触手オベ
その3

「断る」

 蒼白になりつつ、オーベルシュタインが答えた。とはいえ、拒否権などないのだろう。寝室の中で、キルヒアイスの姿を模した化け物から距離をとろうと後ずさり、背中が扉にドンとぶつかった。どうにか舌を噛み切ろう、と決意し、舌を伸ばして歯を立てる。
 力いっぱい噛みしめた前歯は、何もとらえることなくガチリと合わさった。

「噛めませんよ」

 キルヒアイスが、生前の本物のように優しい笑みを浮かべて言った。オーベルシュタインは、胸の内に絶望が満ちるのを感じた。

「……いやだ。冗談ではない。化け物の苗床になるなど、死んだ方がマシだ」
「傷つきますね……しかし、同意頂けないことは分かっています。我々とて、異星人の繁殖のため身体を提供しろと言われたら、同じ反応をするでしょう」
「ならば、どうする。意識を奪って身体だけ使うか? 泣こうが喚こうが押さえつけて犯して使うか? 狂って正気を失うのを待つか? ……私にできることは、精々、早めに気が狂ってくれるのを祈ることだけだろうな」
「どれも出来れば避けたいのです。貴方に意識を保って頂けませんと、出産が難しくなります。貴方の意思を曲げたり、もちろん、発狂させた場合も、貴方の寿命が大幅に縮んでしまいます。場合によっては、数日と保たずに死なせてしまうかもしれません。同意頂けないことは承知しておりますが、貴方自身の意思で、どうにか承諾して頂きたい」
「そんなことが出来るはずないだろう」
「やってみなければ分かりませんよ。それに……」

 スウッ、と、彼らの居場所の景色が変化する。オーベルシュタインは、自身の屋敷の食卓についていることに気づいた。すぐ後ろに、キルヒアイス似の化け物が立ち、背後からナプキンをオーベルシュタインの首に着けている。

「先ほども申し上げましたが、私は、気高い貴方のことが好きなのです。ですから、アプローチして、OKを頂く努力をしますよ」

 まばたきをする一瞬のうちに、何も無かった食卓の上に、おいしそうな料理が所狭しと出現していた。どれも、オーベルシュタインの好物ばかりだ。

「さ。どうぞ。お腹がお空きでしょう」
「……現実の私は、こんなものを食べてはいないのだろう。どうやって栄養を与えている?」
「ええ、まあ。栄養を込めた液体を、貴方に飲ませています。しかし、食事は、栄養を採ることだけが目的ではありません。心を満たすのも立派な役割です。さ、お召し上がりください。本物と同じ味と、匂いと、食感がするはずです」

 そう言いつつ、キルヒアイス(?)は、執事のように料理を少量ずつ取って皿に盛り付け、オーベルシュタインの目の前に置いた。それらが、ちょっと食指を動かされていたものばかりだったので、オーベルシュタインは無駄な言い訳を諦め、少量ナイフで切ってフォークで刺し、口に運んだ。噛んで、咀嚼してみると、キルヒアイス(?)の言ったとおり、確かに、期待したとおりの味と匂いと食感がした。

「私の記憶が正しければ、最初、私は服を引き剥がされ、力ずくで押さえ込まれて無理矢理に犯されたと記憶しているが」
「申し訳ありません」

 苦笑しながらアッサリ謝罪され、拍子抜けして、オーベルシュタインは追求する気を削がれた。

「交信するにも、最初の交わりが必要なものですから。酷い真似をしてすみませんでした」
「……まあいい。異種生物に、人間の倫理を説くなど馬鹿馬鹿しい」
「ありがとうございます。ですが、交流できるようになった今は、貴方との間にきちんと合意を結びたいと思っています。貴方を解放することも、自由にして差し上げることも、もちろん、死なせることもできませんが、それ以外でしたら何でも叶えて差し上げますよ」
「ほう、何でも?」
「……あ。いえ、その。遠くの星のシステムをどうこうとか、人間をどうこうはできませんよ。嫌だなあ」
「チッ」
「でも、ここでは貴方の望みを何でも叶えて差し上げられるんですよ。例えば……ほら」

