世界線を超えて
その1

 先に義眼を新しいものに替え、ローエングラム伯が元帥杖を受け取る様を見に行く。貴族の末席にある私は、たかが大佐とはいえ、遠目にそれを見ることを許される。
 これから何が起こるかなど露ほども知らず、もうじき死ぬ上級貴族たちが新・元帥の陰口を叩き合うのを聞く。同じ内容を万は聞いたが、彼を評価していた数少ない者たちは生き残り、大多数のそうでない者は綺麗さっぱり死ぬから、その様を思い出しながら聞くと、中々に面白い。
 そして、少し時間をあけたら『紫水晶の間』へ向かう。そこでは、貴族ではない軍人たちがたむろしている。その中に、彼がいる。
 大勢の中でも目立つ、燃えるような赤毛を目指し、彼に近づく。彼の名前を呼ぶ。怪訝という字を顔に書いたような表情で振り向く彼に、私は、せいいっぱいの愛想笑いをして自己紹介する。
「パウル・フォン・オーベルシュタイン大佐です。お初にお目にかかる」
 聞き覚えのない私の名前を聞き、うまく隠してはいるが、彼は警戒を強める。
 何万回目になるか、数えるのも馬鹿らしいほど繰り返した『初対面』を、また果たす。
 私にとっての初対面では、彼はもっと優しく、暖かかった。そのときは、道中、義眼の不具合が生じ、視界をなくして私は動けなくなっていた。大勢が嘲笑し通り過ぎる中、彼だけが私を救ってくれた。おかげで彼は式典に間に合わず、『紫水晶の間』にさえ居なかった彼を探し、やって来たローエングラム伯に叱られた。
 その『初対面』は、もう起こらない。私の記憶の底にだけ存在し、かすれて消えていく。

 だが、それでいい。その出来事は必要ない。その先に、彼の望んだ未来は続いていないのだから……。
***
「どなたか……どなたか、おられませんか?」
 無数の足音が通り過ぎるのを聞き、盲いた私がか細い声をあげる。だが、返ってくるのは嘲笑だけで、手を差し伸べる者はいなかった。
『劣悪遺伝子』『生きる資格のない人間』そんな言葉も聞こえてくる。三十五年の人生で、何度も何度も聞いてきたものだ。
 だが当時の私には、憎悪する余力すらなかった。助けを呼ぶことすら諦め、その場に座り込む。家の老執事が気づいて、ここまで迎えに来てくれることを祈るしかない。
 新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)には初めて来る。しかも、視界のある内に見た限り、段差や階段が無数に存在した。ルドルフの造った城に、盲者の為の誘導パネルなどあるはずもない。
 私にできたことは、ただ耐えることだけだった。いたぶる者に見いだされないことをのみ願い、嘲弄から意識を遠ざけ、せめて涙を流さないように耐える。
「もし。大佐殿。どうなさいました? ご気分でも悪いのですか?」
 若い男性のやさしい声が降ってきた。私は、その声にすら怯えた。助ける振りをして更にいたぶる者など、珍しくもなかったからだ。
 ぶざまに四つ足で這いずって声から逃れ、立ち上がって記憶を頼りに走る。両腕をのばし、前に障害物がないことを確認し、必死に逃げようとした。
「あぶない! そっちは…!」
 警告の意味を、私はすぐに理解した。下り階段だった。
 踏み外した足が空を切り、小動物のような甲高い悲鳴をあげ、私が転がり落ちていく。頭を打って、意識がとんだ。気づくと顔が熱くて、何か――血が流れているとわかった。身体中が痛かった。
 みじめで恐ろしくて、自分はあまりにも無力で、痛くて痛くてたまらなかった。涙も声も、もう抑えきれなかった。
 あとから見れば傾斜が浅く、せいぜい五段ほどしかない階段で、怪我の程度も軽かったのだが、当時の私にとっては恐ろしい落とし穴だった。
「――担架を! これは命令です! 大佐殿、しっかり! 私の声が聞こえますか!?」
 親切な青年が助け起こしてくれたとき、力強く温かい腕を感じた。彼が、私をいたぶるために近づいたわけではないということを、その時やっと信じることができた。
「――はい」
「よかった。両目は義眼、ですね?」
「ええ。両方、故障、して、通信、……も、落とし……家の……呼べなく……」
 意志に関係なく痙攣が起き、うわずった声の説明は途切れ途切れだった。それがまた、たまらなく情けなかった。
「こんなに大勢人がいるのに、助けを求めなかったのですか?」
