私に愛をおしえて
その1

 人気のない深夜の公園で街灯に照らされ、ベンチに二人の男が座っていた。一方は燃えるようなオレンジ色の髪と屈強な肩幅とを持っており、もう一方は、白髪交じりのくたびれた髪と、軍人ばなれした青白い痩せた体を持っている。
「愛している。おれはお前を、本当に」
 目の前の恋人の青白い手を強く握り、オレンジ髪の猛将ビッテンフェルトがそう情熱的に語りかける。それから、相手の痩身をグッと抱きしめた。
 戦場にあるときと負けず劣らず熱意に満ちた猛将とは対照的に、彼に強く抱かれた総参謀長――人間味のない温度を感じさせる義眼の瞳と、病的に痩けた頬と色味の悪い肌とを持つオーベルシュタインの反応は、ほとんど無に近いものであった。
「『愛』、か」
 応じる声にもまた、機械の目同様に熱がない。ただ、ビッテンフェルトの腕から離れようとしない。彼の語る『愛』がそこに在るかはともあれ、彼らには既に肉体関係があった。
 オーベルシュタインも、相手を憎からず感じてはいた。乏しくも存在する自身の性的欲求を解消する相手として、歴代の中でもビッテンフェルトは悪くない相手であった。理不尽な暴言や暴力で自分を従わせようとすることはないし、ベッドでは知恵ある獣めいた独特の技法で快楽をもたらす。人前でこそ照れる故にかオーベルシュタインを悪く言うものの、二人きりの時には恥ずかしげもなく彼の頭脳を、そこから生み出される功績の数々を褒め称え尊重する。
「卿の気持ちを嬉しく思う」
 オーベルシュタインの応答は、淡々としたものであった。
「私にとっても、卿は実に良い相手だと思う。ローエングラム宰相閣下の施政を支えていく為にも、個人的な欲求を満たすうえでも、卿の存在は重要……」
「~~~~! まだるっこしい! おれが聞きたいのは、そういうことではなくてだな!」
 ガッとオーベルシュタインの肩をつかんで真正面から目を合わせつつ、ビッテンフェルトの声が割って入る。フラれた訳ではないのだが、彼はそんな気分に陥りつつあった。猛将の目に涙が光る。
「お前はどうなんだ? 最初は性欲処理だ、おれもそのつもりだった。だが、卿を知るほど気持ちが変わってきた。卿にとっておれはまだ、都合がいいだけの存在でしかないのか?」
 ビッテンフェルトは今にも泣きそうである。
 オーベルシュタインは無表情のままだった。ビッテンフェルトにはそう見えた。だが実際のところ、彼の内心では感情が渦巻き混沌としていた。
(わからない……)
『私も愛している』、そう答えれば満足するのだろうとは分かっている。しかし、ウソや誤魔化しで言うべきことではないし、彼もそれを望んではいまい。言うならば、本心でなくてはならない。
 では、愛していないのか? それも分からない。
(『愛』とは、なんだ?)
(私は、彼を好いている。だが、『愛している』といえるのか?)
 逡巡したのち、オーベルシュタインは薄い唇を開いた。
「……私には、『愛』がわからない。私は卿を好いている。だが、はたして愛しているのかそうではないのか、わからない」
 それは、オーベルシュタインらしからぬ歯切れの悪い回答であった。しかし、ビッテンフェルトの顔はパッと晴れた。
「なら、それでいい」
 彼は笑顔をうかべ、またオーベルシュタインをギュッと抱きしめた。
「分からんならば、おれが『愛』をうんと教えてやるからな!」

