらわれた軍務尚書は、挨拶もそこそこに、ミーナへこう告げた。
「きみを食事に誘ったのは、異性としてきみに関心があり、恋愛的な意味合いで近付こうと考えたためだ」
 腹をくくったのか、告白する声に一切のよどみもためらいもない。
「しかし、その事実をきみがどう感じるにしろ、私は、やはりきみに何もするべきではなかったと思う。フェルナー准将に何か吹き込まれたかもしれんが、そのことも、食事のことも、今私が告げた好意も、すべて忘れてもらいたい」
『告白される』とばかり思い込んでいたミーナは、予想外の言葉を投げかけられて面食らった。交際を受け入れるかばかり考えていた脳に、冷や水を浴びせられたような驚きを覚える。
(告白を聞きに来たら、告白された直後にフラれた…だと…?)
「え…と…」
 返答に詰まるミーナを見て、オーベルシュタインは説明を続けた。
「私もきみと同じく、『帝国と皇帝のおん為ならば身を捧げる』と決めている。この身や命だけではなく、必要とあらば名誉も、好意も、私が持ちうる何もかもすべてを捧げる。侮辱も、憎悪も、怨嗟も、必要ならばすべて引き受ける。だからこそ私は、私の歩む道に誰も引き入れるべきではない。ゆえに、きみのことも、遠くから見るだけに留めておくべきであった」
 そこまで述べると、オーベルシュタインはミーナから目をそらし、手すりの向こうの海原を見つめた。
 血の気の失せた顔を夕焼けの光が照らし、青白さが覆い隠され、彼の横顔がいつもより明るく見える。彼の眼窩にある偽りの瞳に宿った『本物』の覚悟が、それを見るミーナを圧倒した。
 手すりの向こうでは、夕暮れ時のオレンジに染まった空と海との間の水平線へ向かって、太陽が沈もうとしていた。もうすぐ、夜の帳が下りる。
「………どうかしていた。無為に付き合わせてしまって、すまなかった」
「無為だなんて…そんなこと…」
 ミーナの脳裏に、少し遅い誕生日プレゼントの菓子箱を差し出すオーベルシュタインの姿、最初の食事で聞いた彼の昔話、そして、これまでの4度の食事で見てきた、口数が少なくて、だが熱心に自分を見つめる彼の姿が駆け巡る。
 ミーナは、いつか愛される日を待ち望んでいた。一方で、『こんな私を愛する人などいない』と思い込んでいた。せっかく彼は自分を愛してくれたというのに、それと気付けないほどに。
(なんて馬鹿だったんだろう。5回目のお誘いのときは、本当に酷いことを言ってしまった……)
「少しの間だったが、楽しかった」
 それを最後に、オーベルシュタインは灰色の元帥外套を翻し、ミーナと手すりから離れて立ち去っていった。まっすぐ背筋を伸ばし、一切の迷いなく歩みを進める彼の背中が遠ざかっていく。
(ああ、そうだ。新軍務尚書の彼を初めて見たとき、あの背中がカッコいいと思ったのだ)