 質問に答える前に、声をあげて泣き出しそうになった。だが、なんとか耐えた。このやさしい青年に少しでも報いたかったし、なにより、周りで嗤っている連中を喜ばせたくなかった。
「もとめました」
 なんとか、それだけを口に出し、あとは唇をかんだ。それ以上口をあけていたら、泣きわめいてしまいそうだった。
 さいわい、彼は理解してくれた。その後、彼が救護室まで付き添い、家の者が来るまで一緒にいてくれた。目の見えない私が『一人にされた』と思わぬよう、手を握ってくれていた。その手はとても、暖かかった。
 彼の連絡を受けたラーベナルトが来てくれたとき、私はようやく、彼の名前を尋ねる余力を得た。
「お名前は? どうか御礼をさせてください」
 やさしい青年の声は、てれくさそうに答えてくれた。
「ジークフリード・キルヒアイス大佐です。お気持ちだけで結構ですよ、オーベルシュタイン大佐」
 帰り際、『ラインハルト様』と呼ばれる別の青年の声がして、どこかに居なかったということをキルヒアイス大佐は責められていた。私のせいで約束に遅れたのだ。私は、申し訳なくて、また泣きそうになって、唇を噛んで耐えた。強く噛みすぎたのか、血の味がした。
 彼が、燃えるような赤毛で、とても背の高い好青年であるということを、後日、一番の上客に出す高価なお茶請けを持って訪ねた時に初めて知った。
 そして、『ラインハルト様』なる青年が、美しい金色の髪をもった、キルヒアイスすら霞む絶世の美青年であり、しかも、あの式典の主役たる『ローエングラム伯』であることを知った。
 美しいが、恐ろしかった。
「ふうん。お前が、キルヒアイスを遅れさせた『オーベルシュタイン大佐』か」
 憎々しげなその声に、今では可笑しくなるほど私は震え上がった。
「申し訳ありません」
 震える声で謝罪し、深々と頭をさげる。白髪の多い髪がバサリと落ち、内側の髪まで半分白くなっている様を相手にさらす。自分が震えていて、髪が小刻みに動くのを感じた。当時は、それを利用しようなどという知恵もなかった。
「私が……行く前に、きちんと……新しい義眼に替えていなかったせいです。どうか、キルヒアイス大――准将のことをお責めにならないでください。閣下」
 彼らの親密さなど露知らず、この時はただ、キルヒアイスが准将に昇進したことしか把握していなかった。彼は自分より十五も下だったが、彼への嫉妬など露ほどもおぼえず、彼のようにやさしい人間が認められ、昇進することを嬉しく感じていた。
 自分にできることなど何もないかもしれないが、自分のせいで親切なキルヒアイスが責められることだけは避けたい、ただ、その一心であった。
「べ、べつに怒っているわけではない。顔をあげよ」
 いらだたしげな応答に、当時の私はただ怯えるだけだった。見てくれが不快だと言われたこともあるので、きっと、彼ほど美しい人間には、私のようなものが目の前にいるだけで耐えがたいのだと早合点した。
 今考えると、髪は半白・顔には包帯・両目は義眼で痛々しい、いたって恭しい態度で訪ねた年嵩の大佐を怯えさせた幼馴染みを見かね、視界の外でキルヒアイスが睨むなり小突くなりし、伯を叱ったのだろうと思う。あの声は、あわてていたのだ。
 そうと知らない私は、伯の元帥就任と、キルヒアイスの准将昇進をお祝いし、逃げるように彼らの家を去った。後日、ほとんどその詫びのような(キルヒアイスの)お情けで、私は、ローエングラム元帥府へ転属させてもらえることになった。
 最初、私に誰も期待を寄せていなかった。デスク仕事は中々わるくないと認められ、元帥府の面倒な事務作業を主担当としてこなすようになった。とはいえ、ローエングラム伯もキルヒアイス准将も、あまりに優秀なうえ働き者であるため、私の価値はほとんど無かった。
 報告の歯切れが悪く、しびれを切らしたローエングラム伯からこうお叱りを受けたこともある。
「まどろっこしい! 卿は私に何を言いたいのだ!? 言いたいことをはっきり言え!」
 元帥府に私の価値が認められ始めたのは、キルヒアイス准将――その時には中将だったろうか――彼に付き添わせて貰い、祝勝パーティーに出席したときの出来事がきっかけだった。
「あの方にはご注意ください」
「あの方は大丈夫でしょう」
「今の方は危険です。なにか企んでいる様子……」