 彼らはここに自分たちしかいないと思っていた。しかし実は、彼らを後ろから見つめている小柄な存在があった。
「そう。『あい』を、しっているのね」
 その存在はつぶやいた。
「じゃあ、おしえてもらおう。かれに、『あい』を――」
 そう言い残すと、存在は空中に溶けるようにして消え去った。
      *
 ビッテンフェルトが目を覚ますと、見慣れぬ廃屋らしき部屋が目に入った。埃の重い臭いが彼の鼻をつく。うつぶせに倒れていた彼は身を起こしつつ、周囲を見渡した。
 すると、後頭部がズキリと痛む。彼は呻きながら頭に手をやった。どこかに強くぶつけたらしい。
 部屋の中は暗かった。窓があるが、板を打ち付けられており、光はほとんど入らない。
「どこだ、ここは。……おれはどうしてここに?」
 その時、彼の記憶が蘇った。彼は、帰り道で後ろから不意に頭を殴打され、そのまま意識を失ったのである。それからの記憶は存在せず、この見知らぬ場所で目覚めた。
『誘拐』、という文字が彼の脳裏によぎる。リップシュタット戦役で主だった貴族どもは一掃されたが、残党がまだ居て、ローエングラム軍の主要な提督である自分を襲ったのかもしれない。
(あいつは……オーベルシュタインは大丈夫だろうか)
 襲撃の直前に会っていた、おそらく自分よりこうした強襲に弱いであろう恋人のことを考える。自分では昏倒で済んだ威力だったが、あの彼が同じように殴られていれば、まさか……。
 胸にひやりとするものをおぼえつつ、ビッテンフェルトはまず明かりのスイッチを探すことにした。立ち上がり、壁に手を這わせてみると、すぐにそれらしい突起をみつけた。
 なんだか生臭い。そう考えつつ、ビッテンフェルトはまずはスイッチを入れた。
 照明が灯り、部屋が照らし出される。すると、彼の前に、二人の人間がいることがわかった。それも、さきほど別れたばかりの人物である。
 オーベルシュタインだ。唯一無二のはずの冷徹なる参謀長、パウル・フォン・オーベルシュタインその人が、二人、そこに居た。一人は床に転がっており、伏せられた顔は見えず、動かない。白髪交じりの特徴的な髪をもち、上級大将の軍服をまとっていて、顔はわからないが背格好はオーベルシュタインそのものだ。もう一人は、壁に体をあずけ、小さく浅い呼吸を繰り返している。
「これは……どういうことだ?」
 ビッテンフェルトがすっかり困惑し、二人のオーベルシュタインを見比べながら尋ねた。すると、浅い呼吸を繰り返している方のオーベルシュタインが目をあげ、ビッテンフェルトと視線を合わせた。彼はビッテンフェルトを見ると、ふっと表情を僅かに和らげた。
「よかった。目が覚めたのだな」
 そう彼が声をかけてくる。一方、床にうつぶせている方のオーベルシュタインは一言も喋らない。
「あ、ああ。……その。こいつは、一体?」
 ビッテンフェルトが、うつ伏せたまま動かぬ方のオーベルシュタインを指して尋ねる。
「……見てみるといい」
 浅い呼吸を繰り返しつつ、かすれた声で息のあるオーベルシュタインは応じた。
 ビッテンフェルトがおそるおそる、動かぬ体に近づく。その身をそうっとひっくり返してみると、その顔面は無惨にも潰され、赤黒い血を滴らせているとわかった。さらに、腹部からも夥しい出血がある。体は冷たい。体温が低い、というレベルではない。そのオーベルシュタイン(?)は、絶命していた。
「うっ……!」
 ビッテンフェルトは呻き、吐き気をおぼえた。口元にとっさに手をやる。なんとか、胃の内容物をもどすことはこらえた。
(どういうことだ? なぜ、オーベルシュタインが二人? そしてなぜ、こいつは殺されている? どっちだ? どちらが本物なのだ?)
 ビッテンフェルトは困惑し、その脳が答えを求めて激しく稼働する。彼は一見粗野だが、けっして愚かではない。見た目の印象通りの愚か者であれば、ローエングラム公の目に止まってはいなかっただろう。
 悩む彼に、息のあるオーベルシュタインが声をかける。
「先ほどまでのことを、覚えているか?」
「……いいや。いいや、わからん。頭を殴られて、気を失って……気づいたら、ここだった」
 ビッテンフェルトが青い顔をしたまま振り返り、オーベルシュタインに目を向けながら応じると、彼は小さく頷いた。
「そうか。では、状況を説明しよう……」
 彼曰く、彼もまた気づいたらここに運ばれており、そこには既にビッテンフェルトの姿があったという。そして、彼らは一度、共に脱出を試みた。そうしたところ、オーベルシュタインの偽者が現れ、彼らの行く手を阻んだという。
 偽者のオーベルシュタインはビッテンフェルトに襲いかかり、これをビッテンフェルトが返り討ちにした。その結果、偽者は息絶え、そこで血にまみれて倒れている者がそれだという。
 その後、ここの照明が消えてしまったらしい。その前までは、偽者の顔は潰れていなかったとのことである。しかし今、ビッテンフェルトが照明を点け直したところ、今のように潰された状態となっていた。
「照明が消えたとき、新手がきたと思った。暗くて見えなかったが、辺りを警戒していた。卿が倒れたとわかり、私は一人、敵の攻撃を覚悟しつつ、死んだふりを装っていた。しかし、卿が目覚めて照明を灯したとき、敵の姿はなかった。その妙な死体と、我々二人だけだった。……ともかく、卿が無事でよかった」
「ふむ、そうか……」
 ビッテンフェルトは頷き、まずは、オーベルシュタインの偽者だという奇妙な死体を検分した。
 彼には応急処置レベルの医学知識しかなかった。それでもどこか、この死体に違和感をおぼえる。しかし、その違和感の正体は分からない。照明が消えている内に潰されていたという、この顔面のせいだろうか? 髪型や背格好、服装などから、オーベルシュタインに変装していたらしいことは予想できる。
 顔を潰した理由はなんだ? そっくり同じ顔ではなかっただろう。しかし、もう死んでしまった彼の顔を潰す理由は?
(あるとすれば……、生きている方こそが『偽物』で、死んだ方が『本物』だと知られたくない場合)
 ビッテンフェルトはチラリ、と振り向き、息がある方のオーベルシュタインを見た。彼の顔は健在で、それはよく知るオーベルシュタインの顔に相違ない。
(生きているこいつと、死んでしまったこいつ。どちらが本物のオーベルシュタインだ?)
 一抹の不安とともに、ビッテンフェルトのこめかみに冷や汗が流れ落ちる。彼は、ぶるぶると顔を振り、パシン! と両頬を両手で叩いた。
(いかん! 信じろ。おれはオーベルシュタインの奴と付き合ってきた。あの陰気な顔も、間近から何度もようく見ている! おれが見間違える筈はない。この生きている方がきっと本物だ)
 ふう、と彼は深呼吸した。それから、キッと目つきを鋭くし、オーベルシュタインへ目を向ける。
「ともかく、ここから脱出するとしよう」
 そう声をかけると、オーベルシュタインも頷き返した。
「ああ。出口を探そう」