「尚書閣下!」
 ミーナは叫び、弾かれたように駆け出していった。
 呼び止められたオーベルシュタインが、立ち止まってそちら振り返り見る。追いついたミーナは、彼の両二の腕を掴み、軍務尚書を捕まえた。彼女が、至近距離の正面から義眼をまっすぐ見据え、口を開く。
「私と、恋愛的な意味合いで、男女の交際をしてください!」
 風情もへったくれもない表現で叫ぶ。彼らの間で取り交わされる情報のやり取りは、いつだって、法文のように誤解のしようがない、一意の表現である。一番やり取りするのは仕事中だからだ。
「私に近づけば、不幸が降りかかるぞ」
 相手の告白に何ら動じた様子を見せず、オーベルシュタインは淡々と返した。
「構いません。閣下と共に、受けて立ちます。それが、この国の為ならば」
 ミーナは即座に返した。
 メロドラマに定番の「きみを必ず幸せにする」とは真逆の台詞を浴びはしたが、そんな陳腐な台詞を吐く軟派な男よりもずっと、不幸が降りかかったとき、尚書閣下は自分を守ろうとしてくれる。そんな気がしていた。
 そのとき、オーベルシュタインの表情が変わった。ごく、僅かな変化ではあったが、ようやく見慣れてきたミーナは、それが嬉しそうな顔であることを、初めて汲み取ることができた。
「それでは、謹んでお受けしよう。フロイライン・トラウトナー」
 キスは初めてするけれど、タイミングはここに違いない。そう確信し、オーベルシュタインの顔に、ミーナが自分の顔を近づける。
 背伸びはいらない。しかし目線は、軍務尚書のほうが高い。
 唇が触れた。肉付きが薄い。乾いてカサカサしている。緊張していたせいだろうか。
 相手の背に腕を回し、抱きしめる。細くて肉が薄い。軽い気がする。
(尚書閣下、ちゃんと食べてるのかな)
 軍務尚書も腕を回す。ミーナが、ぎゅ、と抱き締められる。
(思ったより力が強い。男の力だ。暖かくて、ホッとして、幸せな気持ちになる。だれかに抱き締めてもらえたの、十数年ぶりな気がする)
 唇が触れるだけのキスをして、いったん顔を離す。軍務尚書の顔が間近にあった。彼の義眼が、チカチカと赤く点滅している。感情が昂ぶっているからだろうか。ミーナもまた、さっきから心臓がドキドキしていて、生身の五体すら上手く操れそうになかった。
 ふいに、オーベルシュタインがミーナの頭を両手でとらえ、もう一度唇を合わせてきた。今度は、より深くまで口付けを交わす。
「ふっ…!! んんん…!!」
 突然、タガが外れたように積極的に動き始めた軍務尚書に驚き、ミーナは呻き声を漏らした。彼の舌が入ってきて、自分の舌が絡め取られる。その感触に、脳が痺れるような感覚を覚えた。
(あ、ディープだ。これ、ディープだ…。やり方、わからない、な…大丈夫かな…)
 思考が単調になり、途切れ途切れになりながらも必死に応じようとする。
 短くて長い時間が過ぎ、そろそろ息が辛いと思ったところで、オーベルシュタインが顔を離した。膝から崩れ落ちそうになるも、軍務尚書が抱きとめて支える。
「はぁ…はぁ…」
 呼吸を整える。
(すごい。これが、恋人のキス…か…)
 顔を上げると、尚書閣下と目が合った。
 もうすっかり日が落ちて、空は青く、星がまたたいている。彼が口を開いた。
「…名前で、呼んでもかまわないか」
「名前…あ、尚書閣下、なんでしたっけ、お名前…」
「パウル、だ」
「パウルさん…」
「ミーナ…」