「大丈夫です。初対面の相手には冷ややかに接しますが、気の優しい方です」
 そのようなことを彼にアドバイスしていると、後日、伯から呼び出された。
「卿は、貴族どもの腹が読めるらしいとキルヒアイスに聞いた」
 自分では気づかなかったが、このとき、幼い頃から人の顔色ばかり見て育ち、噂話に聞き耳を立て、失敗しないよう情報収集してきたことが、彼らにとって無二の価値となることがわかった。私は、彼らと敵対する貴族どもの策謀を読み、彼らと、伯の姉君・グリューネワルト伯爵夫人を陰謀から守る役割をおおせつかった。
 こうして、ローエングラム伯とキルヒアイス中将からの信頼は得たものの、武勲によって取り立てられた提督達からすると、私の印象は悪かった。私を見る度、こちらを睨み、なにやら陰口を交わす彼らから、私は急ぎ足で逃げた。彼らと共に広間に呼び出されたとき、私は目を上げることができず、背を丸めてうつむき、時が早く過ぎ去ることをただ望んだ。
 だが、私の心は明るかった。いかに私を好かぬとはいえ、提督達は、わざとつまづかせて嗤うような真似までしない分、これまでの上官よりずっとマシであった。それに、ローエングラム伯――後に侯となった彼が躍進すればするほど、この国は目まぐるしく良い方向へ変わっていくように思われた。
 ただひとつ、この先には、地獄への転機が存在した。

 リップシュタット戦役の戦勝式典で、ローエングラム侯が、死ぬ。
***
 ヴェスターラントの二百万人を救った先には、十億人の更なる戦死が待っていた。長引きに長引いたリップシュタット戦役は、無限に血を吸って膨れ上がるかのように思われた。
 最終的には、ローエングラム連合が勝利をおさめた。だが、皆疲弊し、勝利の喜びより、多すぎる無辜の犠牲に罪悪を抱く気持ちのほうが大きかった。
 戦勝式典には、いつもどおり、キルヒアイスだけが武器を持って並んだ。それは、提督達にとって癇にさわっていたらしいが、候と同じく私も『彼ならば当然だ』と甘く見ていた。それが、どのような結果につながるかも知らずに。
 そして、アンスバッハ准将がやってくる。ブラウンシュヴァイク公爵の棺とともに。彼が骸からハンド・キャノンを取り出す。引き金を引く前に、キルヒアイスが彼を撃ち殺す。
 それが、アンスバッハの真の狙いであった。その程度のことは当然、彼は予期していた。彼を会場に入れてしまった時点で、我々の誰かが犠牲になることは確定していたのだ。奥歯に仕込んだ毒で自害するのではなく、銃などの火力で殺傷された場合、彼の身体に密かに仕込まれた爆薬が反応し、人型爆弾となって彼が爆発する。
 撃たれたアンスバッハの身体が、まばゆい光に包まれる。光が晴れたとき、式典会場は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
 私は、後ろの方にいたので軽傷で助かった。だが、手前にいた提督たちや兵士たちは爆発に巻き込まれ、提督達の幾人か――ケンプ、メックリンガー、ミュラーの三名が、天上(ヴァルハラ)に道連れとされた。
「ラインハルトさま!!」
 金切り声があがる。そちらに目を向けると、負傷したキルヒアイスが、血の海に沈んだ金色の頭を助け起こす様が見えた。
 彼が候を――候だったものを揺り動かす。だが、彼の胴体は、落下してきた天井の欠片で大きく抉られ、内蔵がこぼれでている無残な状態だった。
 何度も呼びかけ、ゆさぶるのを止めない様子から察するに、すでに息がないらしかった。
 傷の浅い者の中で一番地位が高かったのは自分であったので、まずは、生存者の救護を命じて回った。息のある提督達と兵士達を運ばせ、最後にキルヒアイスを移動させようとする。
「キルヒアイス閣下……」
「わ――わた――私は、いい――ラインハルトさまを――ローエングラム候を、はやく」
「閣下。申し上げにくいことなのですが――」
 彼が抱えた、金髪の若者を見る。あの苛烈な薄青い瞳は、もはや何も宿していなかった。
「ローエングラム候は、もう――」
 言い終えることはできなかった。
「ああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 キルヒアイスの痛烈な叫びが響く。