 食事が消え、食卓も屋敷も消え、オーベルシュタインとキルヒアイス(?)は屋外の雑踏の中に立っていた。周りに人が大勢歩いている。オーディンの市街だ。
 ふと、離れた場所に、視力に障害があると思しき白杖をついた少年が歩いているのが見えた。嫌らしいことに、幼少のオーベルシュタインに酷似している。不自由そうに壁にも手を這い、やっとで歩く少年は、その辺に無造作に置き去られた荷物に時折足をとられていた。

「そう。ああいうものに昔、よく進路を妨げられたのだ……」

 オーベルシュタインが呟く。

 すると、雑踏の中から元気そうな愛らしい少年少女が現れ、目の不自由な少年に口々に声をかけた。

「だいじょうぶ?」
「どこに行くの?」
「手伝ってあげるね」

 少年が、子供たちの助けを得、ホッとしたような笑みを浮かべながら去って行く。彼の進路を妨げる物は、もう何もない。

「まあ、偉いわね」
「ボク、困っているなら、いつでも声をかけるんだぞ。皆、きみを喜んで助けてくれるからな」

 大人たちが、少年を救った子供たちを称え、少年を励ましている。

「どうです?」

 キルヒアイス(?)が声を掛けた。目の前のシーンに目を奪われていたオーベルシュタインが振り返る。

「あなたの欲しかった世界ですよ」
「……これは、私が見ている幻覚だ。現実ではない」
「ええ、まあ。でも、悪くないとは思いませんか?」
「実現してこそ価値のあるものだ」
「現実に戻っても、必ず実現できるとは限りませんよ?」
 その言葉に、オーベルシュタインは、すぐに言い返すことができなかった。
「仮に帰れたとしても、必ず実現できる訳ではないでしょう? でも、ここでなら100%叶えて差し上げられる。貴方の願いを一つ残らず叶えて差し上げる。それと引き換えに、協力して頂けませんか?」

 オーベルシュタインが再び正面に向き直る。身体の不自由な少年が、子供たちの輪に混ざって、幸せそうに去って行く。

「……もし私が、どうしても同意しなければ、どうする」
「そうですね。……どうしても無理となったら、不本意ではありますが、無理矢理に協力して頂きます。しかし、果たして1個体でも無事に産まれるかどうか。貴方が亡くなったら、空から貴方の仲間が攻撃してくるかもしれませんし、もしそうでなかったとしても、我々は、再び危険を冒してヒトを呼び寄せなければならなくなります」
「……私が協力すれば、ヒトの犠牲が、これ以上増えない……?」
「貴方が死んでしまったら代わりは要りますが、それまでの間はそうでしょうね」

 それを聞いて、オーベルシュタインの中で覚悟が決まった。

「いいだろう。好きに使うが良い」

 キルヒアイスの姿をした異種生物は、それを聞いて、人好きのするキルヒアイスの顔で嬉しそうに笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。良かった」

 キルヒアイスが近づいてきて、オーベルシュタインの細い身体をギュッと抱きしめた。私だけに見えている幻覚であるからまだいいものの、こんな夢を見ていたと金髪の上官に知れたら、怒り狂って処断されそうだ。さらに、キルヒアイス(?)はオーベルシュタインの痩けた頬に口づけた。

「もう、最初のように痛くも苦しくも致しません。気持ちよくて、幸せな気分になれるようにして差し上げます」

 オーディンの市街と雑踏が消え、代わりに、最初に見たオーベルシュタインの寝室が現れた。彼が幼い頃から寝ている天蓋付きの広いベッドに仰向けで押し倒され、優しい笑みを浮かべた赤毛の長身の青年が覆い被さってくる。

 まさか、キルヒアイスに抱かれる日が来るとはな……と、オーベルシュタインは、幻想の寝室の中で瞼を閉じた。