 二人は元いた部屋を出た。そこは、どこかの大きな屋敷の玄関ホールであるらしかった。ビッテンフェルトやオーベルシュタインの官舎でも、オーベルシュタインの私邸でもない。ビッテンフェルトに見覚えの無い屋敷である。
 彼らが元いた部屋はどうやら物置であり、ここは地上階であるらしかった。物置の並びには部屋が二つあり、目の前には玄関らしき大扉と、その正面に上階へと続く階段がある。玄関ホールを挟んで向かい側には、扉のない入り口ごしに広い部屋が見える。大きな長机と多くの椅子が並んでおり、そこは食堂と思われた。
 二人は、まっすぐに玄関とおぼしき大扉へと向かった。扉には、内側で厳重に鎖が巻き付けられ、古風な南京錠で施錠がなされていた。
「ここからは、出られなさそうだな……」
 ガチャガチャと扉を軽く揺らして確かめつつ、ビッテンフェルトは呟いた。オーベルシュタインも頷く。
「裏口がどこか、開いているところもあるかもしれん。それがないなら、鍵を探すとしよう」
「そうだな」
 扉には小窓がついており、ビッテンフェルトはそこから外を覗いてみた。そこには、真っ暗な闇が広がっている。空には星が輝いているようだ。
「今、何時だろうな……」
「さあな」
「おれたちが居なくなったことに、誰か気づいてくれるだろうか」
「朝になるのを待たねばならぬだろうな。それまで我々は生き延びねばなるまい」
「そうだな」

 二人は、玄関扉の鍵、または開いている裏口か、そこにも鍵があるなら裏口の鍵を探すべく、屋敷の探索を始めた。屋敷からは人の気配が感じられなかったが、襲ってきたという偽者のオーベルシュタインの顔を潰した何者かが存在するはずである。二人は互いに注意を払いながら屋敷の探索を進めた。

つづく