 無礼だが、彼が正気を取り戻すのを待っていたら、彼まで天上へ連れて行かれてしまう。「ラインハルトさま」「お約束したのに」「申し訳ございません」などと泣きわめく彼を、数人がかりで無理に遺体から引き剥がし、救護室へ運んでいった。
***
「グリューネワルト伯爵夫人に、お伝えいたしました」
 そう言っても、病床のキルヒアイスは中空を見つめたままだった。だが、かすれた声で「ありがとうございます」とだけ応じた。
「アンネローゼさまは……なんと……」
「閣下だけでも無事でよかった、と」
 それを聞いて、キルヒアイスは甲高い悲鳴をあげ、またも狂乱に陥った。
「アンネローゼさま、申し訳ありません、ジークは、ジークは、約束を、ラインハルトさまを、ああああ、ああああああ」
 軍医に目で命じ、彼にふたたび鎮静剤を打たせる。まもなく静かになり、赤毛の青年は、ふたたび眠りに落ちた。
***
 キルヒアイスを休ませた後、残った提督達に呼ばれ、高級士官クラブ(ガンルーム)へ向かう。生き残ったのは、ミッターマイヤー、ロイエンタール、ビッテンフェルト、ワーレン、ルッツだった。
「キルヒアイス閣下のごようすは?」
 ミッターマイヤー大将が私に尋ねた。
「変わりありません」
 応じると、彼は思いきり舌打ちを響かせた。彼自身も負傷したうえ、ローエングラム候を失い、キルヒアイスも狂気に陥ったままで、いらだちを隠せない様子だった。
 ロイエンタール大将が、猛禽めいた金銀妖瞳(ヘテロクロミア)をするどく光らせ、強い口調でこの場の全員に話す。
「キルヒアイス上級大将にはたちなおっていただく。たちなおっていただかねばならぬ。さもないと、我々全員、銀河の深淵にむかって滅亡の歌を合唱することになるぞ」
「だが、どうすればいいのだ? どうやってたちなおっていただく」
 途方にくれた声は、ビッテンフェルトのものであった。重苦しい沈黙があとに続く。
「おい。卿には、なにか打開策はないのか?」
 ロイエンタールの声が沈黙を破る。それが自分に向けられた質問であることに、少し遅れて気づいた。
「小官に?」
「そうだ。こういった謀略の類いは、卿の得意分野だろう」
 それは、期待というより、単なる捌け口の要求であった。どうすることもできない絶望を、この場にいる、誰も味方しないだろう者を生け贄にして、晴らそうという類いのものだった。
「小官にそのような案がないことくらい、おわかりでしょう。姉君に訃報をお伝えするだけで、頭がいっぱいでした」
「ふん。戦果もなしに取り立てられたくせに、役に立たん奴め」
 その理不尽な言い様に、私が予想した通り、提督達は誰も反論しなかった。反論することによって、新しい槍玉となることなど、この場の誰も望まなかったのだろう。
***
 何もできないまま更に数日が過ぎた。私は、提督達の生け贄に進んでなろうとは思えず、二度と高級士官クラブ(ガンルーム)には近づかなかった。ただ、正気にもどったキルヒアイス閣下が命令をくださるのを待ち、彼の病室にずっと付き添った。
 そこに居られる間、彼の手を握っていた。彼の安心に役立てれば幸いではあったが、どちらかといえば、私が彼にすがっていた。かつて唯一味方してくれた彼に、年甲斐もなくすがりついていたのだ。
 あるとき、ビッテンフェルト中将がやってきた。てっきり、キルヒアイス閣下の見舞いにきた――あるいは、息の詰まる高級士官クラブ(ガンルーム)から、ちょっと息抜きしに来たのだと思っていた。
「なあ。お前は、キルヒアイス閣下に――つく、よな。なにがあっても」
 病床で眠る彼の手を握ったままの私に、彼はそう尋ねた。
「ああ」
 どういう意味で聞かれたのか、その時はわからなかった。
「そうか。なら、いいんだ」
 それだけのやり取りの後、病室を去る直前、
「すまない」
 そう言われた気がした。
 それは聞き間違いではなかったと、少しして分かった。
***
「危険があるかもしれないから」
 そう言われ、最小限の随行員とともにキルヒアイスと私はシャトルに乗せられ、どこか――思い出せない名前の辺境惑星に向かい、発つように言われた。それは、キルヒアイス上級大将を見限ることを決めた、提督達の最後の配慮だった。
 惑星に着いた後、ふいに焦燥をおぼえて調べ物をすると、彼らの裏切りが判明した。
「閣下」
 そう、やっと声を絞り出して呼びかける。幸い、キルヒアイスは正気のまま目をむけてくれた。
