世界線を超えて
その3

 その日は早くに帰らせてもらうことにして、屋敷へ帰った。ラーベナルトによれば、帰宅直前にキルヒアイス閣下より連絡があり、『くれぐれも体を大事に休息するように』とのことである。
 執事夫妻と他愛のない雑談を交わし、あたたかい湯につかる。体感では相当久しぶりであったが、彼らは昨日も私と過ごしていた。そのズレが、今の私にはむしろ心地よい。食事をとって寛ぐと、かなり前向きにものを考えられるようになった。
 今考えると、確かに自分は少々追い詰められていた。キルヒアイス閣下はもちろん、ビッテンフェルト提督の目にも余ったのは当然のことだ。
 それに、予想していたほど、キルヒアイスの慟哭に苛まれることもない。ビッテンフェルト提督の思わぬ申し出に、私は随分いやされたらしい。
 その晩、久々にぐっすり眠った。あまりに深く眠ってしまい、ラーベナルトも起こさずにおいたため、目覚めたときには翌日の昼をとうに過ぎていた。『今日も休んでよい』との旨を、目覚めた私にラーベナルトが元帥府から取り次いでくれた。
 目覚めのお茶を飲み、軽食を空の胃に収めながらゆっくり過ごすと、ようやく、まともに対策案を練られるようになった。
 たしかに、謀略は私の範疇として仰せつかった。しかし、それはあくまで貴族が貴族に対して宮廷で行う類のもので、軍人が軍人に仕掛けるものとはやや趣がことなる。鉄火場に秀でた者の意見を聞くべきだろう。
 私は、公園で出会った彼の言葉に甘えることにした。私の言を彼が信じてくれなければ、また別の方法を考えよう。

      ***

「…という次第です。ローエングラム侯──今は伯爵ですが、のちほど侯爵位を得られる──を、お救いする手立てを、共に考えては頂けませぬか」
 屋敷にお越し願い、応接間でそう依頼すると、勇猛で鳴るビッテンフェルト提督も、少なからず怯んだ様子であった。
「ううん、にわかに信じがたい話だが──」
「さようですか。では、このお話はなかったことに」
「まてまてまて、『信じない』とは言っておらんだろう! 早とちりをするな」
 ビッテンフェルトが両腕をバタバタと大きく動かして否定する。彼は声も大きいが、ボディランゲージもまた大きい。
「信じられんことだが、卿の言い方は冗談や作り話におもえん。それに、昨日の卿ときたら──。納得だ。そんなものを何度も見れば、おれとて寝込むだろうよ。立って歩けるだけで卿はりっぱだ」
 そう言い、ビッテンフェルトは深く頷いた。そして、ラーベナルト夫人の出した上等な紅茶を取り上げ、ズゾオオオと派手に音を立ててすすり、ひといきに飲み干す。有名ブランドの客人向けカップが、ガチャンと音を立ててソーサーに戻された。
「うまい。──で、卿を信じる。これまで何をして、どのような結果になったか教えてくれ」
 そう申し出られ、私は、ここまでに試したこととその結果を、わかる限り詳しく伝えた。途中、ビッテンフェルトが、戦場の専門家として気になったらしい箇所を幾つか委細確認した。それに応じつつ、小一時間ほど話をつづける。
 やがて、ここまでの周回について、すべて彼に共有がなされた。
「あいわかった。苦労したな」
「いえ……」
「いや。よく頑張ったものだ。誇っていい」
 ビッテンフェルトがそう言い、私の肩をバシバシと力強く叩く。涙がでたが、それは、叩かれて痛かったからではなかった。
 私が涙をながしたせいか、不意に、ビッテンフェルトは私の目の前へ立ち、私のことも立たせた。私が不思議に思い彼を見つめ返すと、彼は、鋼のような両腕で私を固く抱きしめた。
 温かい、というより、熱かった。
「泣くな。卿はよくやってくれた。もう大丈夫だ。今度は、おれも協力する。まかせろ。卿は一人ではない」
 彼の申し出を聞き、ますます涙がこぼれ落ちる感覚をおぼえた。10周のあいだ積み重ね蓄えた絶望、無力感、罪悪感、嘆き──それらすべてが、堰を切ったように溢れてきた。
「はい」
 やっと、それだけを答えることができた。

      ***

 ビッテンフェルト提督の提案は、いずれも自分には思いも至らなかったものばかりで、目を開かされた。一度で上手くいかなかったとしても、二度か三度繰り返せば、これであればきっと突破口が見えてくる。
 彼が、グッと私の手をにぎった。
「うまくいかなければ、また過去に戻って、おれを頼れ。別の策を試そう。何度も始めから説明させることになるが、おれは必ず、お前の味方になる」
「心配するな。戦場ではやり直しがきかんが、これに関しては、卿のお陰で幾らかやり直しができる。一度では駄目でも、いずれは上手くいく」
「頼むぞ。ローエングラム侯のお命を、おれたちが必ずお救いするのだ」
 彼の言葉に勇気づけられ、私は、この旅を始めた直後よりもずっと、希望を胸に熱く感じることができていた。
「必ずや」
 そう、私は答えることができた。

