世界線を超えて
その4

 くつがえせない困難が続いたとき、物語の主人公は『この世に神など存在しない』とよく嘆く。私は逆に、『神は存在するのかもしれない』と思い始めた。神でも悪魔でも構わないが、そういった存在が妨害しているとしか思えぬほど、ローエングラム候の運命は変えられなかった。
 アンスバッハへの行動は思いつく限り試した。事件が起こるより前に撃ち・刺し・落とし・閉じ込め・足止め、殺すも生かすもあらゆる手段を講じたが、むしろ候の死因に予測がつかなくなるだけだった。式典より前に候が死ぬ世界もあれば、そもそも貴族連合に敗れる世界すら存在した。
 その都度、私は世界をやり直した。あえて試してはいなかったが、命を落とした場合、最終設定日時へ戻される機能も確認できた。
 特定のある日の夜、自室の机に1人でいる時点に戻ってきて、私は椅子の背に体を預けた。机には、私の日記が開かれている。この日のページを見るのは、もう1万回を越すだろうか。記録をつけられないので、正確には分からない。
 無限に繰り返し眺めた世界に、もはや喜怒哀楽のいかなる感情をも覚えない。耳に入る陰口も、『オドオドとして自信がなく気弱』ではなく『すべて見透かしているように異様なほど行動に無駄がなく、感情もなく薄気味悪い』といったものに変化した。かつての私が今の私を見たら、きっと同じ感想を抱くだろう。

(誰だ。私の邪魔をしているお前は、誰だ?)

 なにもない天井を見上げ、私はそう心中で呼びかけた。
 誰かなど分からない。『何か』さえ見当もつかない。だが確実に、何者かの存在が、候の運命を変えようとする私の前に立ちはだかっている。これが、『神』というものなのだろうか……。
 だが、そうだとしたら、
「神を殺し、運命を変える」
 口に出してから、『私も随分強気になったものだ』と思った。
 いや、強気とは違うな。私にとってはもう、この憎悪だけが頼りなのだ。脳髄も胸も腹もすべて満たして黒く燃え上がる激しい憎しみ、それだけが、今の私を動かしている。
 そのとき、奇妙なことが起こった。まず、世界が二重・三重にぶれて見えるようになった。義眼の不具合かと思っていると、自分の五感すべてが曖昧になった。椅子に座っている感触も、部屋の空気の温度感も、あらゆるすべてがボヤけ、よく分からなくなった。
(いよいよ狂気に陥ってしまったのか)
 そう思った。キルヒアイスに申し訳ないという気持ちは、もう感じなかった。ただ、『口惜しい』という想いが浮かぶ。
(私は今、どんな状態なのだろうな)
 気のふれた私がすぐ死なないなら、ラーベナルト達に苦労をかける。
 正気を探し、私は感覚をさぐった。何が見えるか、何が聞こえるか、何が感じられるか、理解しようとした。

 そして、唐突にすべてが分かった。

 世界は幾重にも重なっている。世界が幾重にも連なり伸びている。無数に分岐して平行しその後は互いに交わることなく流れていく。
 私がいる。『私』が大勢いる。様々な『私』がいる。合わせ鏡に姿を映したように、様々な時点、様々な分岐の『私』がいる。鏡の中――鏡の世界に映る『私』たち、だが反転した像はなく、されど全く同じ像はひとつもない。
 大勢の『私』が互いを認識する。ありとあらゆる分岐にある『私』と、ありとあらゆる時点にある『私』が、自分以外の『私』すべてを認識する。1万の旅を経た『私』たちが今、互いの存在に気づき、そして、気づかれた。
 時間と分岐によって拡張された『私』が集まり、1カ所に集約された。1万の旅をした『私』たちだけではなく、そうでない『私』も、もっと以前に居る『私』も、異なる分岐に在る『私』も、すべてが掻き集められる。掻き集められ、『私』たちは1つの私になった。
 すると私は、世界の時間軸と分岐軸を認識できるようになった。因果の糸がどこからどう繋がり、どこで絡まっているのか、すべてが見えるようになった。
 ローエングラム候の死には、やはり、アンスバッハが強く関係する。だが、思った通り、彼は一部にすぎない。決定打となっているのは、アンスバッハ家に代々生まれる予言者だった。
 その者は、いかにもうさんくさい外見だが、どの世界線においても効果的な指示を伝える。アンスバッハが死ぬ世界では、他の者が仕事を引き継ぐ算段をつけてしまう。
(なるほどな。『タイム・リープ・マシン』と機能は違えど、世界の分岐に影響を与える秘宝は、オーベルシュタイン家以外にもあり、その1つがアンスバッハ家にあったという訳だ)
 協力を求められたビッテンフェルトが、死の運命に飲まれた理由も分かった。なんのことはない。『候を助けてしまうから』こそ、彼は死ぬことになるのだ。
 私が生き残る理由も分かった。『決して候を救えない』からだ。