「どうしました」
「提督達が――我々を、見限りました。ここへ逃したことが、せめてもの忠義でしょう。ですが、それまでです。次に彼らに見つかれば、我々は殺されます」
 絶望と共に報告しても、キルヒアイスの声はやさしかった。
「そうですか。仕方がないですね。私も、ずっと伏せっていましたし……もう、ラインハルトさまは、宇宙の何処にもいらっしゃらないのですから……」
「閣下……」
 キルヒアイスは、力強く手を握り返してくれた。
「オーベルシュタイン中将、あなたも早くお逃げなさい。私と一緒にいては、あなたも命がありませんよ」
 私は首を振った。
「せめて、お供をさせてください。何もできなかったお詫びに」
「あの優しそうな執事殿がかなしまれますよ」
「軍人の主人を持つ以上、彼も覚悟はできています。遺言状は毎年更新し、彼にも夫人にも十分な退職金が渡される手筈をととのえております。それに、私には、残す家族もありません」
 フッ、と、自嘲した。
「私には、そもそも生きる資格すらない。事故が原因と偽りましたが、この目は、生まれつき見えないのです。『劣悪遺伝子排除法』に則れば、私は、生まれてすぐ安楽死させられねばならなかった。母が医者に金をにぎらせ、事故だと偽らせたのです。母の想いには感謝しておりますが、『なぜ死なせてくれなかったのか』と思わぬ日の方が少なかった。生まれながらの死人として歩んできて、キルヒアイス閣下、あなたに出会ってお仕えできたことだけが、唯一『生きていて良かった』と思えることです」
 手を握り返す。
「どうか、死出の旅路を共にさせてください」
 そう返すと、キルヒアイスはそれ以上とめなかった。ただ、天井を見上げ、その向こうの夜空の星のひとつになってしまったラインハルトを見つめる。
「ラインハルトさまさえ、生きていれば……あのとき、お救いすることができれば、こんなことにはならなかったのに……。ラインハルトさまをお救いできるなら、私はなんでもする……もしも時間を巻き戻せるなら、私は、あの日あの時をやり直して、必ずや、ラインハルトさまをお救いするのに……」
 それは、彼にとって恐らく、たんなる絵空事であった。だが、私にとっては可能なことだった。いや、可能かもしれないことであった。――オーベルシュタイン家に伝わる、ある禁忌の技を使いさえすれば。
「承知いたしました」
 キルヒアイスが不思議そうにこちらを見やる。
「閣下。我が家には、とある『秘宝』が伝えられています。それは、使用者に過去をさかのぼらせ、世界の歴史を改変する道具――『タイム・リープ・マシン』です」
 その言葉を聞き、キルヒアイスが目を輝かせた。
「なんですって?」
「戻れる過去は、使用者自身の誕生まで。使えば、指定した日時の自分自身へと戻ることができます。普通の人間がそれを使うと、使用者自身の記憶も過去にさかのぼって消えるため、未来を変えることはできません。しかし、オーベルシュタイン家の血を引く者が使えば、以前の世界を記憶したまま、過去へと戻ることができます。少なくとも、1日前に戻れることは、私自身が実験済みです。それを使い、ローエングラム候が生き延びる未来を現実にしてみせます」
 キルヒアイスがガバッと飛び起きた。
「そのようなことが、可能なのですか!?」
「わかりません。世界を、望むまま、簡単に変えることはできないと、先祖の記録には書かれています。多くの場合、まるで世界そのものが改変をこばむかのように恐ろしい事象は起こり続け、何度も繰り返しやり直すうち、使用者が発狂するといいます。『くれぐれも使わず、秘密裏に守るのだ』とも。しかし、破壊せず守る理由は、こうした機会に用いるためでしょう。私は、あなたのためなら何でもやってみせます」
 キルヒアイスが、私にすがるように肩をつかんだ。
「ええ……ええ! どうか、どうか、お願いします。あなたに辛い想いをさせたくはありませんが、他にたよれる方はおりません。どうか、お願いします」
 彼の次の台詞を、私は、何万回も繰り返す時間の旅で、幾千幾万回思い出した。
「こんな世界は、まちがっています。どうか、ただしい世界をみちびいてください。ラインハルトさまの生きている世界こそ、ただしい世界です。どうか、帝国に未来を……あなたのような人が、生まれながらの死人などという悲しい存在にならない世界を、どうか、現実にしてください」