「結婚してくれないか」
 突然プロポーズされ、ミーナは目を見開いた。

「えっ!?」
「いやか?」
「ええっ、と、その、嫌ではないんですけど…」
(ついさっき付き合うことにしたばかりなのに、いまやっとファーストネームを呼び合ったばかりなのに、展開が早い! 確かに、さっきのやり取りはもう結婚する流れだったけれども!)
 急に、ミーナの胸中に、相手は帝国元帥閣下であるという事実と、彼との結婚はすなわち『元帥夫人になる』ということを意味することとが浮かんだ。
(私が、元帥夫人? つい先ほどまで恋人いない歴イコール年齢で、三十過ぎた行き遅れで、ボロい下級士官官舎住まいの平民の私が??)
「今日、付き合い始めたばかりですし…その…もう少し、心の準備というか…時間いただきたい…です」
「そうか…」
 言いながら、オーベルシュタインはミーナの左手をとって持ち上げた。彼女の左手の薬指の根元を、親指と人差し指で挟む。
「…まあ、今日は私も、指輪を用意できていない。きみは指輪を作ったことがないようだから、サイズが分からなかった。一緒に店に行こう。デザインも、きみが着けるのだし、きみが選ぶほうがいいだろう」
「それもう、婚約指輪作ること決定しているではありませんか…」
「ならば、『ただのプレゼント』の指輪でいい。婚約指輪は別に作って、あらためて渡そう。それならばどうだ?」
「……あ、はい。それでしたら…はい」
「では…週末は空いているか? 食事に…誘うが、今度は来てくれるね?」
「あ、はい。大丈夫、です。伺います」
「よし。そのとき、指輪も仕立てに行こう」
「は、はい」
(急に、尚書閣下がグイグイくるようになった…! ここに来てすぐのときは「すべて忘れてもらいたい」なんて仰っていたというのに)
「明日はお互い、仕事がある。今日はここまでにしておこう。官舎まで送ろうか」
「あ、…えと…」
「送ってあげよう」
「えっ」
 有無を言わさぬ勢いに飲まれ、肩をガッチリ抱かれて連れて行かれ、ほぼ強制的に尚書閣下の送迎車に押し込まれる。ミーナをチラチラと見る運転手が、何となくニヤついていた。
「トラウトナー中尉の家まで」
「はっ」
 軍務尚書の命令を受け、運転手が行き先をセットする。
 後部座席で揺られながら、ミーナの胸中には、
(もしや、自分が尚書閣下に交際を申込んだのは、彼の策略による結果なのではないか)
 という疑いが頭をもたげてきていた。

      ***

 その疑いが確信に変わったのは、翌週、『なるべく早く』という軍務尚書の無茶振りを受け、しかしこれ以上ない上客を逃すまいと考えるフェザーン職人たちにより急ピッチで仕上げられた『ただのプレゼント』の指輪を着け、出勤してすぐのことだった。
「トラウトナー中尉、尚書閣下との婚約、おめでとー!!」
 左手の薬指に、薄茶色の大粒の宝石と、輪に並行する向きにライン状に並んだ無数のダイヤと、白金で作られた指輪がはまっているのを視認した同僚たちは、次々に、ミーナへ婚約の祝福を述べた。
「近頃、あの尚書閣下とよく食事に行っているって噂は聞いていたが、婚約とは! やったな、トラウトナー中尉」
「『結婚できな~い』って嘆いていたと思ったら、帝国元帥閣下を射止めていたとは。隅に置けないなぁ、お前」
「うわぁ、高そうな指輪。流石、帝国元帥。これ、おれの年俸何年分すんだろ…」
「すごい…! 私の彼、ぜったいこんな指輪買ってくれないですよ。うらやましいです、トラウトナー中尉」
「いや…これは…」
(『ただのプレゼント』の指輪なんです。と、言ったところで、周囲の印象は『ただならぬ仲』で確定だよなぁ…これ…。実質的には婚約指輪で『予約済み』になってしまったわけだ)
(はめられた………。これが、尚書閣下の策略か)
 宝石が光る左手を見やる。
(まっ、いいか…。これから一緒に居る時間が長くなれば、逆に、私が彼を引っかける機会もあるかもしれない)
 その考えが自分に少なからぬ愉悦を与えるのを感じ、これは、やっぱり結婚するしかないなあ、などとミーナはボンヤリ考えた。

      ***

 同僚たちから次々祝福を受けるミーナの姿を監視カメラの映像越しに眺め、オーベルシュタインは、予定通りコトが運んだことを確認した。
 たまには、他人の筋書きで踊ってやるのも悪くない。いい息抜きになった。フェザーンに移るにあたって、フェルナー准将にも負担がかかっていただろうし、彼にもいいストレス解消になっただろう。
 だが、そろそろ私が、主導権を握らせてもらおう。

 それにしても…。
『宝石のお色は、どうなさいます?』
『色ですか。…ううん。そうですね。では…尚書閣下の義眼と同じお色を』
『フフッ、はい。かしこまりました』

 あれは、何も意識せず出てきた言葉だろうか。それとも、何か狙いがあって繰り出した台詞だろうか。そうだとしたら……おもしろい。

 これから槍が降ってもおかしくない位めずらしいことに、オーベルシュタインは満足げな微笑みを浮かべた。