 だが、もう違う。

 私は、予言者の『分岐と因果を見る力』を含めた世界の分岐を読み、取るべき行動を考え始めた。私が取る行動を思い直すと、アンスバッハ側も手を変える。イタチごっこだ。最後まで保った者が勝利する。あちらにも代償はあるはずだ。
 恐怖はなかった。そういう感情も、どこかで落としたのかもしれない。だが、そうでなくとも、敵の姿が見えるようになり、戦意は高まっていた。
 私が行動を変える。世界線が変わる。アンスバッハの予言者に見える物が変わり、その指示が変化する。それを感知し、私が更に分岐を変える。ぐるぐる、ぐるぐると因果が目まぐるしく巡り動き変化する。
 1万の旅でも微動だにしなかった重厚なる運命の扉が、軋んだ音を立てて開き始めた。
 予言者が死んだ。目と鼻と口から血を吹き出し、候を殺すため予言を試みた時点で死ぬようになった。
 因果が解けた。ローエングラム候の死という未来にすべて繋がっていた因果の糸がするりと解け、無数の平行世界に変化した。候が死ぬ未来だけでなく、候が生き延びる未来も無数に現れた。
 すべてが今、書き換えられた。あとは簡単だ。沢山ある世界のうち、最も望ましそうなものを確定させるだけ。
 それを起こすには、まず『ローエングラム伯の元帥杖授与式にて、予定通りキルヒアイスが紫水晶の間に居る』必要がある。私は、式典の前の自分へと戻った。故障する義眼を事前に取り替え、キルヒアイス大佐の救助を受けることなく式典会場へ向かう。
 ふと、あることに気づいた。

 神はいる。それは今、私だ。

 全知にも全能にも程遠く、唯一とは限らない。存在できるのは、私が誕生してから死亡するまでの間だけだ。しかしその間、私は限りなく神に近い存在である。水をワインにすることも、石をパンに変えることもできないが、世界の分岐と因果を感知し、望む世界を得るための行動を正確に実行できる。
 世界を自由に創り変えられる存在。これを神と言わずして、なんという?
 それに、神は言うではないか。『光あれ』と。
 私は、7日よりは流石にかかるだろう世界の創造に挑むべく、まずは、キルヒアイスとの初対面を果たすため、紫水晶の間に佇む彼へ挨拶しに行った。

      ***

 やり直した世界の一つで、私は、興味本位でこう尋ねてみた。
「もし、過去を遡り、『キルヒアイス上級大将が生き延びる代わりに、閣下が亡くなる世界』にできるとしたら、それを実現させたいとお思いになりますか」
 キルヒアイスの棺のそばに座り込み、泣きはらしていたローエングラム候は、少しだけ考えたのち、首を横に振った。
「いいや。おれが犯した過ちを思えば、『おれが死ねばよかったのだ』と思う気持ちもなくはない……だがきっと、キルヒアイスは、おれの死と引き換えに生きることを望まない。おれが、キルヒアイスの死と引き換えに生きるのを、死ぬより辛いと感じるように……。そう。そうなったらあいつは、生きて姉上にまみえ、『約束を守れませんでした』と伝えねばならぬ訳だ」
 ラインハルトが、棺へと視線を移す。
「なあ、キルヒアイス。そんなの、お前は絶対に嫌だろう? だからこれは、おれが引き受ける」
 そのように語ったのち、上官らしくない本音をさらしてしまって、恥じ入った様子の顔を見せた。いらだった表情で、彼が尖った声をあげる。
「卿にしては妙な質問だな、オーベルシュタイン。なぜそんなことを聞く? 言っても詮無きことだろう」
「確認しておきたかったもので」
「なぜだ? 仮におれがそんな世界を望んだからといって、何ができるわけでもなかろう」
 それには答えず、ただ、こうとだけ口にした。
「もうしばし、お二人が生き延びる世界を探して参ります」
「なんだと?」
 驚愕する声に背を向け、彼らの部屋を出て行く。
 私はまた過去を遡り、望む世界を探す旅に出た。

      ***

 皇帝(カイザー)のお命は、これ以上引き延ばせない。外的要因は、他の人間を犠牲にしてこれまで回避できたが、彼自身の病気はどうしようもない。
 私もここで終わりを迎えることにしよう。長い付き合いのせいか、こんなに人間を離れた私にすら、彼個人に対する情のようなものがあったらしい。
 それに、私を神の端くれと考えるなら、私はいわば祟り神だ。500年の腐敗があれば有り難みもあろうが、平和な世には害しかもたらすまい。

 願わくば、次に神となる者は、博愛に満ちた慈しみ深い神であってほしい。私がここに辿り着くきっかけとなった、あの心優しい赤毛の青年のように。

Ende