 私は、彼を安心させるため、力強く頷いた。彼は、涙を流して喜んでくれた。
 その星を離れ、私は、首都星オーディンの自宅へ戻った。その間に、キルヒアイス上級大将が討伐されたというニュースを見た。
 私は、伝家の宝刀を取り出した。今ここで使うことこそ、これが守られ受け継がれてきた理由にちがいない。
『タイム・リープ・マシン』を起動した。何度も何度も、私はここから過去へ戻った。
 先祖の記録通り、私は、無限とも思える周回のなかに閉じ込められ、ラインハルト・フォン・ローエングラムが死なない未来を探す旅を続けることとなった。
***
 失敗するたび、さらに過去までさかのぼり、結局、キルヒアイスとの初対面まで改変する必要があるとわかった。ここに来るまでに、すでに万を超える『やり直し』を繰り返していた。
 義眼をあらかじめ替えて行くため、キルヒアイスに救助される機会は失った。繰り返し繰り返し同じ世界を見るうち、何が起きるかをすっかり暗記してしまい、どのような突発的な事象にも、冷静に最適な対処を行えるようになった。提督達への怯えなど、百を超える頃には欠片もなくなっていた。喜びも悲しみも怒りも憎しみも感じなくなり、心も、どこかに落としてきてしまったようだった。
 私が過去へさかのぼった日がくるたび、ラーベナルトたちが心配した。『別人のようだ』と、何万回も繰り返し言われた。『禁忌の旅を始めた。帝国二五十億人の民のために』と応じると、彼らは納得してくれた。
 ローエングラム元帥府に採用されるきっかけを失ってしまったので、私は、いつわりの憎悪を演じ、どれほどゴールデンバウム王朝を滅ぼしたいかをアピールするようになった。そのために、自分をあえて死地においやった。説得力を増すためだ。
 フェルナーが部下になるのは、良い兆候だ。色々なことがやりやすくなり、ローエングラム候が生き延びる未来に辿り着きやすくなった。
 そして、ようやく、ローエングラム候が死なない未来に辿り着いた。だがそれは、キルヒアイスの命と引き換えに得られる未来だった。
 それから更に数万、キルヒアイスも死なない未来を探した。何度か、二人とも死んでしまう未来に着いた。グリューネワルト伯爵夫人が亡くなったこともあった。
 ロイエンタールはよく謀反を起こした。好戦性が強い提督たちは、彼についていってしまうことが多かった。彼と仲が良いミッターマイヤーは、意外なことに、ローエングラム候が死なない限り、ロイエンタールと共に裏切ることは決してなかった。
 そして私は、『ローエングラム候が死なない未来は、キルヒアイスの命と引き換えによってしか得られない』という結論に辿り着いた。
 もしかしたら、私がいまだ歩いていない過去の行いの先に、二人が生きている未来もあるかもしれない。しかし、それがよりよい未来である保証はないし、仮に、グリューネワルト伯爵夫人がその未来にいないとしたら、きっと、キルヒアイスは――私を頼ってくれた、もはや天上にもいないキルヒアイスは――そのような世界を望まないだろう。
 私は、自分の正気が擦り切れきってしまう前に、あるいは途中で命を落とす前に、得られた未来で妥協することにした。
 そう。この世界は、そう悪くない。ローエングラム候は生き延びるし、グリューネワルト伯爵夫人が死ぬこともない。ヴェスターラントの二百万の民と引き換えに、その後死ぬはずだった十億人の民が生き延びる。三人が早々に命を落とすはずだった提督達も、ここで死なずに生き延びられる。そして、ローエングラム王朝が誕生する。

 キルヒアイスの命と引き換えに。

 これだけリターンがあるなら、やさしい彼を神にささげるに足ると考え、妥協するべきだろう。それに、キルヒアイスが自分に望んだのは、ローエングラム候の命と、彼がもたらす新たな宇宙の秩序だ。彼とローエングラム候が生きていることではない。
 私がうらまれることなど、もはや代償とも感じなかった。

***

 死ぬとわかったとき、私の心は安らかだった。
 最後に犬のことを思い出した。最初の世界では存在しなかった犬だ。なんとなく目つきが気に入って、その老犬を拾うことにした。
 彼の優しい目と温もりが、どこにも存在しなくなったあのキルヒアイスに似ていたことに、そのときようやく気がついた。

Ende