      ***

「どうして……」
 やっと、それだけを言葉に絞り出した。
 鍛え上げられたビッテンフェルトの強靭な肉体が、私に覆いかぶさっている。彼の体からは大量の血液が流れ出て、触れた私の手はぬめりを感じた。
「なぜ卿が死ぬ?」
 間抜けな質問を口走ると、事切れる寸前のビッテンフェルトが苦笑した。
「『なぜ』と言われてもな……死ぬときゃ死ぬものだ。誰にも……それがいつか、なぜか、わからんものだ……」
 ゴホッ、と、ビッテンフェルトが咳き込む。多量の血が床に撒かれた。
「ラインハルトさま!! ラインハルトさまああああ!!」
 聞き慣れた慟哭が、みずから盾となったビッテンフェルトの向こうから聞こえてくる。
 また、失敗した。しかも、事態は悪化した。
「卿は死なないはずだった」
 答える声はない。相手の目を確認すると、その目は、義眼よりなお虚ろなものに変わっていた。
「私の……せいなのか……?」
 阿鼻叫喚の地獄と化した式典会場には、問いかけに応じる者が一人もいなかった。
 立たなければ。たった一人、私の味方になると言ってくれた彼の骸をどかし、いつもの通り、生存者の救護に従事する。
 いつもより一人すくない、生きた提督たちを担架に載せて運び出させる。そして、わめくキルヒアイス閣下をローエングラム侯の遺骸から引き離し、彼も救護に送る。
 遺体の回収は、生きている者の処置が済み、時間ができてから取り組む。いつもより1体多くなった提督たちの骸を、ふさわしい冷凍棺に納め、並べおく。
 すべて済んだ後、私は、キルヒアイス閣下の病室でも、虚無と理不尽しかない高級士官クラブ(ガンルーム)でもなく、亡くなった提督たちの一時安置室へと赴いた。
 そこにはやはり、あのビッテンフェルト提督が横たわっていた。あの力強く、暖かいを超して熱かった彼が、今は力なく横たわり、冷たくなっている。
 棺のカバー越しに彼を見ていると、しばらく流さずに済んでいた涙が、また溢れてきた。
「すまない」
 もう答えない彼に向かって謝罪する。
「こんな世界線は、確定させない。こんな世界を認めてなるものか」
 そう己を奮い立たせる。
「何度でもやり直してやる」

      ***

「~~というのはどうだ?」
「駄目です」
「グッ……卿はそればかりだな! やってもいないうちから、」
「『やった』のです、提督」
 初めに比べると、きっと、夢も希望も浮かんでいない顔であることを自覚しながら、私は提督に告げた。
「他には?」
「もう思いつかん!」
 ガシャアン! と、勢いよくカップが叩きつけられ、カップもソーサーも一脚粉々にされてしまった。
 私は、それを責める気にはなれなかった。私もまた、カップ一脚といわず、屋敷中の食器を叩き割りたい気分だった。
 ビッテンフェルトはよく案を出してくれた。ここまで、更に10もの案をあげてくれた。それぞれの実行を習熟するため、同じ案を幾らか繰り返し用い、合計で50周ほど、彼の作戦に基づき巡った。
 そして、その全てが失敗した。計り知れないほど巧妙に、ローエングラム侯は必ず死んだ。
 アンスバッハだけの問題ではない。それは分かっていた。一人二人でどうにかできるレベルではない。一体何ものが、何度でも歴史をやり直せる者を相手に、これほど強固な運命を留め置き果たしているというのか。
 そればかりか、ビッテンフェルトの協力を得始めてからというものの、彼もまた、死の運命に飲み込まれるようになった。
 かばうからではない。私をかばったために命を落とした回は多いが、そうでなくとも、偶発的な事故としか思えぬ理由で亡くなっていた。
「では、この話は忘れてください」
「んなっ!? ふざけるな! そんな話を忘れられるか! おい、待て!」
「どうぞごゆっくり。私は少々、地下で用事を済ませてまいります。──夫人、提督に新しいカップと飲み物を」
 粉々にされた上物のカップを見て顔をしかめつつ、ラーベナルト夫人がビッテンフェルトに『次の飲み物は何がいいか』と尋ねる。それを背中で聞き、私は、屋敷の地下に向かった。
『タイム・リープ・マシン』を使って、この世界をやり直すために。ビッテンフェルトに全てを明かすより前に戻るのだ。
 ローエングラム侯も、ビッテンフェルト提督も死亡すると確定した世界で、これ以上、あがく気にはなれなかった。

      ***

 窓の外には目をくれず、伯に呼ばれたキルヒアイスが通りがかる前に通路を抜ける。誰とも顔を合わさぬよう移動し、程々に仕事をこなして、その日は早めに帰宅した。
 ビッテンフェルトが出没した公園は、大きく避けて迂回する。誰にも会うことなく、我が屋敷が近づく。
「あなたは神を信じますか?」
 唐突に、見知らぬ街女がそう尋ねてきた。なにやら怪しげな宗教団体の勧誘をしているらしく、小さなチラシには、神に関する説教が書かれている。
 私は、フッと笑って応じた。
「もしも『神』が実在するなら、私はそいつを殺したい」
 街女が色をなくした。
 それ以上は何も言わず、彼女の脇を通り過ぎ、私は帰宅の途についた。